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砂糖菓子の夢にカラメル覚悟
登場人物一覧
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クウハが狂った。館のみんなを殺して、幻想国内に逃亡中だという。
そんな風に情報屋が話すのを、火野・彩陽はぼんやりとどこか他人事に聞いていた。そんな阿呆な。信じられない。あのクウハが、館のみんなを殺す? とても信じられない。悪霊で、怖いところはあって、なのに気さくで、館のみんなには優しくて、面倒見が良くて。『あの』クウハがそんなことをするなんて、とクウハを知る人間の半分くらいはそう言うんじゃないだろうか。でも、情報屋と他の
「俺が行くよ。俺が殺す。クウハを、殺す」
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──いい気分だ。久々に腹が満たされている。
恋人の魂を喰った。蕩ける様な甘い味が絶品だった。親友と呼んだ男の魂を喰った。味が濃厚でまた食いたくなるくらい美味かった。大事な妹分の存在を喰った。今まで味わったことのない様な、でも癖になる様な味がした。ありゃ珍味だな。可愛がっている妹分の幽霊を喰った。瑞々しい果実みたいな味がたまらなかった。大事にしていた妖怪の男を喰った。ほんのりとチョコレートみたいな味がしたのはあいつが鏡だったからだろうか。同じ眷属の、妹分の様に大事な少女を喰った。甘くてふわふわしてて、綿菓子みたいな美味さだった。主人の■■■を喰って自室に放り込んできた。喰っても育てりゃあの至福がまた味わえるとか最高に"お得"じゃねえか。
(クソが。どいつもこいつも抵抗ひとつしやがらねえ。最悪だ。頼むから誰か……、)
グラグラと不安定に揺さぶられる精神、引きずり回そうとしてくる狂気に抗いながらクウハは誰かが近付くのを感じ取った。その『誰か』の正体を確認した時、クウハは一瞬だけ安心と苦笑がない混ぜになった表情を浮かべ、そしてすぐに表情を悪辣な笑みに変えた。
「やっと来たか。遅かったな」
「約束したかんね。せやから来たよ。……殺しに来た」
「こっちは待ち侘びてたぜ? お前はどんな味がするんだろうなぁ、彩陽。弓取りらしくこそこそ隠れて狙ってりゃ多少は命拾いしただろうに、馬ッ鹿な奴」
逃げてもよかったのに、律儀な奴だよな。殺して喰ったらさぞかし美味いに違いない。狂気と理性の思考が目まぐるしく切り替わる。クウハは彩陽が罪悪感を背負うことがない様にせめて、と精一杯彩陽を嗤って見せた。それに対して、彩陽は無言で弓を構える。そう、それでいいとクウハは大鎌を構えた。同時に、煌めく金と銀の環がその身を取り巻く。例えこんな時であろうとも彼の主人からの寵愛は絶対的で、ただ一片の曇りもない。
──礼賛せよ、仰ぎ見よ。百花繚乱の権能を。
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どれくらいの時が経っただろうか。ほんの数十秒のことかもしれないし、何時間も経っているのかもしれない。時間の感覚があやふやだ。その最中で、彩陽は自分の額に汗が流れるのを感じた。
強い。
霊力を込めた矢は足を封じ、確実にクウハの行動を止める。狙いも極めて正確で心臓や頭を真っ直ぐ目指して矢は飛んでいく……が、その悉くが金と銀の環の強固な加護に阻まれ、クウハへと届く前に弾き飛ばされ地に落ちていた。矢を番えるほんの一瞬の隙を狙ってクウハは加護をかけ直し、加護の切れ目は持ち前の体捌きでダメージを最小限に抑える鉄壁ぶりだ。あの加護を砕くには彩陽も相応の霊力を込めねばならないが、その隙は1対1のこの状況では十分に致命的な隙になり得た。
「おいおい、どーした彩陽ぃ? 普段はもうちょっとヘラヘラしてんだろが。ほら、笑ってみろよ。そんな余裕も無ぇか?」
