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いつか幸せが
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森の奥は、甘い香りがした。チョコレートのような濃厚な香りがしたと思ったら今度は甘酸っぱく爽やかな香りが漂って、香りが変わる度にジョシュアは辺りを見渡した。
「今度はこれね」
香りの元を見つけたリコリスが、道端にしゃがみ込む。穏やかな色をつけた花や大きく広がった葉たちをそっとかき分けて、リコリスは一つの実を手のひらの上に乗せた。先端は大きく割れ、内側が剥き出しになっている。種は飛び散ったのか実ごと動物にかじられたのか、不規則に欠けていた。
「これは香りで他の生き物を誘っているの」
「種を運んでもらうため、ですか」
「そうよ。この時期は森中で同じ香りがするわ」
聞けば、他にもこの時期に香りを放つ植物があるらしく、秋頃の森は様々な香りがするという。歩く度にジョシュアはその香りを吸い込んで、実りの季節の始まりに心を寄せた。
今日森に来たのは、手紙で約束していた薬草採取のためだ。もっと森の深いところまで進むと見つかるようになるらしいが、そこまで進むまでに目を引くものがたくさんある。
進む度に知らない植物に出会うけれど、同時に見たことのある薬草に出会うこともあった。通りかかった場所に咲いていた青い花の群生、草木に隠れるようにして立っていたフルリール。それらを見つける度に、この森の薬草を覚えてきたような気がして、胸が弾んだ。
「もう少し進んだら見つかると思うの」
目的の薬草はカルドというらしい。まとまった場所で実をつけることが多いようで、一か所で見つけられれば欲しいだけの薬草は摘めるとのことだ。
進む度に、森の中に差し込む光の量は減っていく。倒木のある場所だけよく光が差し、そこだけ明るい色の花を咲かせている。リコリスはそんな場所の一つで立ち止まり、光と影の境目に座り込んだ。
競うように大きく育とうとしている葉たちの間に、リコリスがそっと手を差しこむ。すくい上げるように白い実を探し出して、ジョシュアに見せてくれた。指の大きさほどの実は透き通るような色で、内に閉じ込められている種が薄っすらと見える。これが彼女が言っていた薬草の実と種なのだと思うと、色の淡いそれが鮮やかに見えた。
「良い香りがしますね」
「ね。良い香りでしょう」
味が梨のようだと聞いていたけれど、香りも梨に似ている。近くに見つけた同じ実を手のひらに乗せて、鼻を近づけてみると、ほんの少し酸味のある爽やかな香りがした。
「葉や茎は食べられるから、茎ごと摘んでしまいましょ」
こくりと頷いて、用意していた籠にカルドを摘んでは入れていく。丁寧に土を払いながら進めていると、近くに吹く風に不思議な音が混ざった。葉がこすれ合う音や虫の声ばかりが聞こえていたはずの森に、囁きにもざわめきにも似た音が聞こえる。
「この音って、一体」
「この辺りだとたまに聞こえるの。危なくはないから、安心してね」
耳を澄ませると、胸に静かに響くような音に聞こえてくる。もしかしてリコリスが前に話していた妖精が現れたのかと思って周囲を見渡すも、それらしい姿は見えない。ただ、この森に住む不思議な何かに出会えた気がして、嬉しかった。
リコリスの家に戻ってから、カルドの種を取り出し、茎や葉を分けた。残った果実を器に積んでいく度、カネルが興味深そうに鼻を近づける。カネルを再び膝の上に戻してそっと頭を撫でると、カネルは大人しく膝の上で丸まった。
種は使う直前に砕くものらしく、今は果実から取り出して、よく洗ってから干せば良いとのことだった。種は他の薬草や魔法薬とよく混ぜてから、お菓子の材料のように使うらしい。
「薬が苦手な子どものために、お菓子に混ぜてみたのがきっかけだったの」
「そうだったのですね。これは皆、喜ぶと思います」
出来上がった薬を、リコリスがお菓子に混ぜ込むところが頭に思い浮かぶ。優しい目で生地を練っているところを想像して、微笑みたくなった。
分別が終わり、二人でほっと息を吐いた。皿に盛られた果実を見て、彼女はにこりと笑う。
「手伝ってくれてありがとう。食べましょうか」
持ってきたニワトコ茶を淹れて、カルドの実を一つ摘まむ。梨のような味がするのに、食感は葡萄のようで不思議だった。もう一つ、二つと手が伸びていくのを、リコリスが穏やかな目で見つめていて、頬が赤くなるのを感じた。
「このお茶も美味しいわね。良い香りだわ」
「それは良かったです」
ニワトコ茶は白く小さな花で淹れたハーブティーで、マスカットのような香りがするのが特徴だ。その花は妖精が好むと言われているから、森に入った今日にぴったりだと思ったのだ。
「そう、最近魔女集会があったのだけれど」
