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穏やかな秋
登場人物一覧
ひゅう、と木枯らしが冷たく滑らかに回言 世界(p3p007315)の身体を撫でていく。視界の隅で舞い上がった黄色の木の葉を見て世界はふと温かなものが飲みたくなり、ゆっくりと周囲を見回した。幸いにもここは街中で、喫茶店や屋台など温かな飲み物を売っている場所には事欠かない。手元の紙袋に視線を落として少し考えると、世界は近くの喫茶店を選んで店の中へと入っていく。
「いらっしゃいませ! 空いているお好きな席へどうぞ」
店内に入った世界を笑顔で出迎えたのは上品でクラシカルな制服に身を包んだ給仕の女性だった。世界はそれに軽く会釈をして、穏やかに陽の差している窓際の席を選び座る。ふかふかとしたクッションの付いた椅子は座り心地がよく、それだけでも喫茶店としては好感度が高い。
「……季節のケーキセット、か」
テーブルの端に置かれた冊子型のメニューを開くと、世界は1番最初のページに出てきた商品に目を落として呟いた。喫茶店らしくケーキと飲み物がセット価格になっているようで、"今月のケーキ"と書かれたページには「豊穣産さつまいものタルト」の文字と共に黄色い餡のタルトの載ったイラストが描かれている。とりあえず一通りメニューをめくった後、世界の手はまた自然とさつまいものタルトのページに戻る。熟考。世界は手を上げて給仕の女性を呼び止めると、"今月のケーキ"と紅茶を指差しながら注文した。
「季節のケーキと紅茶のセットになります」
ほんの5分ほどで給仕の女性が注文の品を運んできてくれた。ケーキとセットで運ばれてきた紅茶は大きめのティーポットにたっぷりと数杯分の湯が注がれており、好みの濃さに調節できるようにティーポットの中の大きな茶漉しを取り出して置いておくための小皿やポットを保温するためのティーコージーまで付けられていた。どうやらこの喫茶店の主人は相当紅茶にこだわりがあるらしい。確かメニューに書かれていた紅茶の産地も彼の出身世界でいう『スリランカ』くらいには紅茶の産地で有名な地域だ。温まった白磁のティーカップに紅茶を注いでみると、ふんわりと立ち上った湯気から微かな清涼感を含んだ甘く濃厚な香りが世界の鼻腔をくすぐった。心落ち着くその香りに世界は思わず舐める程度にその紅茶を口にしてからカップを置き、一緒に運ばれてきたシュガーポットに手を伸ばして1個、2個、3個……と角砂糖をいくつか入れてもう一口。好みの甘さと、その甘さに負けない紅茶の濃厚なコクを感じると満足そうに彼は頷いた。そのままフォークを手に持つとさつまいものタルトに手を付ける。
「おっ、フォークが通らない」
世界が嬉しそうに小さくそんなことを呟く。硬いわけでは決してない。しかしながら、丁寧に裏漉ししたさつまいもをたっぷり、みっちりと使ったのであろうそのフィリングは熟したさつまいも特有の粘り気を湛えており、フォークで切ろうとするとゆっくりとフォークが下降していくのだ。ようやくサクッとした感触と共にタルト部分が切れたのを確認すると、世界は慎重にその一欠片を口に運ぶ。
「美味い……」
口に含んだ瞬間にまず口の中で感じるのは発酵バターの芳醇な風味と微かな塩味、それからどっしりと甘いさつまいもの甘味が広がる。柔らかな口当たりとコクはバターとさつまいもの他に生クリームも使っているのだろう。余韻を楽しんでから世界は紅茶を一口飲んで一度余韻をリセットしてからまたさつまいものタルトを一口食べる。そんな楽しみ方をしていたら、さつまいものタルトはみるみる内に皿の上から消えていってしまった。どうしてケーキは食べると消えてしまうのか。なんて至極当然のことに無常さを感じてしまうくらいにはあっという間にケーキを食べてしまって世界は思わず卓上のメニューをもう一度開く。"季節のケーキ"欄を舐めるように見回し、「テイクアウトOK」の文字を発見すると帰り際に買って帰ろうと静かに決意すると紅茶をもう一口。
「……まだ結構余ってるな」
ティーコージーで保温していたポットの中身を覗き込むと、まだたっぷりと紅茶のおかわりはあった。ケーキは食べ切ったものの、これで用済みとばかりに紅茶を残していくのも勿体無い。しばし考えた後、世界は傍らに置いておいた紙袋の中身から本を1冊取り出した。この喫茶店に来る前、街中にあった書店で買ったものだ。本当は家に帰ってから読もうかと思っていたのだが、せっかくこんなにたっぷりの紅茶があるのだし店内も空いている。暫くのんびり読書でも楽しませてもらおうと世界は表紙を開いた。
「……」
落ち着いた雰囲気と1人客が多いことも相まって、店内は給仕の女性が時折注文を取る以外は食器が触れ合う音やカップを置く音、新鮮な湯が湧くこぽこぽとした音以外静かなものだった。ぱらり、ぱらり。そこに世界が本のページを捲る音が追加される。世界は何ページか捲った後にティーカップを手に取ってほんの少し紅茶を口に含み、また文字列の海に没頭する。すぐ隣にある窓から注がれる陽光はいつまでも穏やかに降り注いで彼の身体を温めていた。
「……おっと」
それからどれくらいたっただろうか。世界がページを捲る手を止めて、ティーポットから紅茶のおかわりを注ごうとする。しかしティーポットの中身は尽きかけていたのか、ちょろりと少量の紅茶がティーカップに注がれて、それで終わりだった。名残惜しさを感じながら、世界は再び給仕の女性を呼び止めさつまいものタルトを1ホール分テイクアウトしたい旨を伝える。その準備をしてもらっている間に残った紅茶を飲み干して、世界は席を立った。会計カウンターで給仕の女性が小さな紙製の箱に入れたさつまいものタルトを手渡してくれて、世界はその分も含めて会計を済ませる。
「またのお越しをお待ちしております」
「ごちそうさまでした」
本の入った紙袋とタルトの箱、2つを抱えて世界は喫茶店を出る。時間が過ぎて外はほんの少し寒さを増したものの、太陽はまだ沈み始めてはおらずずっと暖かに世界を照らしていた。
「さて、家に帰らないとな」
世界は家の方向へと足を向けて、ゆっくりと秋の気配を堪能しながら歩いていく。穏やかに静かに。今の彼はただ、それだけを望んでいる。