挑発する様なクウハの声にも応えることもなく、彩陽は無心でクウハの心臓を狙い、矢を射掛け続ける。弓矢VS大鎌。射撃VS近接。お互いの得意とするレンジが違う以上、その射程距離を保てないことはそのまま自分の不利に繋がる。例え効果が無かろうが、矢を放ち続けるしかないのだ。
「……チッ。ちまちま鬱陶しいったら無ぇな。こんなもんで俺様がどうにかできると本気で思ってんのか、あァ!?」
「!」
苛立った様にクウハが叫ぶと彩陽の足元の地面に赤い紋様が這い、血の様に赤い槍が形成されて飛び出してきた。彩陽は串刺しにされてはたまらないと大きくバックステップを踏み、地面から生えた赤い槍の間を縫う様にして矢を放つ。
「……い、ない」
赤い槍から逃れるほんの数瞬、視線が途切れたその間にクウハが忽然と消えてしまった事実にゾワ……と彩陽の全身から冷や汗が流れる。逃げた? 隠れた? どこに。焦りを抑えて周囲の気配を探ろうとしたその刹那。
「──ばーぁ♪」
「っ!?」
甘く揶揄う様な、魔性の声。それが聞こえたのは、彩陽の耳元に近い位置だった。
「いっ……!? ぐ、ううっ……!」
「あーあー、じっとしてねえと駄目だろ? せっかく胴体真っ二つにして何もわからねえまま殺してやろうと思ったのによ」
ほとんど奇跡に近い反射神経と動作で、彩陽は弓を盾に大鎌を弾き即死を避けることができた。彩陽の身体に横一文字に刻まれた傷を、
「ま、踊り食いってのもありか。知ってるか彩陽。生きたまま魂食われるのって、結構イイんだぜ?」
「……、」
か細く息をする彩陽は蹲ったまま答えない。即死は避けたようだったが、かなりの深手を負わせた感触をクウハは感じていた。湧き水の様に流れ出る血もそれを裏付けている。
(ああ、勿体無ぇ。喉が渇いてきたな……。帰ったら回復も兼ねて血も飲むか)
クウハはそんなことを考えながら彩陽の襟首を掴むと持ち上げ、彩陽の喉笛にそっと唇を近づける。彩陽の魂はどんな”味”がするのだろう。不味くはない、むしろ甘美で美味いことはよくわかっている。だって、俺は、彩陽の──
「……あ?」
ふと感じた違和感。軽い衝撃。
その衝撃の正体を確かめるためにクウハが自分の身体を見下ろすと、自身の腹に質素な匕首の刃が突き立っているのが見えた。その刃を持っているのは……彩陽だ。直後に清浄な霊力が身体の内部を灼き、たまらずクウハは地面と倒れ込む。
「ぐ……あがっ……!?」
「けほっ……終わりや。よう効くやろ、それ」
クウハの腹から匕首を抜いた彩陽は血に塗れ、立っているのもやっとの様子ではあった。しかしその瞳には静かな覚悟が宿っており、死神の如き酷薄な声でそう告げる。真っ正面からの戦闘で、弓を主たる武器とする自分が近づかれた場合は不利なことは百も承知だ。そしてクウハの力量であれば、いずれその距離を詰める瞬間が来ることも。その上で──彩陽がほぼ本命に近い保険として隠し持っていたのが『清めた匕首』だ。不浄の霊を祓う力を持たせた刃に霊力を込めることでクウハに対する殺傷能力を込めた匕首。込めた霊力は時間が経つと穢れに変わってしまうため、ギリギリまで霊力を込められない。そのせいで彩陽自身も少なくないダメージを追ってしまったが、それが却ってクウハの油断を引き出せたとも言える。
「は……まさか、こんなもん隠してるとはな。やるじゃねえか……彩陽……」
「……ほな。さいなら、クウハ」
そう言って匕首を振り下ろした瞬間の彩陽の顔は逆光に遮られ、クウハが見ることは叶わなかった。
●
──コンコンコン。
早朝、森の洋館の一室に控えめなノックの音が響いた。少しの間があって部屋の主であるクウハが中から顔を見せる。
「……彩陽? どうした、こんな朝早くに」
クウハを訪ねてきた彩陽は、幽霊怪異達が多数暮らすこの館においてでさえまるで幽鬼と見間違えてしまう様な生気の無い表情をしていた。
