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一欠片の非日常
登場人物一覧
音のない夜。
水面に雫を垂らすように、ささやかな足音ですら周囲に響き渡る。そんな夜だ。
買い込んだ食料品を収めた紙袋を持ち直しながら歩みを進めても、人とすれ違うことはない。人の気配がとても遠い。
幻想ならば月がまどろむような時間でもなければ酒場などの賑わいが伝わってくるものだが、その気配も遠く、薄い。
薄い、というだけで感じないわけではない。現に、目の前には小さな塊が蹲っている。
夜に呑まれた世界に対して肉体と精神の疲弊を避けるためか、はたまた外敵から己を守るためか。壁に背を預け、蹲ったままのそれは近付かなければ生を感じにくい。
しかし、がさりと紙袋が音を立てれば、髪の隙間から突き刺さる視線。欲を隠しもしないそれを浴びながら、口を開く。
「少年、此処で何をしている」
「……」
「浮浪者の真似事をしているわけではあるまい。いや、してはいないとしても、そう見えることが問題だ」
浮浪者自体を否定するわけではないが、まだ外で生きる術を身につけているかも怪しい身なりの少年では、夜を越えることも難しいだろう。そもそも、親の庇護から離れている事実は犯罪を招く可能性が高い。どちらにしても、秩序を壊す芽となるだろう。
「着いてこい。貴様が此処にいることは看過できない」
抱えた食料を少年から見えるようにして告げれば、逡巡するように視線が外れる。答えを出す前に足を進めれば、遅れて響いてくるのは軽い足音。未だ躊躇いがちな歩みに合わせて路地を進んでいけば、拠点としている薄汚れたボロ屋が見えてきた。躊躇いの気配は強くなる。
それでも構わず中に入り、買ってきたものの整理を済ませると、漸く少年が顔を出した。
適当に出してきた椅子を叩き、台所へ。今の少年の様子から見て、長い間食事を取っていなかったのは明白だ。時間をかけずにすむ、簡単な炒め物と端材のスープ程度があれば充分だろう。
野菜を刻む音、くつくつと湯が沸く音。熱されたフライパンの上で野菜が踊れば、更に音が広がる。後ろからは落ち着かなさそうに椅子を軋ませている様子が伝わってくるが、鍋肌で調味料を焦がせば、その匂いに意識が向いてきたらしい。おとなしくなった少年の前に名前をつける意味もないような料理を出すと、喉を鳴らして釘付けになった。
「食え」
それだけ告げて、部屋の端に腰を下ろす。此処まで来ると、少年の中に躊躇いはなかった。食事を始めるのを横目に見ながら、刀を取り出して刀身を確認する。時間のある時に手入れをせねば、武器の傷みは速い。熟達した技術を持っていれば損傷も少ないが、それでも手入れは必須だ。
鈍く光る刀身をゆっくり眺め、刃こぼれがないことを確認していると、少年の食事は終わったらしい。興味深そうな視線が注がれているのを感じながら、口を開く。
「終わったか」
「……うん」
「なら、さっさと帰れ。身なりも綺麗だから家も近いだろう」
「嫌だ! 帰らない」
明確な拒絶。余程告げられたくない言葉だったのだろう。
帰らない、ということは、帰れる家があるということだ。そこに帰らないというのなら、家に何かあるのがうかがえる。少年は興奮したまま言葉を続けた。
「僕は冒険者になりたいのに、お父さんは真っ当に働けって! どうしてって聞いても、お前には無理だ、普通に働くのが一番だって! だからそのまま、家から出てきたんだ」
さみしそうに、かなしそうに。自ら飛び出してきたというのに、捨てられた犬のような顔をしながら、少年が視線を落とす。
「お前の父はよっぽど現実が見えているな」
「どうして? 僕だって立派な冒険者になれるよ! 大変なことはいっぱいあるかもしれないけど……でも、自分一人でだって、生きていける」
「生きたいなら、俺からあの場で盗むぐらいはしただろう。それも出来ないようではな」
ぐ、と言葉に詰まる。苦虫を噛み潰しながら、それでも納得は出来ないのか、ただただ押し黙る少年を前に息を吐く。
