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どうか、貴方の旅が幸福であるように
登場人物一覧
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魔術灯の橙色の光が部屋の中を包んでいる。
机の上に広げられた書物を読み込み、羊皮紙へとメモを走らせる。
それはテレーゼのここ数ヶ月にできた日課だった。
扉のノックと、入室の許可を求める声に万年筆を止めて、顔を上げた。
「テレーゼ様、ローレットより文書が参りました」
扉を開いて姿を見せた青髪の騎士が言葉で言いながら、それを差し出した。
「ありがとうございます」
そっと手に取った文書を開いて、視線を落とす。
「…………あぁ、そう、ですか」
深く、深く、そう声にするだけで時間が必要だった。
「……マルクさんが、亡くなったそうです」
もたれかかったプライベート用の椅子は柔らかい。
どうしようもなく、落ち着いている。神からもたらされたギフトの効力が、震える声を押し殺す。
「……グリューワインを用意していただけますか? それから、少しだけ1人の時間をいただければと」
「……承知いたしました。改めて持って参ります」
青髪の騎士が、拝礼して下がっていく。
「……そう、ですか。マルクさんが」
改めて詳しく知ろうと視線を落とす。天義で何かが起こってその結果であるのだろう。
「……そう、なんですね」
小さな声を漏らし、テレーゼは深く椅子にもたれ目を伏せた。
「はは、覚悟は、していたのですが……それでも、やはり実際にその日が来るというのは」
あぁ、失敗だ。失敗だった。目を伏せたら、思い出す。
友人として、彼の見せてくれたものは全てがつい先程のことだったかのように思い出す。
今にも溢れ落ちそうな涙は、せめて。
せめて、ワインが来て一人になるまではなんとか抑えておきたかった。
部下として、これ以上のない大切な人物だった。
あれほどに稀有な人物はもう2度と見つからないと、そう思ってしまえるほどの、そんな人だった。
今にも扉を開いて、「帰還いたしました」と、そう言ってくれるのなら、どれほど安堵するだろう。
その日、どんな場所でどんな人や物と接してきたのかを、教えて欲しかった。
そんな日はもう、2度とはこないのだと。
一日の終わり、あるいは中程に、そうやって休憩するのがどれほどの癒しであったか。
貴族の当主代行として、向いてなくとも紛いなりに前を向いていたのは、彼のおかげだった。
「……だからこそ、泣いてなどいられないのです。それでも、今夜限りは思い出と共に眠りましょうか」
扉が開く。思わず身を乗り出すように跳ね起きた。そこに立つのは彼ではなく、赤髪の女性だった。
「隊長からグリューワインを持って行ってくれと」
「ありがとうございます……それから、今夜は誰も部屋には入れないように徹底してください。
ええ、一晩です。一晩、私は、貴族ではなくなりますから」
返答はなかった。ただ、扉を閉めてその場を後にしてくれた。
赤々とした温かなワインは彼との思い出の一つ。
「……随分と早い、シャイネンナハトですね」
これだけで酔える気はしないけど、一緒にケーキをたのむ気分じゃなかった。
だから今日は、これだけでいい。これだけで、いいのだ。
あの日に飲んだワインよりも苦みが強い気がしたのは、ただ調合が違うからだけじゃない。
「……死を遠ざける者となるですか」
ぽつり、テレーゼはマルクが良く語ってくれた自身の覚悟を思い出す。
「貴方の事です。きっと、その勇気と決断は誰かの死を遠ざけ、次に繋ぐためのものなのでしょう。
遠く天義の地で、その身に宿す勇気を、その温かな知性を掲げて戦ったのでしょうね」
高ぶる感情と熱を、ワインと一緒に飲みこんでいく。
(私には、まだ戦う術がありません)
戦う術を持っていて、勇気を、覚悟を持っていて。
誰かの望みを形にするために力を尽くせるような人だからこそ。
私は友人としても、主君としても、恥じないように生きていたかった。
ノックの音が鳴る。
誰も入れるなと、そう言っていたはずなのに。
「申し訳ありません。マルク様からお渡しするようにと言われていたものがあります」
「……どうぞ」
青髪の騎士が入ってくる。
抱えるものを見て、息を呑んだ。
「マルク様が、ご自身に万が一のことがあれば、これをお返しするようにと」
青い鳥の描かれたそれは、我が家の紋章に他ならない。
添えられた物は手紙だろうか。
何も言わず、青髪の騎士はそっと立ち去っていく。
紐解いた手紙を、読み進めた。
――この旗の下で戦えたことは、ささやかな僕の誇りでした。
――僕は、この旗に恥じぬ人間で在れたでしょうか。
「……当然に、決まっているでしょう――全く、もう。
ですが、この手紙のおかげで貴方に捧げる言葉が見つかった気がします」
気持ちを落ち着けることもせず、もう一度ワインに口を付けた。喉を潤す熱。
「……お疲れさまでした、マルク・シリング。
この言葉が、貴方に直接届くことはないのかもしれません。それでも……」
――おやすみなさい、マルク・シリング。貴方の献身に、心よりの感謝を。
――私は、貴方の活躍を、貴方と過ごした日常を、この生涯において忘れることはありません。
――そして、死後の穏やかな旅路に幸福があることを、祈ります。
「……あぁ、随分と飲んでしまいました」
一気に残ったものを飲み干して、次を注ぎなおす。
「貴方の安らかな眠りに乾杯としましょうか」
そっと空にワインを掲げて、二杯目に口をつける。
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(あぁ、それでも……友人としては、貴方と一緒に今年のシャイネンナハトを過ごすことができないのは少し、寂しいですね)
ことりとコップを置いて、手に触れた羊皮紙に、今までしていたことを思い出す。
あれは私が冠位傲慢と思しき者たちの攻撃を受けたあの日から、少しだけ経ったある日のことだった。
帳の晴れたエーレンフェルトからブラウベルクに戻ってきて、日常に戻った後のこと。
「……マルクさん、いま時間はありますか?」
「はい、なんでしょう」
「貴方さえよければなのですが、私に魔術を教えていただけませんか?」
「えっと……突然ですね」
「そうかもしれません……でも、先だっての事件を受けて、思うのです。
私も、戦う術を持っておかなくてはいけないのだと」
「テレーゼ様……大丈夫です。僕も、メイナードさんも、イングヒルトさんもいます。
何があっても、僕らを頼ってくれれば、必ずお救いしますから」
「……ふふ、そうでしょうね。それでも、なのです。先だっては、メイナードさんが一緒に巻き込まれてしまった。
マルクさんたちが助けてくださるまでの時間が稼げたのは、彼がそばにいたからです。
貴方はそうならないように、努力してくださるでしょう……それでも、次はどうなるかわかりません。
私が、私だけで何かに巻き込まれた時……助けに来てくださるまでの時間さえ稼げなければ、意味がないでしょう?」
「……わかりました、テレーゼ様の自衛が出来る程度にであれば」
真剣な様子で考えた後、どこか渋々、でも深く自らを納得させるようにマルクさんが応じてくれたことは、とても嬉しかった。
実際のところ、友人と過ごす時間を、話題をもう少し増やしたかった、ぐらいの気持ちであったけれど、重大な問題であることは事実であったから。
「……それに、マルクさんに、見せたかったのですよ」
羊皮紙を手に取って、テレーゼは小さく声に漏らした。
温かなワインは涙の代わりに熱を持って行った。