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いとも容易く行われるえげつない行為。或いは、榊 伊慈の罪業…
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- トキノエの関係者
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●懐かしい手紙
榊 直慈の元に届いた1通の手紙。
ほんの少し、白梅香の香りが漂う白い封筒を手に取って、直慈は口元に笑みを浮かべた。
手紙の送り主の名は榊 伊慈。
十数年前に生き別れた、直慈の弟からだった。
十数年前。
榊の家に生まれた兄弟がいた。
兄の名は直慈。
弟の名は伊慈。
2人は共に薬学や解剖学を学び、時には互いに競い合って生きて来た。生まれつき、兄弟は頭の出来がよかったのだ。特に兄である直慈の知能は常人のそれを遥かに凌ぐ。
7代目当主は直慈で決まりだ。
直慈がいれば、榊の家は安泰だ。
榊家の秘伝……“病魔払いの巫女”について知る者は、誰もが口を揃えて言った。
ただ1人、直慈だけが己の学んだ膨大な知識を、己の生まれた榊の家を嫌悪した。不幸な生い立ちの少女を捕らえ、幼い頃から毒や腐肉を喰らわせて、巫女から削いだ肉片を“薬”と称して金持ちに売る。
そんな家業を嫌悪した。
「伊慈よ。榊の一族の業は深い。私は、とてもじゃないがこの家のことを認められぬ」
ある闇夜の晩。
ついに直慈は、榊の家を出ることにした。
その出奔を見送るのは、生まれてから今まで共にあった最愛の弟ただ1人。伊慈は黙って直慈の話を聞いていた。
伊慈は既に兄の心を知っていたのだ。兄が榊の家を嫌悪していることを理解し、いずれ彼が家を出奔するであろうことをとうの昔に……ともすると、直慈よりも早いうちに理解していた。
だから、この時も「ついにこの日がやって来た」としか思わなかった。
次に直慈が、何を言うかも、きっと伊慈は知っていた。
「お前も一緒に逃げないか?」
その提案を、兄の差し伸べた手を伊慈が取ることは無かった。
「私のことも、家のことも忘れてください」
そう告げて、伊慈は笑った。
「もう二度とここに戻ってきてはいけません」
出奔した直慈は、名を直司と改めて流浪の医者として豊穣を旅した。彼の元に弟からの手紙が届いたのは、十数年の旅を終え、とある街に腰を落ち着けた矢先のことだ。
●十数年ぶりの再会
十数年の歳月を経て、2人はすっかり大人になった。
現在は伊慈が榊の家の当主を務めていると言う。それはつまり、表向きのお勤めだけでなく、“病魔払いの巫女”に関する事柄までもを伊慈が指揮しているということだ。
「なぜ今になって、榊に関わろうと?」
茶を1杯だけ飲み終えた後、伊慈は問う。
彼は全てを知っているのだ。
ここ暫くの間“病魔払いの巫女”に関する取引を邪魔しているのが、巫女にするつもりで搔き集めて来た子供たちを逃がしているのが、目の前にいる兄の仕業であることを。
「これはお前のためでもある」
まっすぐに伊慈の目を見つめ、直慈は深く頭を下げる。
「今まですまなかった。お前に全てを押し付けてしまった」
あの日、榊の家に残ると言った弟の手を無理矢理にでも掴まなかったことを、弟に全ての業を押し付けるような真似をして、1人で逃げてしまったことを直慈はずっと悔いていたのだ。
兄として、弟を守ってやれなかったことを、弟の手を榊の家の罪に塗れさせたことを、十数年間、1度だって忘れたことは無かった。
「こんな非道なことをやらされて、優しいお前にはさぞ辛かっただろう」
その声は震えている。
「お前が当主になる前には、わたしが」
そこで、直慈の声が途切れた。
瞳が揺れる。喉から空気の漏れる音。
吐き出した血で口元を濡らし、直慈は弟へ手を伸ばす。
息が出来ない。
視界が暗い。まるで、あの日の夜のように真っ暗だ。
伸ばされた直慈の手を、伊慈が掴むことは無い。
ぱたん、と畳の上に落ちた兄の手を見やり、伊慈はくすりと微笑んだ。
「だから言ったでしょう。私のことも、家のことも忘れろと」
直慈は1つ、思い違いをしていたのだ。
伊慈が家に残ったのは、直慈のことを思ってではない。
彼は榊という一族のすべてを手に入れるため、兄の出奔を見送ったのだ。
優秀な兄が勝手に出て行ってくれるのなら、それでよかった。
戻って来なければ、榊の家の邪魔をしなければ、直慈を生かしていてもよかったのだが。
「愚かなことを」
それなのに、愚かな兄は戻って来たのだ。榊の家に近づいて、伊慈の生業の邪魔をしたのだ。
邪魔者は、すべからく消さなければいけない。
ゆえに伊慈は兄を呼び出し、茶の湯に混ぜた毒を飲ませて殺めたのである。
そこにはなんの葛藤も無かった。
息絶えた兄の顔を見ても、僅かばかりの悲しみさえも抱かなかった。
「残念ながら、私はこういう人間だったのですよ。兄上」
伊慈にとって、それは単なる作業であった。
湧いた虫を1匹、潰して始末しただけの、ごく当たり前の日常の一幕に過ぎなかった。
●手紙
「そういえば……そんなこともありましたね」
1通の古ぼけた手紙を眺め伊慈は呟く。
もう20年以上昔のことだ。
少しだけ考えた後、伊慈は手紙を囲炉裏の火へと投げすてた。