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エメラルドに唄って
登場人物一覧
人は日々営みを繰り返すもの。
朝起きてごはんを食べて、お仕事に行ったりして。
夜はゆっくりと疲れを癒して眠りにつく。
「けれど、それは、人魚にも同じことが、いえますの」
瞳を閉じれば今でもノリアの瞼の裏には蘇るのだ。
昔に訪れた、美しい人魚の街の風景が。
その街を訪れた理由は何だっただろうか。
今となっては定かではないけれど。海底に聳える石造りの建物群がとても幻想的だったことを覚えている。
その街の人魚たちは、遥か太古に人間が建造し、海底に沈んだのであろう海底遺跡を住居にしていた。
彼らはそれを人が作ったものと知らなかったのだろうけれど、苔むして風化し、古代の趣を残すそれらをとても大事にしていたのだ。
街のあちらこちらにはヒカリゴケが自生し、エメラルドの光が彼らの灯り。初めてその街を目にした時は、淡く発光する金緑色に目を奪われたのだったか。
きっと、その街を見つけることができたのは奇跡のような偶然の導きだった。
普段街は巨大な海月の群れに守られ、海の捕食者たる生物たちの目からは隠されている。
けれど年に一度、海月達が半透明に透き通る日がある。その一日だけは、人魚の誘う歌声とエメラルドの光をしるべに街を見つけることができるのだ。
だからその人魚の街は、伝説に語られるような憧憬をもって「海の
海底遺跡をそのまま残した街中では、ごつごつした岩肌の露出した地面にヒカリゴケの生えた石柱が並べられ、人魚達は忙しく石柱の間を往来していた。
大亀の引く籠でのんびり街を遊覧していた時も、上や下をするりと人魚達がすれ違って行ったっけ。
珊瑚と海藻が街路樹の如く並ぶ街中はとてもきれいで、景観も美しく。子供の人魚が小魚の群れと泳いでいたのも微笑ましかった。
遊覧籠の代金に貝殻を渡して自分で街を泳ぎ回ってみたけれど、
そのあとはまず図書館に行って、それから食事をしてと考えながら。背の高い塔の天井にぽっかりと空いた入口から図書館に入館。
入口周りを回遊する司書が「どうぞごゆっくり」と笑うのにくるりと回って挨拶を返すと、円形状に底まで続く図書館に潜っていく。
そこは海底図書館。館内には円形の建物の壁に沿って並ぶ棚だけがあり、それぞれに膨大な数の石板が収められている。
石板には深く文字が彫られていて、内容は物語から街の歴史まで多岐に渡るものだ。
とても冷たく静かな場所で、目を閉じればこぽりと静かに泡の漂う音が聞こえた。
冷たい石板に刻まれた叡智は幾星霜の時を重ねようとも消えはしない。
海の護りに包まれて、
それらをいくつも積み上げ保管し、受け継いでいくのが海底図書館の役割なのだった。
いくらか街の歴史を調べてから海底図書館を出ると、今度はなんともお腹が空いてくる。
腹ごしらえをしようと食事処を探すと、紹介されたのは石造りのテーブルのみが並ぶ料亭だった。
柱とそれに支えられた天井だけの店内に、時折魚たちが目の前を泳いでいく。
石板に刻まれたメニューを眺めれば、”海藻と貝類の和え物~貝殻添え~”や”氷水菓子”など、美味しそうなものばかりで目移りしてしまった。
”海藻と貝類の和え物~貝殻添え~”は貝殻の上に一口大に千切られた貝類が乗せられ、海藻で食感付けをした人気料理だし、”氷水菓子”は希少な甘い果物を北の海の氷で贅沢に冷やした嗜好品だ。
貝殻のカトラリーで美味しい料理に舌鼓をうっていると、人魚が集まる料亭らしく色々な話が聞こえてくるもので。
「これから片道1時間かかる水面まで空気を汲みに行くんだ。沢山食って精を付けにゃ」
「うちの子が友達と海辺まで花びらを探しに行くって言ってたから、張り切ってお弁当作るわ!」
気泡が楽し気に躍り、お喋りにも花が咲く。おしゃべり好きな人魚達の憩いの場にもなっていたのだろう。
「今日は数キロ先で沈んだ船を見つけたんだ!つーわけで味のついた水が入荷してるぜ!!」
店内が沸く。味のついた水はこれまた希少品で、難破船を見つけた時にしか店には並ばない。
硬くてツルツルした容器も砕いて装飾品として高値で売れるし、見つけたら一攫千金。難破船を探すのを職業としている人魚もいると聞く。
せっかくだから少しご馳走になってから店を出る頃には、街には微かに斜陽が差していた。
食事処を出たところで辺りを見渡し、気づいた。
石造りの建物群と珊瑚の並ぶ街の向こう。ひときわ高い岩肌の丘上にぽつりと、一際明るく日差しに照らされた風車が聳えていることに。
どうやら微かにしか陽の届かない海底にも、日差しが差し込む場所があるようだ。
ふわふわと惹かれるように泳いでゆくとふと、尾ひれの下の地面に魚影が映るのに気づく。
見上げれば、雄大に泳ぐ色とりどりの魚の群れ。それぞれが輝く鱗に日の光を弾いて煌めいていた。
ほう、と息を吐く。
口の端から零れた泡が水面へ昇っていくのを眺めて、眩しく目を細めた。
丘の上に立つ風車は祈りの場所だった。
風車の上に飾られている十字の飾りが何かの印のようで丁度いい。
そう街のみんなで話し合って決めたのだそうで、この街の人魚達は空に一番近いこの場所で雲に祈りを捧げるのだという。
「雲は海と切っても切り離せぬ存在。時に光る柱を落とし、時に水を落とし……けれど、海に変化をもたらしてくれる存在でもあるのです」
風車の管理人魚だというシスターの女性がそう教えてくれた。
それから「ここは彫刻も有名なんですよ」と秘密めいて笑った彼女は建物の床にあたる場所を示した。
見下げてはっと、息を呑む。
そこには床中を埋め尽くすほどいっぱいに、花々を模した氷像が咲き乱れていた。
氷には匂いも色もないけれど。それでも生きた花を見れる人魚は少ないからと、芸術家たちが協力して作ったものなんだそう。
ここは光が当たる分他と比べて暑いから、冷却する役割も果たしているんですよと笑って、シスターは尚も語る。
この街の人魚は陸との交流に積極的ではない。
でも、消極的だからといって憧れがないということにはならないのだ。
氷の花が咲くように、陸の美しいものにも焦がれているから。
だからこの街の人魚達は年に一度、海月の護りが消える日に歌を唄う。
さざ波の音に混ぜて歌声を届けることで、海底に生きる我らがいることを、忘れないでほしいと願いを込めるのだと。
「今日が終わったら、またこの街は海月の護りに隠されます。それでもどうか、私達を覚えていてほしいのです」
もしもあなたが何時か歌声に誘われ、エメラルドに光る海を見たのなら、そこにはきっと。
大海に揺られて輝く、美しい人魚の街があるのでしょう。