SS詳細
ちぐさと不思議な交差点
登場人物一覧
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白いワイシャツにするりと細い腕が通る。鏡の前に立ったちぐさは、襟元を正してピシッと制服を着こなした。
ミントグリーンのベストにショコラブラウンのリボンとサロンエプロン。どこに出ても恥ずかしくない立派なウェイター姿を見て、傍らに控えていた店長――神郷 蒼矢は思わず後ろから抱き着いた。
「似合ってるじゃないか、ちぐさ!」
「蒼矢ー、服がヨレヨレになっちゃうにゃ」
「ああっ、ごめんね! ついカワイ…、立派なお兄ちゃんだって感極まって」
仕方ないにゃ、とちぐさは癖がつきかけた髪を手櫛で梳かしつつ、控室の出口を目指す。
フロアに出れば、ふくりと鼻先に豆乳を煮詰めた甘い香り。夏でもお店の名物、ホットのソイラテは注文が多いらしい。そこへ焼きたてのマドレーヌの香りが混じる。窓辺から差し込むあたたかな陽の下で、ちぐさは胸いっぱいにカフェの匂いを吸い込んだ。
ここはCafe&Bar『
蒼矢いわく、このカフェは本来いるべき
カフェを手伝ってみれば、情報屋の嗅覚で何か手がかりに気付けるかもしれない。
「……と言っても、店主が行方不明になってから、まる一年以上経ってるからねぇ。僕も赤斗も、実のところほぼ諦めている状態なんだけど」
「そうなのにゃ? それなら捜査より、お手伝いを頑張った方がいいのにゃ?」
「そうだねー。最近なんか口コミサイトに載ったとかで、千客万来だし……」
はふぅと蒼矢がため息をついた理由は、開店してすぐに分かった。10分も足らずお店の中は賑やかになり、外には行列が出来る程の盛況ぶり!
「『真夏の思い出かき氷』お待ちどうさまにゃ!」
「すみませーん、こっち追加の注文いいですか?」
「俺もー」
「はいにゃ! 順番に向かうから待っててにゃー!」
(お、おめめがぐるぐるしてきたにゃ~…)
「大丈夫かい?」
耳をへたらせフラフラとホールからカウンター内へ戻ってきたちぐさに、蒼矢がねぎらいの麦茶を出す。くぴくぴ一気飲みしてクールダウンすれば、ちぐさもまた、蒼矢の姿に違和感を感じてゆらりと尻尾を揺らめかせた。
蒼矢といえば
「蒼矢ってお茶が好きなのにゃ? このお店のメニュー、コーヒーとか紅茶だけじゃなくて、中国茶とかまであって複雑すぎるにゃ」
「うん? ……ああ。嗜好飲料全般はね、世話係に作法を一通り叩きこまれてきたんだ」
「ナチュラル~に今すごい事いったにゃ。蒼矢ってもしかしてお坊ちゃんにゃ!?」
「それで言うなら、ちぐさも凄いと思うよ! 紅茶の
チャイを頼んだお客さんには、時間がかかるって教えてくれてたでしょ」
「オールミルクは練達の『ウニャーバックス』で頼む時があるにゃ。チャイはスパイスとミルクとお水で煮出すから、普通の紅茶より手間がかかるにゃ。ショウが教えてくれたのにゃ!」
えへん、と大きく胸を張るちぐさに、蒼矢は素直な拍手を向ける。
「それなら今日は仕事が終わったら、美味しい紅茶をちぐさに淹れてあげるよ」
「終わった後のお楽しみができたにゃ! 元気でたにゃー!」
そうと決まったらこの後待ち受ける
呼吸を置いてピンと背筋をただすと、耳も尻尾も上を向く。宝石を散りばめた様なフルーツパフェをお盆に乗せて、ちぐさは再び
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あれから、どれくらい経っただろう。襲い来る注文ラッシュをちぎっては投げ、ちぎっては投げ……。
「むにゃむにゃ。……あれ?」
気の抜けた声で目を覚ますと、そこはお店のソファー席。
起き上がろうとした瞬間、掛布団代わりにかけられていた茶色い革ジャンがずり落ちて、床に付く前に掴んでひっぱり戻した。
(これ、誰の上着にゃ……?)
