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手向けの花は要らないから
登場人物一覧
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なんとなく喉の奥に違和感があった。それだけ。
それが、一週間と。二週間と。ずるずると伸びて長くなって。そうして違和感が強くなった、三週間目。その初日。
「げほっ、ごほっ、うっ……」
吐き出したそれは、唾液に濡れた紫陽花であった。
古ぼけて寂れた洋館の中で、クウハの混乱は、小さく溢れた。
「は?」
手のひらに溢れているそれはたしかに紫陽花で。けれど花を食べた覚えなんて無い。食べたとしてもすみれの砂糖漬けだとか、そのくらいで。
毒性があるだとかなんだとか言われていたはずの紫陽花を食べた覚えは、死因でも無い限りはないのだ。
動揺はしていれども医者にかからねばならないことは解る。そうしてたどり着いた先が、最初にこの世界を案内してくれた境界案内人のところというわけだ。
なるほどと頷いた境界案内人が案内した先は、とある医者のもとだった。混沌にはないその病院は、この世界が確かに混沌ではないことを示していた。
どうすれば良いのか分からず袋に詰めてきた紫陽花を見せるのち。医者は告げた。
「ふむ。花弁病ですね」
「花弁病?」
「はい。完治は、まぁ出来なくもないですが」
「どうやればいいんだ。なんだってする」
「……その花弁を食べれば良いんです。それだけです」
「そうか。それなら、」
「ただ。それと引き換えに、すべての記憶を失う可能性がある。それでも、食べますか」
まるで頭を殴られたようだった。
同じ道を選んだ。それだけの筈だった。
別れることが怖くなるなんて、思いもしなかったのだ。
優しく降り注ぐような。そんなあのひとが好きな花は、雨に濡れる紫陽花だったことを、ふと。思い出した。
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なんだか悪い予感がしていた。そうだとしか言いようがない己を、少しばかり訝しんだ。
この世界に来てからどうも眷属――クウハとの繋がりを感じにくくなっているような気がしている。
確証はない。混沌となんら変わらぬように見えるこの世界の調査は案外難航しているのが現状であるからだ。じわじわと蒸すような暑さは銀糸を下ろしておくにはやや辛いか。
「慈雨。俺の慈雨。今日は暑いな?」
「そうだね、クウハ。我(アタシ)の猫。オマエには少し眩しいかもしれないね」
「ま、夏なんてそんなもんだろ。それよりも……」
「ン?」
「髪。結ってやろうか」
「おや。いいのかい?」
「暑くて辛そうな慈雨を見るのは俺としても本意じゃない。それに、いつまでだってこうしてやれる訳じゃないからな」
「何を。おまえは幽霊だから、ずうっと一緒に居られるだろう? 他の誰よりも長くね」
だろう? なんて言葉にせずとも解るだろうその言葉。いつもなら得意げに、あるいは優越感と共に頷き返すだろうクウハが、今日はなんだかやけにしおらしいような気がして。
けれどそんな思考の逡巡を掻き消すように、あるいは咎めるように。髪を指に通して、はらり、はらりと落ちていくそのひとつひとつを眺めるクウハを。そんな様子を見て、気の所為だと梅雨のうだるような湿気にとかして、忘れてしまった。
きっと何か大きなことがあれば打ち明けられるだろうと。それほどの信頼関係と、愛と呪いの中にあるのだという自負が武器商人にはあったから。
そんな自信を壊してしまうような出来事があるのだとは、まだ知らずに。
「慈雨の髪は柔らかくて扱いやすくて良いな。いくらでも結ってやりたくなるよ」
「そうかい? まぁ、おまえが言うのならばそうなのだろうね。おまえの好きなようにすると良いよ。こんな機会はきっと梅雨のうちならいくらでもあるだろうからね」
「なら、今日はポニーテールにでもしようか」
答えを濁すクウハにはまだ気付けずに居た。
こうして触れているのだから。いつものように穏やかな時間が、いつもどおりに流れているのだから。
「今日はおまえのお陰で楽しかったよ。ありがとね」
「いや、こちらこそ。なぁ、慈雨」
「ン? どうしたんだい」
帰りも間際。なぜだか、改まったように姿勢を、背筋を伸ばしたクウハは、どうしようもなさそうに、顔をくしゃっと歪めて笑った。
「……いや、いいや。じゃあな」
「ああ、またね」
ひらり、と手を振って、ゆらりゆらりと消えていく武器商人の背中をいつまでも眺めていたクウハは、その背が消えると同時に、すべてを置いて消え去った。
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咳を抑えることがこんなに苦しかったなんて。