部屋の中に入ると彩陽は何も言わずにそっとクウハの手を取った。クウハもそれを決して拒むことはない。彩陽の手の中に収められたクウハの手は冷たかった。『悪霊』だから体温が低いんだと以前、何かの折に聞いた気がする。今の彩陽にはそれが亡骸の体温の様に感じられてしまって、たまらなく恐ろしくなってしまった彩陽は思わずクウハの手を何度も握る。
「……どうした?」
クウハはそれを決して拒むことはない。クウハの手を温める様に何度も揉む彩陽の顔からは表情が抜け落ちてしまっていて、何かを堪えるかの様な様子はある意味で何よりも雄弁でわかりやすかった。彩陽の体温が少しずつ移り、クウハの手がじんわりと暖かくなったところで彩陽は漸くほう……と安心した様にひと心地つく。
「んー? 何でもないよー大丈夫、大丈夫」
(ウソツキ)
彩陽は自身の声で、そんな幻聴を聞いた様な気がした。いつもの調子を装いながら、クウハを抱きしめようとそっと腕を伸ばす。普段なら自分からこんなことはしないものだから、クウハから不審に思われてしまうかもしれない。それでも、どうしても。彩陽は今、クウハが『生きている』という実感が欲しかった。
(ウソツキ ウソツキ)
クウハを殺そうと殺意を研ぎ澄まし、矢を引き絞った弦の感触を忘れたかった。クウハを殺すための矢が風を切る音を忘れたかった。匕首でクウハの腹を刺した感触を忘れたかった。匕首がクウハの命を奪う感触を忘れたかった。クウハをこの手で目の前に今、確かにある『存在』で
(──そんなんで
「彩陽」
「……ん?」
「大丈夫だ」
縋る様な彩陽の手を、クウハは決して拒むことはなかった。安心させる様に柔らかく微笑みを浮かべてみせると彩陽の背中に手を回してぽんぽんと撫でてやる。
「そんな顔しなくていい。俺はここに居るだろ?」
「……うん」
「大丈夫だ。な?」
「……せやね」
彩陽は自身の背中を撫でる手に合わせてゆっくりと呼吸を落ち着けていく。大丈夫、大丈夫。クウハの言葉と併せて自身に暗示をかけていく。クウハは大丈夫、自分は大丈夫、自分はクウハを、
(……クウハ、を)
「よし、折角早起きしたんだ。今日は彩陽好みの朝食にするか」
「えー、ほんま?」
「ほんま、ほんま。洋食でも和食でも何でも言いな」
「うーん……悩ましいけどやっぱ和食かなー。クウハの和食、いつも美味いし」
「いいぜ、先に厨房に行ってろよ。味噌汁の具とかおかずは何がいいか考えながら、な」
「はーい。……、ちゃんと来る?」
「大丈夫だって、身支度したらすぐ行くから」
「ん、わかったー」
部屋を訪れた時よりも随分と表情がマシになった彩陽が部屋を出ていくのを確認してから、クウハは安心した様にため息を吐く。
「……」
吐息に安堵こそ滲み出ているものの、その胸の内は表情と同じく陰鬱さを抱え込んでいた。
『俺が正気を喪ったら、躊躇なく殺せ。いいな?』
初めに彩陽にそう言いつけたのはいつ頃のことだったか。それほど昔ではないのは確実だ。
クウハの周囲に集まってくる人間は誰も彼もが暖かく、優しい。『自分が狂っても自分の傍に居ようとするのではないか』『自分が殺そうとしてもそれを受け入れてしまうのではないか』。クウハがそんな危惧を抱いてしまうくらい周囲にいる人間はクウハに対して心を砕き、親身に接してくれている。そんな中で彩陽は私情を挟まずクウハを殺してくれると思った。だから度々、クウハは彩陽に万が一の時は自分を殺すように言い聞かせたのだ。
だが生と死の間でふわりふわりと惑う彩陽の手を引いたのもまた、クウハだった。
──さて。
『俺が正気を喪ったら、躊躇なく殺せ』
この約束は今の彩陽にとって、果たしてどの様な意味を持つであろうか。
己の居場所を自らの手で壊す。そんな約束は、呪いと何が違うのだろうか。
「……大丈夫」
クウハはゆっくりと首を振った。そうならない様にすればいいだけだ。だいじょうぶ、そんなことにはさせない。させるものか。あの悍ましく虚しい、甘美な快楽を、現実にする気など無い。少なくとも、今のところは。服を着替え、気持ちを切り替えたクウハは彩陽の後を追って厨房へと向かった。
──ウソツキ。