「なら、明日まで付き合え」
「――え?」
「寝心地は悪いだろうが、その寝床を使え。寝れずとも身体は休めろ」
刀を納め、少年の使った食器を手に取る。何か言いたそうに口を開きかける少年を無視すれば、諦めたように寝具の中へとその身を沈める。不安、疲れ、安心感。様々な感情により、寝息が聞こえてくるまで時間は掛からなかった。
「これを使え」
呆けている少年に手渡したのは、非力な身体でも扱えるような軽さを重視した剣。それでも、少年にとっては重くのしかかるものだろう。戸惑う少年に、平野を指す。
「その辺りの魔物を倒してみろ。街に近い場所で、見通しもいい。冒険者体験としては丁度いいだろう」
「冒険者、体験……ぼ、僕が、魔物を倒すの?」
「冒険者に、なるのだろう? ならば、魔物退治など当たり前のことだ」
周囲に、目が泳ぐ。魔物を探すような目ではない。助けを求めるように、縋る先を探すような目だ。庇護の中で育ったからこそ、当たり前に外に助けを求められる。
けれど、今は助けは来ない。震える足は歩むことも出来ず、切っ先を定めることも出来ない。そんな躊躇いを見逃すほど、魔物は甘くなかった。
離れた場所で様子を見ていた筈の獣型の魔物は一呼吸の間に野を駆け抜け、鋭い牙を剥いた。
「――うわあああ!!」
遅れて気付いた少年の叫びは、すぐそばで己の鼓膜を揺らす。少年の柔肌に突き立てられる筈だった牙は旨くもないであろう己の腕を喰み、皮膚を破いた。
血が宙を舞い、息を呑む少年の息遣いが聞こえる。少年の頭には、同じように喰い破られる自身の姿が見えたのだろうか。――そんな未来など、今この場に置いては起こり得ない。
口の端を吊り上げる。人を恐れさせる笑みだと、自覚していても止めようとは思わない。記憶を失っていたとしても分かる。これこそが、俺の本質なのだから。
一閃。
それで、充分だった。
地面に倒れ込んだ身体から、鮮やかな血が流れ出ていく。急速に命が失われていくその光景に、腰を抜かした少年はただただ震えていた。
「冒険者というのは恐れはしても躊躇いはしない。進むための足踏みを出来る者……普通の暮らしができない、俺のような者しかなれない」
踏み出すことすらできなかった少年の顔が、くしゃりと歪む。
「だが、躊躇う事が出来る者は、秩序を守り生きていける」
俯きかけた顔が上がる。秩序。言葉を追うように、少年の口が動く。少年の父親が求めていたのは、平穏に、当たり前の日々。危険の少ない、安全と安定。変わらない、安寧秩序。
「それでもなお、冒険者になりたければ立ち向かえる大人になってからでも遅くは無い」
未熟なまま、急く必要はない。充分に鍛錬を積み、身体を作り、そうして親に向き合い、説得をすればいい。
少年の顔が、今度こそ落ちる。けれどそれは、逃げではない。理解をして、納得をしたからこその、首肯だった。
日が暮れ、昼とは違う夜の賑わいに包まれた頃。
昨日の夜のボロ屋とは違う、ごく普通の家の前に少年と共に訪れていた。
「おじさん……」
少年からの呼び掛けに、思わず眉間に力が入るのを感じる。けれど、暗い顔をしている少年はそれには気付かず、ひたと家の扉を見つめている。
「きっと、お父さんもお母さんも怒ってる、よね……」
「あの魔物よりもよっぽど怖くない相手だ、拳骨程度で済むなら恐れることはないだろう」
「拳骨……」
魔物よりは怖くない。だが、拳骨も嫌だ。
そんな感情を如実に現しているが、一息置いて、漸く少年は家の戸を叩いた。その頃には既に離れて様子を見ていたが、あまり間を置かずに開かれた扉から、両親と思しき二人が飛び出してくる。強く抱きしめるその姿から、どんな気持ちでいたのか想像するのは容易い。きっと、少年にも伝わっていることだろう。
その景色を前に、思うことは一つ。
全く、俺らしくない事をしてしまったな……
そうして戻るのは、いつも通りのあのボロ屋。
少年にとっての当たり前に戻ったように。
俺もまた、当たり前の日々へと戻っていった。