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君を導くための僕のはじまり
登場人物一覧
- 姉ヶ崎 春樹の関係者
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◆
「もう、死ぬしかない」
王都の見晴らしのいい建物の屋上で、一人の青年が飛び降り自殺をしようと、手すりを跨いで建物の縁に立っていた。
光の加減で色味を変える白いオパール色の髪が吹き抜ける風で乱雑に揺れ、淡い煌めきを持つパライバトルマリンの瞳はその心の深淵を宿すかのように昏く影を落とす。
一人の青年は、兄ヶ峰 灰音は、眼下に広がる景色にその身を委ねる瞬間をただただ静かに待っていた。
秘宝種として混沌に存在を持ち、技師として貢献していた平凡な日々。
特に強い目的もなく多くを求めず過ごしていたはずの彼を襲った悲劇は、信頼していた仲間に裏切られ、資金を持ち逃げされ残されたのは借金のみという身も心も黒く塗りつぶすかのような地獄だった。
心に負った傷を嘆きながらも逃げることは出来ず、ただ無心に働いて稼ぎを借金の返済に充てる。
だが、一人の力では到底減る様子の見せない負債と首の回らない生活に嫌気がさしていたのだ。
―――終わりにしよう
いつしか笑わなくなった口元をぐっと引き上げ、遥か下の街並みに視線を向ける。
このまま目を閉じれば全て終わる。
この世界での意味を失った彼にもう、それしか残されていないような気がしていた。
◆
どうして動かないんだと灰音は心の中で自分を強く詰った。
覚悟なら、とうに決めたはずだった。
悩んで悩んで確かに決心してここに立ったはずなのに、いざその一歩を踏み出そうとすれば高所に足元が竦む。
恐怖とは絶望をも凌駕するのか。
いっそここに立った瞬間に身を投げ出していれば良かったのかもしれないが、一度芽生えた恐怖は鎖のように体に絡みついて離れようとはしなかった。
(僕は自分の生死すら決められない半端者だ)
仲間に裏切られた事よりも、返しきれない借金に奔走していた事よりも、いつしか自分を責めるだけとなっていた言葉の刃で自らを貫く。
嫌気がさしたのは無力な自分に対してだと嘆いた時に、不意に屋上の入り口が開いた。
「……は?」
思わず間の抜けた声が灰音の口から転がり落ちる。
現れた男は灰音に気づいた様子もなくご機嫌に荷物を解いていく。
それだけであるならば、灰音もここまで動揺しなかったかもしれない。
死を決意して立つこの場所に無関係な人間が現れた衝撃は以上に、驚愕に彩られた表情が逸らせないとばかりにその姿へと注がれていた。
健康的とも言える精悍な肉体を強調するかのようにぴったりとラインに沿った空色のレオタード。
その肩も背も大きく開いて鍛えられた上腕二頭筋や背筋を露出させている。
同じくぴったりとラインに沿った黒ストッキングが下半身を全て覆い尽くし、尾骶骨に沿うようにふわふわと揺れる白い尻尾。
首元と手首を飾るチョーカーにリストカフス。
顔は化粧をしているのか首から下よりもやや色白さを感じさせ、項で一纏めにされた金髪は染めているのか根元は黒っぽい。
そして尻尾と同じ色と材質らしい長いうさぎ耳がヘアバンドから伸びて揺れていた。
「は?」
あまりの情報量の多さに、灰音の口からまたも意味のない音が零れ落ちる。
大きく目を見開いて見直す。ガタイの良い男だ。
ぱちぱちと瞬きを繰り返して見直す。バニーガール、いやバニーボーイだ。
何度見ても間違いないと太鼓判を押してくる視覚と許容出来ない脳内が鬩ぎ合いを続けている。
しかしそんな灰音に気づかないまま、男は意気揚々と三脚付きのカメラをセットし、照明位置を確認し、広げたシートの上に荷物を広げてあれやこれやと呟いている。
風に流れて僅かに届く声は当然のように低く、「イベントまで」だとか「編集用に」だとか灰音にとっては全く意味の分からない言葉を象っていた。
先程までとは別の意味で目の前が真っ暗になる感覚に、一気に飛び降り辛くなって戸惑う灰音。
◆
男は姉ヶ峰 春樹という漫画家を生業とする人間だった。
近々行われる同人イベントに出品する漫画の表紙を撮る為に下見も兼ねてこの屋上へとやってきた。
王都を一望できるスポットであり晴天にも恵まれた今日を運命と決めていた。
睡眠時間を削って完成させた新刊に映えるよう目の下のクマをコンシーラーで隠し、色気を乗せてアイラインを引いた。
体の隅々まで手入れして纏った手作りの衣装はサイズも完璧だ。
