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雛鳥の旅立ち、翼の落ちるとき
登場人物一覧
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その日、部屋の模様替えをしようと思い立ったのは本当に何となくだった。
机の中、引き出しの奥から偶然にも見つけてしまったのは一枚の写真。
それは遠い記憶。たった一枚の写真にだけ残る微かな記憶。
運命に出会う前、雀の雛が巣の中で温もりに包まれていた頃の唯一の面影。
「懐かしいな」
懐かしい、ナチュカだった頃。けれどただそれだけだ。それ以上は特にない。
長いようで短い人生を懸けた旅だった。
この頃のままでは、きっと成し得なかっただろう旅だった。
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8歳の時、運命に出会った。
それは遅かれ早かれ、後に茄子子と名乗る少女が出逢っただろう運命だった。
ナチュカ・ラルクロークという娘が天義に生まれ、シェアキム・ロッド・フォン・フェネスト六世が当代の教皇である以上、出会わぬわけがない。
――2年。
ナチュカ・ラルクロークにとっては長い旅の始まりはそれを乗り越えるところからだった。
「やっぱり、このままじゃだめ」
毎日早起きをして、お勉強をして、お手伝いをして、困った人を助けて――ナチュカはとても良い子だった。
おかあさんも褒めてくれたし、教会の司祭様も熱心だと褒めていた。
善行を積むことは楽しい。でも、それだけだ。このままじゃあ、いつになってもシェアキムには届かない。
シェアキムを私のものにするのなら、このままではいられない。
シェアキムを私のものにするなら――
どれほど頑張っても、どれだけいい子にしていても、それらは一般的にいい子だというだけだ。
シェアキムを手にするにはそれでは到底足りないことをナチュカは分かっていた。
一般的な人々の為す一般的な善行で彼をものにすることができないのなら、自分1人の力で出来ないのなら別の方法をとればいい。
多くの善行を積む傍らで、ナチュカは欠かさず考え続けた。
(……そうだよ、これがいい。私一人じゃあどうしようもないなら、どこかの宗教組織を乗っ取って慈善事業をするんだ)
思い至ったその方法に、その日のナチュカは多少なりともテンションが高くなった。
そうすれば同じ宗教者としても、彼にまた一歩近づける。
たかが8歳やそこらの幼子の思考とは思えぬほど冴えわたったのも全て、シェアキムを手に入れるためにのみある。
それでも2年。ナチュカはずっとずっと良い子に、親孝行をしてきた。
地道に小さな善行を1つ1つ積んでいくのは楽しかった。
何よりも――親から与えられた名前を、家を捨てて出ていくという悪行を帳消しにできるだけの善行は積んでおかなきゃいけなかった。
それが8歳から10歳までの2年間で積んできた善行の理由だった。
その上で考える。
ただ親を捨てるのでは、家を捨てるのではやっぱり悪行だ。
「おかあさん、私、巡礼の旅に出てみたい!」
敬虔な信仰者を演じてナチュカ・ラルクロークは家を出た。
母親には明日の朝まで待てないからとだけ置手紙を残して、ナチュカであった少女は満天の夜空に一歩を踏み出した。
数多の星々が流れる星雲の輝きが夜を照らしていた。
真球を思わせる大きな満月が不気味なまでに星々を呑む輝きを見せていた。
それはまるで、名もなき少女の門出を祝福するようで。
その日の彼女にとって、大いなる月と今はまだ届かぬ大いなる彼を重ね合わせた。
(待っててね、シェアキム! 私が貴方を手に入れるんだ!)