ちぐさのぼんやりした疑問は、すぐさま解決に至る。
大きな影がちぐさに落ち、目の前に獣種と思しき猫科の耳と尻尾を持つ男が立っている。ちょうどジャケットに見合うぐらいの体格で、鳶色の鋭い眼光が印象的な人物だ。年齢は恐らく五十代手前といったところだろう。
咄嗟に周囲を見回す。店内に他の人影はない。お客どころか、蒼矢もいない――
「きみがこれを貸してくれたのにゃ?」
怖がるのは簡単だ。混沌に呼ばれたての時期であれば、震えてちぢこまってしまっただろう。けれど今のちぐさには、情報屋として鍛えた観察眼がある。場の状況から推測できたのは、少なくとも目の前の男が自分を害する者ではないという事だ。でなければ、わざわざ自分に掛布団の代わりなど寄越しはしない。
男は依然、無言のままだ。代わりにぬっと傷だらけの太い腕が伸びてきた。ちぐさは緊張で身を強張らせながらも、逃げる事なく様子を伺う。
――すると大きな掌は、ぽすっ。とちぐさの頭に触れた。
そのままゆっくり、毛並みに沿う様に温かな掌で撫でてくる。ふわふわ漂うお日様と柔軟剤の優しい匂いには懐かしささえ感じられる。
洗濯物を干したばかりのママにすり寄ると、決まってちぐさの頭を優しく、愛情をいっぱい込めて撫でてくれた。
大きい無骨な掌から与えられる感触はママと違うものだけれど、心を奥からじんわりと心地よく温めて、春の雪解けの様に少しずつ、ちぐさの恐怖心を散らしていった。
(気持ちいいにゃ…頭の中がふわふわして、なんだかとっても眠たくなってくるにゃ……)
革ジャンを小さな手できゅうっと握りしめて、ソファーの上で丸くなる。このまま眠りに落ちていきたい誘惑に包まれながら、ちぐさはほんの少しだけ頑張ってみる事にした。目の前の男に聞きたい事があったのだ。朧気な記憶の海を辿り、これだと思ったものを掴み取る。
「きみが、このおみせ…の……店主?」
男の返事は無い。ただ、目元にくしゃりと笑い皺が寄る様を、ちぐさの目は見逃さなかった。
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「ちぐさー」
とんとん肩を叩かれて、ちぐさはゆっくり目を開く。テーブルの上に並んでいるのは、ひたひたに漬かりきった
「我ながら最高の出来だと思うんだ。食べてみて!」
いつの間にやらソファーの上で眠りこけていたらしい。店の看板は『準備中』。蒼矢曰く、ちぐさはホールで大活躍した後に、ここでぐったりしていたそうだ。起こしては可哀想だと、蒼矢はそのまま寝かせてくれていたんだとか。
「あ、フォークが足りなかったね」
「僕がとってくるにゃ」
立ち上がった瞬間、地面にずるりと何かが落ちる。
見慣れた革ジャンを抱え上げ、ちぐさは目を見開いた。
おまけSS『休憩Time』
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卵色のふわふわフレンチトーストに小さな犬歯でかぶりつく。もっちりとした弾力と共にじんわり口の中に広がっていく、砂糖とバターの甘じょっぱいハーモニー。
「ん~…お口の中でとろけるにゃ~」
「やっぱりフレンチトーストは焼きたてが一番だよね」
もう味に飽きたのか、蒼矢はホイップクリームを絡めて溶かして、ナイフとフォークで丁寧にトーストを切り分けていた。
「蒼矢、そっちのはちみつ赤い色してるのは何でにゃ?」
「ストロベリーはちみつだよ。はちみつに果汁を混ぜたやつ。…使ってみるかい?」
「試してみたいにゃ!」
ハニーディッパーに赤い雫を絡めて、絡めて。
最初はあまーく、後味すっぱく。ほどよい酸味が口内を過ぎ去った。
「これは何枚でもいけちゃうやつにゃ」
「ははは。食べ過ぎると夕飯たべられなくなっちゃうぞー?」
強めの甘みが仕事の疲れを程よく癒す。
ゆるやかな時間の流れの中で、二人は甘いひと時を過ごしたのであった。