生きていた頃の記憶がないことが悔やまれた。そして、きっと己は約束を破ってしまうのだろうなという予感がだんだん確信へと変わっていく現実がなによりも恐ろしかった。
あのひとをひとりにしたくないと思うのに。
あのひととずっといられると思っていたのに。
あのひととの『ずっと』を嘘にしてしまうのは己だということに、深く傷付いた。
この世界には奇病が溢れていると先に気がついたのはクウハだった。今はまだ武器商人はなんの病気にもかかっていないようだけれど、きっとどちらかが先に死ななければこの世界から出ることは出来ないのだと、そう直感した。
ならば己が先に死ねば良い。あの人に深い傷をつけることはわかっているけれど、けれど、あの人を失うことに耐えられる自信なんてないのだ。
だから嘘をつく。愛を重ねると同時に、麻酔にもならない嘘をつく。「慈雨、少しだけ待っていてくれ」なんて。なにか買いに出るように走って、トイレへ駆け込んで、嘔吐する。ぼろぼろと口から五月雨のように紫陽花が降るのだ。
まるで絵画のようだ。皮肉めいた考えばかりが溢れ出る。けれど。一度吐いた嘘ならば最後まで突き通してやるのが筋ではなかろうか。
「……慈雨を、」
傷つけないために。傷つけさせないために。
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はじまりは酷い雨の日だった。
クウハが約束の刻になっても武器商人の元へと足を運ばずに居たのだ。もし何かあったのならば連絡をよこすはずだし、と。信じていた。
けれど一時間。二時間待っても、クウハは武器商人を訪ねない。
もしかしたら連絡することもできないほどのなにかがあったのだろうと納得した。無理矢理に、納得した。そうでなければ。何かが崩れてしまうような気がしたから。
待った。待って、待って、待ち続けた。
当たり前の毎日だったはずなのに、どこか何かが違うような気がして。何かが欠けているような気がして。それでもクウハなら、決して己を置いていくことはないはずだと自分に言い聞かせ続けた。そんなことはないはずだ。きっといつかもどってくる。それでも、その『いつか』は、いつだろう?
何年も、何十年も待ったその先だろうか? なぜいってしまったのだろう。嫌気が差してしまったのだろうか?
どうして、と思考を巡らせても心当たりはない。ずっとずっと、記憶の中でクウハは笑い続けている。だからわからない。わからないのだ。
眷属と主人のつながりを辿ろうとしても、点滅して消えてしまうみたいに上手く機能させることができない。ただ、ずっと遠くに、ぼんやりとある。それくらいしかわからない。
ずうっと、ずうっと。一緒に居られると思っていたけれど。けれど。
ぷつんと、繋がりの糸が途絶える音がしたような気がした。
「……」
だから。走った。
この世界における繋がりは彼ひとり。
最愛の番も、他の眷属もおらず。彼が消えるということはつまり、この世界に取り残されることを意味していた。
(自然に我(アタシ)へ興味を失うのは、仕方ない)
そうだ。そんなときもある。別れはいつだって突然であるから、仕方ないと諦めるほうが良い。
(でも、自ら我(アタシ)への感情を誰かに差し出すのはいけない)
なにより、『許せない』。望んだのか、望んでいないのかはわからないけれど。
その想いを、尊さを、他者へと寄越すなんて、いいよと言えるはずがない。
(無理に奪われたなら、それをそのまま善しとしないで)
食いしばる。ぎり、と音がなって。らしくないと頭を振った。
(願わくば、……離れていかないで)
それは願いだ。呪いでもある。
だからこそ知らねばならない。彼の身になにが起こっているのかを。
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どんどん悪化していた。それでも、最後に触れたいと思ってしまった。
まだ咳のでないうちに。彼の前で花を吐いてしまわないうちに。
自分が死ねば彼が悲しむことも、自分が花弁病に罹患したことを知れば、全てを忘れても構わないからと治療を受けさせようするとすることも解っている。だからこそ。その上で、死ななくてはならない。
一度死んでいるから慣れっこ、とはいかなくて。死ぬこと自体に恐怖はないが、自分の我儘で置いていってしまう彼のことを案じている。
愛するつもりはなかった。それは呪いであると解っていたから。それでも、踏み込んでしまった。知ってしまった。その呪いの味を。奥深くへと落ちる快楽と愉悦を。
これは他人を深く愛しすぎてしまったが故、愛する者との記憶とそれに纏わる全ての感情を捨て去る決断を下す事が出来なかった男の末路。
げほ。
(死を恐ろしいとは思わない。けれど、本当はまだ死にたくない)
げほ、げほ。
(これほどまで愛しく思っているのに)
げほ、げほ。ごほっ。
(何百年、何千年先まで、いつまでも傍にいたかった)
