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海辺の特訓、密やかに
登場人物一覧
夏の昼下がり。蝉の鳴き声も都会の喧騒も遠く、けれど太陽は照り付ける。
そんないかにも「夏っぽい」日がやってきた、練達の海辺にて。
わいわいきゃあきゃあと燥ぐ人々の隙間を縫って、黒いビキニを纏った緑髪の少女が砂浜をぽてぽてと歩いていた。
海辺にいるには如何にも目立つ髪色であるけれど、ここは現代でありながら幻想を含む練達という国。髪色如きでいちいち気にしては生きていけないのだろうか、彼女に向けられる視線はない。……たとえ仮に向けられていても、あまり気にしないか気付かないかもしれないが。
それはさておき。
彼――ボディ・ダクレ、正確には、いまの姿の彼を指す雛菊であろうか。
そんな雛菊が、機械混じりの肉体を駆る人工知能という出自でありながら錆びなどになりかねない海へわざわざ来ていることにも、理由がある。そのまま海に纏わるものだ。
内容を端的に言うならば、『上手く泳げるようになりたい』という、雛菊の本来の姿からすれば非常に子供っぽい――あるいは愛らしい――ものであった。年齢を指すならばさほど不自然でもないはずだけれど。
つまり要するに、より上手く、早く泳げるようになる為の秘密の特訓なのだ。
ただ、雛菊には『秘密』という自覚はない。個人でやる理由もおそらくない。ないのだが、何故だか一人で此処に来ていた。
勿論雛菊とて人脈豊かなイレギュラーズだ。誰かに言って手伝ってもらう、という合理的手段は取れただろう。けれどそうしていない。そんな微かなロジックエラーに気付かないままに、雛菊は特訓を進めていった。
ざばりと音と飛沫を立てて海に入ると、水に触れた先から抵抗するような感覚がやってくる。
腰から先が浸かったのを確認してから、機械故か躊躇わずに水に顔をつけると――ぐらり、と頭から先が傾き、つんのめる。なにかを思う間もなく、前転するように沈んでいって。
それから数秒後、浅瀬に座り込んだ雛菊は波間から頭を出して、?マークを頭上に浮かべるように首を傾げた。なお、狼狽するような様子はあまりない。むしろ、困惑の色が濃い。
「……なぜでしょう。練習にはこれがいいと読んだのですが」
雛菊とて教本程度はきちんと読んでいる。勤勉さも機械としての売りであるからして、特訓の目的が定まった時点でそうしていた。だから、初心者向けの教本の内容と自分の特訓とにさして違いはないだろう。ましてや自分は、体幹をはじめとしたフィジカルに非常に優れているはずである。
だが、雛菊の人工知能は前提をうっかり忘れていた。――特に頭部がそうだが、機械を多量に含む身体構成である為に体重が非常に重いということを……!
その事実を思い出せないまま、試行錯誤が数度行われた。
泳ぎのフォーム自体は非常に正確ながら、出力がありすぎて受け身を取れず砂浜に着弾すること一回。
あえてゆっくりと泳いでみたらそのまま体重に負けて沈むこと二回。
何を思ったのか立ち幅跳びから泳ごうとして、どこぞの小説原作映画が如く上下真っ逆さまに海に沈むこと一回。
そうして砂浜で体育座りをしていたところでようやく、はっと気付く。
「もしや、頭部重量が重いから沈むのでは?」
ががぁん、と雷に打たれたような表情をしつつ、雛菊は思考を巡らせる。
教本の前提があてにならないということには気が付けた。ならば、どうするべきだろうか。総重量を減らすことは難しいというのは間違いない。
頭を捻って悩んだ末に、結論が出た。フォーム自体に問題はないはず。ならば、泳ぐ為の適正となる出力を覚えればいいのではないか。戦闘時も平常時もそうだ。肉体が行うはずの出力の加減は感覚的にも意図的にも行える。完璧な発想である。
よく思い付けた、と言わんばかりにふんすと息を吐いて立ち上がる。あとは、実行するのみ!
