SS詳細
ヲクリビト
登場人物一覧
●
それは、ちいさなちいさな、決意の物語。
死なないから生きているだけだ。
クラリーチェ・カヴァッツァ (p3p000236)にとって「生きる」ということはその程度でしかなかった。
日々を暮らし、いつか静かに朽ちる日が来る。それをゆっくりと待つだけの「今」。
でも――。それは腕の中で眠る白い遊蝶花の名をもつ猫と一緒であればと、少しだけ思う。
日々はただ何事もなく過ぎていく――はずだった。
ある時、有力貴族が彼女が管理する教会とその周辺を買い上げ屋敷を建てる計画が立ったのだ。もちろんそこに住む者たちの都合など考えては居ない。
当然ながら住民たちは立ち退きを拒む。住民たちの結束は強く、金子をどれほど積もうとも立ち退きに応じる様子はなかった。
しかし貴族は調査により彼らの拠り所が小さな寂れた教会だと気づく。教会の管理者を立ち退かせ、住民の目の前で教会を叩き壊してしまえば、住民たちも折れることだろう。
管理者は驚くことに子供らしい。ならば脅せば他愛なく手放すはずだ。
貴族はガラの悪い輩を雇い、教会に踏み込んだ。
がらんとした教会には少女と白い猫。
どこか遠いところを見ているような管理者の少女を脅すためにわざと大きな音をたてテーブルを壊すが、少女は眉すら動かさない。大声で怒鳴っても同じだ。
男は少女の細い折れそうな腕を掴み冷たい床に押し倒す。しゃあ、と猫が威嚇するが、追い払ってやった。
獣欲に満ちた視線にさらされてさえ、少女は怯える素振りすらみせない。
「私の身体がここで支配されようが、挙句命を落とそうが……。それがかみさまが私に下さった運命です」
あろうことは少女は敬虔なる信徒の瞳で男を見上げる。自分に降りかかるものはさいわいも、ふこうですらも神が与えるものという狂信。いや、狂信にもとどくことのない虚無なのかもしれない。
男はその瞳に宿る歪さに言葉を失った。しかし、男は萎えそうになる気持ちを振り払い少女の衣服を引き裂こうとする。
「その子を離してあげなさい」
荒れた教会に凛とした老人の声が響く。けっして強いものではないが人を引きつける魅力のある声だ。
老人は自らを貴族の父親と名乗った。老人がその証拠である家紋のついた指輪を見せれば男は逃げるように捨て台詞をのこして去っていった。
「愚息がすまなかったね」
「……」
老人は少女の手をとり、立ち上がらせると息子の我儘を侘びた。
「まだ、生きろと、かみさまはそうおっしゃるのですね」
その細い声には少なからずの落胆があった。こんなちいさな少女が生きることを諦めていることに老人は驚愕する。
だから――。
「そのとおりだ。君はまだ生きなくてはならない」
老人は少女の歪に眉を顰め、強くそう答えた。
それから、その老人は少女のもとにちょくちょく来るようになった。
ただその日のことを少女に話してその出来事の感想を問いかける、用とはいえないような訪問。
少女も老人が何を思ってそんなことをきくのかわからなかったがたどたどしくもその答えを告げる。
答えたとき、老人は優しく笑ってくれた。
そのうちに老人は少女のことも聞くようになってきた。
自分に興味をもつ他人というのがいるのかと、最初は訝しんでいた少女もいつしか老人の来訪が楽しみになってきていることに気づく。
続く穏やかな日々。
ある日、老人はいつもの問答ではなく願いを口にした。
曰く、彼が死んだらこの教会の墓地に埋葬しろと遺言をのこしたそうだ。そこで、その墓石に花を捧げてほしいというちいさな願いだ。
少女はその願いに小さく頷いた。
自分が死んだら君ぐらいしか花を手向けてくれるようなものが居ないからね、と笑った老人の笑顔が今も胸に残る。
安心したような、悲しそうな、そんな笑顔。
少女は墓石に花を手向け祈る。春告げの風は未だ冷たい。
「貴方は最後に教会に来たときに、生きることに貪欲になれといいましたが、やっぱり私にはわかりませんでした。
ですが、ひとつやりたいことができました。
貴方も、そして私の目に映る人々の魂が安らかであれと祈りつづけること。
最後のときに立ち会えるならその道行きを安らかであれと願うこと――」
それは老人の最後に立ち会うことができなかった少女の忸怩たる思いから生まれたものなのかもしれない。
「それが生きるための理由になったと言えば――貴方はどんな顔をしたのでしょう」
春の強い風に舞い上がったその問いかけは空に解け消えた。
そしてその日から少女は自らをこう名乗るようになった。
送り人、と――。
それは少女の運命が大きく揺らぐ前の――エピソードというにもすこし足りない、ちいさなちいさな少女の決意と誰かへの約束の物語。