ぼろぼろぼろぼろ。
(ああ、どうしてこんな奇病に罹ってしまったのだろう)
どうしてなんて考えても、気付いた頃には進行しているのが病というものだから。だから仕方ないことはもう常々理解していたのだけれど。
ころころと笑ってくれるあの人の声を聞く度に。
柔らかくて透き通るようなあの人の髪に触れる程に。
もっと傍に居たいのだと。ずっとずっと、傍にいたかったのだと気付いてしまった。
けれど気付いてしまった頃にはもう手遅れで。あの人が気付いてしまう前に、考えなしに飛び出した。
きっともうどこかでバレているような気がするし、もしかしたら家で紅茶でも飲んでいるかもしれない。どちらでも構わない。きっと、きっと。あの人が穏やかであれば、さいわいであれば。それ以上は望まない。
ずっとずっと愛おしいことに変わりはない。だからこそ、遠くへ。
「……なんて、馬鹿みたいだ」
いつか二人で歩いた道ばかりを、紫陽花を残して進み続けていた。これじゃあまるでたちの悪いおとぎ話と変わらない。ずっとずっと、傍に居たかった。居られたはずなのに。
笑えてしまう。ああ、そうだ。そうだった。どんなときだって、あの人のさいわいを一番に願っていられるのだ。
「だから、……慈雨」
どうか。慈しむこともなく。ただ天気のように、ころっと気が変わったのだと思って欲しい。
そうすればきっと。慈雨も。俺も。きっと、小さな傷のままで終わらせることが出来るだろうから。
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夕日がよく見える公園だった。
どうして最後にそこを選んだのかは、クウハ自身にもわからないのだろう。
ただ、だれも来ないような雰囲気があった。もしかしたら見つけてくれるかもしれない、と思っていたのかもしれない。
もはや咳の音しか聞こえないような気がした。喉の奥が痛くて、もう吐き出すのを抑えることもできない。
「はは、死ぬのか……」
どうして。なんてもう思うほどの余力もない。
視界が揺らぐ。ほろほろと、何かが崩れていくような音さえ聞こえる。夕日が綺麗で、紫と藍が滲んで、それから。
「傍にいるって言ったのにごめんな」
懺悔かもしれない。あるいは、後悔かもしれない。
遠くにあの人の銀色が見えた気がしたから手を伸ばした。抱きしめたかった。でも、叶わない。
ベンチから立ち上がることさえ酷く億劫で、だからもう、こうやって外野のように、遠くから眺めるだけなのだ。
あの人が走っている。珍しいこともあるものだ。そんなに焦ったような顔をして。
(俺は、いつまでだって傍にいるよ)
魂が消え去ろうとも。肉体なんて残らなくとも。それでも。
くさいようなセリフだけれど。きっと、あなたの記憶の中で生き続けるのだ。だから。
「いつまでもずっと、愛してる」
呪いを吐いた。
この身は悪霊。なら、魂ごと賭けて呪ってやる。
いつまでもいつまでも、あなたの中で消えない傷になれば良い。愛しく思ってくれれば、なお、良い。
あいしてる。
その声が武器商人の耳に届いた時、クウハの身体は薄紫の紫陽花となって、とけて、消えた。
惜しかった。もう少し早く気付けていたのなら。あるいは、クウハが教えてくれたのなら。いくつもの言葉があたまのなかを駆け抜けるのに、それなのに、どうすることもできない。いくつもの魔法を知っていても、知識があっても、今此処で彼をこの場に遺す手段はないのだと、直感的に理解した。
ならばせめてとクウハに手を伸ばしたのに。笑ったままのクウハをせめてここに居るのだと抱きしめてやりたかったのに、その花はひらひらと散っていくばかり。
掴めたと思った花弁のひとひらすらも、武器商人の手のひらの中には残らない。
しとしとと雨が降る。それは冷たくて。けれど、武器商人の頬を濡らす雨はずうっと温いままで。
「やっぱり、約束なんて信用するものじゃあないね」
呪うように。疎ましく思うように。けれど、愛情を拭い去ることは出来なくて。
クウハが先程まで座っていたはずのぬくもりを雨にも奪われないように、ベンチに重なるように腰掛けた。
紫陽花が好きな花なのだと語った時、クウハはどんな顔をしていただろうか。それが、どうして、紫陽花となって消えてしまったのだろう。いたくて、くるしい。
「……嘘つき」
そうだ。嘘つきだ。
ずっとずっと、何百年、何千年先まで、ずーっと長生きできると思っていた。
涙はとめどなく。
哀しいと思う資格もないのだろう。孤独に生きていくしか無いのだろう。だけれども。彼は何も残してはくれなかったのだ。それが酷く、憎いのだ。
「嘘つき」
そう言えば、帰ってきてくれるような気がしたのだ。
ごめんな、慈雨。なんて言って。それから、ひょっこりと顔を出してくれるような気がしたのだ。だけれどもそんなことはなくて。雨はやまず。
そうして、武器商人は、クウハを失ったのだ。