――三〇分後。そこには、再び体育座りで遠い目になる雛菊の姿があった。
泳ごうとしたらうっかり前方に半回転してしまうこと二回。
恐る恐るといったようにフォームをなぞって前へ進んでから沈むこと五回。
うっかり出力を上げ過ぎて沖まで行ってしまい、戻る為に海中散歩になってしまうこと三回。
そもそも足がつくくらいの浅瀬から抜け出せずに足がついてしまったこと一回。
なんとかならないかと海の家から借りてきたビート板を試してもやはり沈むこと一回。
なんと暗澹たる有様であろうか。雛菊は悲しんだ。
フォームをなぞっている時は少しずつ距離が伸びていたように思うものの、やはり一朝一夕では身に付かないということなのだろうか。それとも単に自分が下手なのか。
自信をなくしたようにしょんぼりとしつつ、空を見上げる。これでは当初の目的が達成できない。海でエンジョイするのは自分には早かったのか? 来年も海では泳げないのだろうかーー来年?
そんなことをふと考えた自分にびっくりしていると、ふと、何かが聴こえた。
「……すけてー」
ぴくり、と音を捉える。恐らくは沖のほうか。やや離れた位置のはずのそれを捉えるほどに、雛菊の備えるセンサー類は肉体に負けず劣らず高性能である。
そうして沖の方に目をやって――足を攣ったのか、溺れかけた子供を目にした。
「……!」
は、と息を呑んで、視界をフォーカスしながら海へと入って行く。子供の近くには、サメのようなヒレもある!
それには気が付いたものの、やることは変わらない。無我夢中で足を動かしながら、腕を上げる。クロールの姿勢だ。これが一番いいと思ったわけでもない、この泳ぎ方が一番慣れているわけでもない。けれど、身体が自然にそれを選んでいる。
バシャバシャと飛沫を上げながら、泳ぐ。泳ぐ。沖に向かうにつれて、水の抵抗が少しずつ身体を襲ってくる。息継ぎをする必要のない身体が、今はとても有難い。
――ヒレを視界に捉えた。子供も、かばわれるような位置にきちんといる。
大きく息を吐いてから、右の手を握り拳の形に整える。そして後方から腕を持ち上げて、今まさに飛び上がって躍りかかるサメもどきめがけてぶん殴る!
ごり、という鈍い感触をものともせず、殴り飛ばす。石切りのように何度かバウンドして吹っ飛んでいったように見えたけれど、今はそれどころではない。
子供――近くで見て気が付いたが少年――に、背に抱き着いてもらうようにして、無理矢理ながら浜辺まで泳いだ。
そうして気が付くと、浜辺まで辿り着いていた。
少年に駆け寄る保護者、外見年齢から察するに姉だろうか。彼女からすごい勢いで頭を下げられながら、雛菊は言葉を返す。
「やれることを、やったまでです。気にしないでください」
そうぎこちなく微笑む。少年には頭を撫でておいて、危ないことはしないようにと言い含めておいた。きっとこれでもう大丈夫だろう、と胸をなでおろす。
ひらひらと手を振って去っていく二人に小さく手を振り返しつつ、ふうと息を吐く。じんわりと熱を持っていた身体は、少しずつ落ち着いていっている。
……ふと、思い返す。先程は無我夢中だったけれど、特に少年に被害を出すこともなく泳ぎ切れていたな、と。
あれが特に幻想ではないということは実体験で覚えている。では、もしや今なら出力を絞って泳げるのでは? 超高速でそんな結論をはじき出した雛菊の知能は、再び海へと肉体を躍らせて。
――そうしていざ泳いでいくにつれて、またもや沈んでいってしまった。
「海は、強敵……!」
それから数時間後にも砂浜でしょぼくれる雛菊の姿があったというのは、誰も知らぬことである。その日は帰りが遅くなったそうな。