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ヒダル神のその後。或いは、“人でなし”の末路…。
登場人物一覧
●ヒダル神のその顛末
暗い森を彷徨い歩いた。
右も左も分からぬ道を、ただひたすらに彷徨い歩いた。
身体が痛い。
骨は軋むし、筋肉は引き裂かれるように痛む。全身のあらゆる神経が、肉の内でじくじくと熱を持っているのが分かる。
漂う腐臭は、自分の腹のうちから生じたものだろう。
腹が痛い。胃や腸の辺りで、何かが蠢く感覚がする。
「な……何だって言うんだ、これは? どこだ、ここは?」
この腐りきった肌の色はどうしたことか。
泥と血で汚れたこの手は何があった。
自分は一体、どうなっている?
走って、走って、そして夜が明ける頃……大人形 富寿は、川へと辿り着いた。
澄んだ川面を覗き込んだ富寿は驚愕した。
自分の目を疑い、絶叫した。
「誰だ、これ。僕なのか……これは? これが、僕だと?」
川面に映っていたのは1体の怪物だった。
ざんばらに乱れた汚い髪に、骨ばった顔、血走った目。古い絵物語に出て来る餓鬼や魍魎の類のような顔をした、自分で会って自分ではない化け物の姿がそこにあった。
「この顔、あれ……か。実家の蔵にあった……あれのせいか」
“ヒダル神の能面”。呪術師であった先祖の遺した呪具のせいで、こんな有様になったのだ。
思い出した。
その証拠に今の顔に何かが張り付いている感覚がある。
触れてみれば、それが分かる。
顔の皮膚の下に、仮面が埋まっているのが分かる。
「仮面が……割れたのか」
顔の右側に手を触れると、指が沈んだ。
眼球と脳を推される感覚があった。
顔の右側の骨が失われている。仮面と癒着していた頭蓋の一部が失われている。
「トキノエ……トキノエか。また、あいつのせいで」
思い出した。
自分が正気を取り戻す寸前、トキノエと一戦を交えたのだ。
それから、暫く。
人目を避けるようにして、山を下りた富寿の前に幾人かの人影が姿を現した。
知った顔だ。
榊 伊慈の部下たちだ。
そして、当の本人……伊慈の姿も。
「お、おぉ! 伊慈殿! 伊慈殿ではないですか! もしや、わざわざお迎えに?」
喜色の滲む声音でもって富寿は両手を広げてみせた。
榊 伊慈。
富寿と交友のある“病魔払いの一族”の現当主である。
富寿はいつものように、笑顔を向けてもらえるものと思っていた。しかし、そうはならない。冷たい視線を富寿へ向けて、伊慈は告げた。
「化生が私の友の名を騙るか。お前たち、それを捕えよ」
淡々と。
富寿を“人でないもの”として扱った。
「富寿です! 伊慈殿! 私です、富寿です!」
鎖と呪符とで雁字搦めにされた富寿が、掠れた声で絶叫をあげる。
絶叫をあげながら、部下たちの手により引きずられていく。
もちろん、伊慈は“あれ”が富寿であると知っている。
知っていて、富寿を“人でないもの”として扱った。
事実、今の富寿はもはや人ではないのだから。
「さて、脳でも弄れば手駒として使えるか。それが無理なら、解剖して廃棄だな」
なんて。
山の上の方を見やって、伊慈はそう呟いた。
同時刻。
山の上の開けた場所で、トキノエたちは食事をしていた。
夜通し、富寿の行方を捜し、結局、発見できなかったのだ。
唯一残った手掛かりと言えば、トキノエが富寿の顔から引き剥がした“ヒダル神の能面”の一部だけ。血と腐肉と骨とが張り付いた、いかにも禍々しい能面だ。
「くたばっちゃいねぇと思うんだがな……まったく」
能面を布で包むと、トキノエはそれを懐に仕舞う。
そして、空へと視線を向けて誰にともなく呟いた。
「まっとうに生きれる身体なら、まっとうに生きてりゃいいのによ」