カツッと動くたびに鳴るエナメルのハイヒールが男の機嫌を示すように軽快な音を立てる。
つまり彼は今、とんでもなく浮かれていた。
だからこそ、やってきた屋上に先客がいる事に気づかなかったし、その先客の目的も察する事は出来なかった。
対照的な二人の視線が漸くぶつかった時訪れた痛いほどの静寂を誰が責められるだろうか。
「え、あ……」
「えっと?」
片や人生に絶望した自殺志願者と、片や人生を謳歌するバニーボーイ。
「こん、にちは?」
「あ、その」
動揺した灰音に取り合えず挨拶してみた春樹が、ふと眉を顰めた。
見下せば足の竦む高さの屋上。
柵の向こう側に立つ青年。
細い肢体と顔には生気が薄く、今にも風に攫われんとばかりに舞うマフラー。
「ここで、何を」
ぐっと真面目に顔を整えた春樹の低い声に灰音も漸く我に返った。
肩の力が抜けたように浮かべた笑みが儚く揺れる。
「……君は、楽しそうだね」
ぽつりと零れた声は、ともすれば吹き抜ける風にかき消されそうな程小さかった。
「羨ましいな」
絶望に塗りつぶされた灰音の前に現れたのは正反対の希望に満ちた春樹。
こんな姿は見せたくなかったと灰音の心が強く軋む。
「君の邪魔をするつもりはないんだ。ほんの数分、ここから離れてくれればいい。僕のことなんて、忘れてくれればいい」
当初の目的を思い出した灰音にとって、それは一刻も早く実行しなければならないような焦燥感が湧く。
自分とは違うキラキラとした世界に生きる春樹が目に痛すぎた。
「待て、待ってくれ!」
だが春樹にとってはそうでない。
知ってしまった以上は見過ごせないし、忘れるなんて出来るはずもない。
思わず出た大きな声に灰音が怖気づくのに気づいて一度息を整えると、姿勢を正して向き合う。
「何があったかは分からない。知らない。でもダメだと思う。こんな所で終わらせないでくれ、頼むよ!」
灰音を説得するための情報も言葉も、今日初めて出会った春樹には持ち合わせていない。
それでも止めなければならないと思った。
目の前から消えて欲しくないと思った。
何故か胸が苦しくて、思わずぎゅっと心臓の位置を片手で握りしめる。
心からの懇願は泣き出しそうなほど震えて情けない音になったが、それは灰音の心を震わせるのに十分だった。
「なぜ、」
なぜ君がそんな顔をするのだろう?
なぜ君がそんな事を言うのだろう?
疑問だらけの顔で問い返され、春樹は震える呼吸を正す為に大きく息を吸い込む。
ここが正念場だと感じた春樹は一か八かの賭けに出た。
それは天啓にも似た閃きでしかなかったが、確かに真実であるかのように心から零れた言葉だった。
「ひと目見た瞬間に思い出したからさ。逝かないで……前世での兄様!」
◆
(嗚呼)
その瞬間、灰音は思い出した--前世での記憶を。
異世界で天命を受けた弟。導き手として支え続けた自分。
繋いだ手。向けられた笑顔。沢山の言葉。
そして、弟の死際の記憶を左目に封じた事を。
ハッと我に返った灰音の目に映る最愛が手を伸ばして待っている。
それが生きる事への本能によって創られた虚構か、現実かは分からないがそれでもよかった。
震える手で髪に隠れた左目に触れ、泣きそうに歪んだ顔を俯かせて隠す。
いつだって求めてくれたのは彼だった。
導き手として導いていた道も、全てが彼の為だった。
(君は何も知らないのに、まだ僕を求めてくれるのか)
引き留める為の言葉に記憶が付随していないことは灰音が誰よりも知っている。
けれど、それでも兄と呼んでくれたことが嬉しかった。
春樹がこの世界に存在するならば、自分のやるべきことは何も終わってはいない。
灰音にとっての生きる意味が今、目の前で待っている事を知ってしまったから。
「そう、そうだね……僕の弟」
君がいるなら、死んでなんていられない。
まずは君の笑顔をもう一度見るために、この柵を越えようか。
灰音は春樹の顔を懐かしむように見た。
絡んだ視線が決意を秘める。
(前世(かこ)から繋がる現世(いま)を大切にしよう)
口には出さなくても、灰音は取り戻した大切の為にそっと誓った。
ふわりと風が吹く。
さらりと靡く白い髪と、白い耳。
「稼ぐなら一緒にイベント出て販売するとかどう?」
「いや遠慮するよ」
隣に座った春樹のキラキラと期待する目を見ながら灰音は絶対に裏方でいようともう一つ決意を追加した。
- 君を導くための僕のはじまり完了
- NM名桃缶
- 種別SS
- 納品日2020年02月26日
- ・姉ヶ崎 春樹(p3p002879)
・姉ヶ崎 春樹の関係者