大いなる月は静かに名もなき少女を見下ろしている。
穏やかに静かに、そこに浮かんでいる。
きっと、私を待っているんだとそう思えるほどに、静かに。
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名もなき少女の旅路は長いものとなった。
その旅程はちっとも寂しくも辛くも苦しくもなかった。
巡礼を装って始めた旅はどこを終着点にするかなんて考えたこともなかった。
どこかに手頃そうな新興宗教でもないかと、探りながら、滞在する都度に善行を重ねていく。
それに、想像していたよりもずっと穏やかな道のりだったのも事実だった。
偶然に出会う人々の多くは名もなき少女に対してなぜか同情してくれた。
憐れみを以って接してくれた。
「君のような幼子でありながら巡礼をするなんて……辛いだろう、寂しいだろう。
今夜は泊っていきなさい」
ある信徒はそう言って少女に宿をくれた。
「なんと、その年で巡礼とは、立派なことです……これをあげましょう。
お腹がすいたら食べなさい」
同じように巡礼をしているらしい司祭はそう言って食事をくれた。
その都度、少女は「いえ、全然辛くなんてありません。むしろ楽しいくらいだよ」と否定する。
それは何の躊躇いもなく真実であり、事実だった。
少女からすればその旅路さえもいつか彼を手に入れるための道でしかないのだ。
何も辛いことなんてなかった。楽しくさえ思えた。
本当にそうだったし、そう思っていた。
それなのに人々は勝手に同情して、憐れんで、勝手に世話を焼いてくる。
それを受け入れることは悪行ではないだろう。
1年を過ぎ、2年目の春が落ち着く頃、自分の考えが少しだけ甘かったことを知った。
天義という国では、少女の望むような組織は少なすぎる。
陸路で幻想に入るか、海路で練達を目指すか。選択肢は2つ。
より新興宗教と呼ばれる物が成立しやすそうなのはどちらか。それを考えたときに、少女は船に乗った。
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「ここが……練達……」
まず目を瞠ったのはその明るさだった。
眠るということを知らないのか、その町は煌々と輝いていた。
幼い少女でさえもその国が天義よりもかなり進んでいる国の在り方であることを思い知らされるほど、その文明は明るく輝いて見えた。
地上にあるのに、その輝きは旅立ちの日に見た月のように輝いていた。
(すごい! すごいすごいすごい! ここなら、私が求めてるものがある気がする!)
あれほどに輝かしい町なら、新しい信仰の1つや2つ、仄暗い環境の1つや2つ。
積むべき善行の数々がきっとある。
(見ててね、シェアキム。私はきっと、ここで貴方を手に入れる手段を見つけ出す)
手摺を握る手に力がこもる。
(……その前に名前を考えないとだね)
一つ息を吐いた。
もうずっと前から、ナチュカ・ラルクロークではない。
名もなき旅人の少女――そうだ。次の名前を決めよう。
(それにここで暮らしていける知識も必要だよね! やることいっぱいだ!)
ふと空を見た。そこにある月は遠く、白く輝いて見えた。
あの日よりもなお遠くになった気のする月――それでも、その月はあの日よりも身近に感じた。
着実に、確実にシェアキムを手に入れるための手段へと近づいている――そんな気がして胸が躍る。
不安も、待ち受けるだろう困難も、何も辛いとは感じないだろう。
それでも決して手に入れることなんて出来やしないと思えた天義にいた頃よりは遥かに近づいている。
手を月に伸ばして、少女は笑みをこぼした。
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土の大地を踏みしめる。
(羽衣協会、ここからだね)
練達に来てから3年が経った。
辿り着いた頃からもぐんと背は伸びて、その文化を大いに吸収して楊枝 茄子子(p3p008356)はその場所にたどり着いた。
あの日から3年が経って、もう少し計画の練り直しもした。
シェアキムと結婚する。そのために必要な善行――そのためにすべきことを考え直した。
突き詰めて突き詰めて、思い至ったのは――
それぐらいのことをすればきっと、あの人だって私の元に来てくれるはずだ。
ふと思えばシェアキムと出会ってから、同じくらいの時間が流れているのだろうか。
そっと施設の扉を握り、そのまま静かに音を立てた扉を押し開いた。
ボロボロの扉の向こう側に踏み出した。