思い出したように、リコリスは魔女集会での出来事を語り始めた。眠りを安らかにする薬の研究の成果を発表したところ、他の魔女から高く評価されたらしい。ただ、それを人間たちの元でも流通させたいという希望には難色を示されたそうだ。
最初は明るかった彼女の表情に、徐々に影が差す。リコリスが悩みを教えてくれたことを嬉しく思わないわけではなかったけれど、それより彼女の抱えた痛みの方が、ジョシュアの胸を強く刺した。
「魔女である以上、人とはなかなかうまくいかないから。そう言われるのは分かるの」
だけどそれだけじゃないはずだから。リコリスはそう言って、ニワトコ茶を口に含んだ。その丁寧な手つきを見ていると、ずっと胸の内で眠らせていた疑問が喉までせり上がってくる。今なら聞ける気がした。
「あの。リコリス様はご自分が魔女であることを、どう思われているのですか」
恐る恐るリコリスの顔を見上げると、彼女は一瞬きょとんとして、それからゆっくりと笑った。
「魔女になるのは生まれつき決められたことなの。それを疑問に持ったことはないわ」
リコリスは魔法薬と自然毒を研究する流れを持つ家系の生まれらしい。魔女の一族は素養のある子どもか弟子に代々受け継いだ魔法を伝え、さらに発展させられるように育てるのが決まりらしく、彼女は幼少からずっと魔法に触れてきたという。
「私は一人っ子だから、魔法は私が受け継いだわ。魔法を覚えていくのは本当に楽しくて、あれもこれも教えてってせがんだものよ」
その頃は魔女の家系であることを隠して、とある街の外れに住んでいたのだと、リコリスは机に指を滑らせた。意味を持たない形を描き出す細い指を、ジョシュアは目で追う。
「友達も、いたわ。だからその子がひどい怪我をしたときに、薬を作ってあげたの」
まだ、魔女であるのがどういうことか分かっていなかった。だからあんなことができたのだ。そう彼女は目を伏せる。
「薬は受け取ってもらえなかったわ。それから、嫌われちゃった」
同じ生き物だと信じていたのに、中身だけが違うものだったときの困惑と恐れ。そしてそれの中身が忌むべき魔女だった怒り。それが真っすぐにぶつけられて、幼い彼女は殻にこもった。家族と共に逃げる様にその土地を去っても、友達だった人に向けられた感情が消えなかった。
「魔女だと最初に明かさないと、みんな後から変わってしまう」
隠して過ごすか、最初から明かすかのどちらかしかない。だけど最初から明かせば、誰も近寄って来ない。近寄ってくるとしても魔法薬が目当てで、魔女という生き物を皆恐れていた。ただ、どれほど恐れや憎しみを向けられても、人との関わりは完全に断てなかったという。
「人は怖いけど、でも好かれたいの。不思議よね」
それは人と同じ形に生まれたからか、それとも人に混ざって育ったからか。ジョシュアには少し難しい問題だった。だけどその気持ちは分かるような気がして、彼女と目を合わせるのが難しくなる。
「時折私のことを怖がらない人に出会えるから。今は、怖いけど嫌いではないわ」
薬が役に立つのなら、使ってほしい。彼女はそう微笑んだ。薬を人々に届けることで生計を立てているのも、薬の研究をしているのも、そんな純粋な気持ちからだった。
怖いと好かれたい、役に立ちたい。矛盾しているような気もするが、どれも彼女の心に棲む本物の情だ。その一つひとつに嘘はなくて、全てを優しさで包んでいるような穏やかさがあった。
だからリコリス様の魔法は綺麗なのですね。優しい想いを感じられるのも、きっと。
触れた優しさを零さないように抱えていられる彼女だから、優しいままでいられたのだ。自分も人から恐れられ避けられていたから、何だか彼女が眩しく見えて、同時に寄り添いたいという気持ちが強くなっていく。彼女のためになりたいと、心の底から思う。
「僕も、リコリス様が人と仲良くなれるのであれば、嬉しいです」
それがリコリスの望みならば、叶えてあげたい。他にも彼女のように人間と関わりたい魔女がいるのであれば、手伝ってあげたいと思う。人間と魔女を繋ぐ架け橋になれたら。そんな想いが湧き上がってきて、ジョシュアは胸を押さえた。
自分も人が怖い。優しくしてくれた人が突然離れていく恐ろしさも、知っている。だけど、架け橋になれないにしても、せめて魔女たちの相談に乗れるようになりたいのだ。
リコリスに向かって手を伸ばす。机の上に行き場もなく置かれていた手をそっと包んで、真っすぐに見上げた。
「僕は、力になりたいです」
自分のせいで彼女が魔女だと知られてしまって、また彼女が人々に避けられてしまうのは避けなくてはならない。慎重になる必要があるから、すぐに何か出来るものではないのは分かっている。だけど今は、この気持ちが届いてほしいと思った。
例え毒を持つ存在である自分が人にとって受け入れられないものだとしても。彼女に幸せが降り注ぐ未来を望みたい。
「ジョシュ君のそういうところ、好きよ」
握り返された手。それはきっと約束の形。
与えられた温もりに嘘をつきたくないと願い、ジョシュアは祈るように目を閉じた。