登場人物一覧
- アレン・ローゼンバーグ(p3p010096)
茨の棘
- アレン・ローゼンバーグの関係者
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嗚呼、主よ。遥か高みへ御座せられる大いなる神よ。父であり、母よ。貴方が全知全能であるのなれば、何故に惡戲に魂を二つに分け、【僕/私】という不完全な存在をお造りになられたのですか。
蒼穹は高く、眩く優美に燦く光で満ちている。滔々と流れの途󠄁絕えぬ小河の祕かな響きに躍る水の精が清らかな腕で樹々の枝葉模様を描き、咽ぶ程に咲いた薔薇は濃き絳き色、馨しい香りを纏う花弁を孕んだ所處かへ吹るる風が、環の形をした橋の下を潜り豐かな波紋を落として行く。天界という完成された平和の中に在り乍ら、ふたごの存在は異端であり、羨望と忌避、その両方の的だった。
天使、神の遣いとは元来、両性具有――男と女の両方を備えていて、視る者に依って凛々しく毅然とした『男』とも、しなやかで優しい『女』とも解釈が出来、下界では愚かな芸術家達が高く売れるからと競って彼や彼女の姿を画布に遺す。そして識った貌でこう話すのだ、『曖昧なものこそ想像力を掻き立てられる』と。だが如何したものか、そのふたごにだけは明確に姉――女と、弟――男という『性』を持たせて造られた。曖昧さを美徳とするならふたりは醜いのかと云えばそうでは無い。気高さと儚さを併せ持ち、貌立ちは大層美しく、見た者がはっと息を呑むものであったが――ひとりでは飛べもしない者達を天使と呼べるのかと嘲り石を投げる者も多く、ふたりが周囲から孤立して行くのにそう時間は掛からなかった。況してや、虐げられることが却って弟に取ってみれば好都合だったなんて、思いもしない話だろう。
毎晩病める小暗き夢魔が魂の中に欲望を唆しかした。微睡ることすら出来なくなった眼の下には黒い隈がくっきりと刻まれていて、姉の嫩らかな掌を取る度、鏡合わせの眸が交わる度、花が綻ぶかのように咲う貌を視る度、彼女に對して限りない愛著が沸々と湧き出でる。欲望の名は――『戀』と云うのだそうで、行き着く先は奈落だと識って尚、彼はおぼろおぼろの快樂に肉體を委ね、夜の茂みの唯中に奔り倒れて息めば、非情無慙の月に照らされて水面に映る此儕に姉の面影を重ね、戀の酷い喉の渇きを癒す為に神祕の泉を掻き亂しては口を漱いだ。
月日を重ね、歳を重ね、彼は想起するように成るに至る。姉はどんな口振りで他の天使の愛を煽いで、其の肉に覆われて祕愛の襞の奥までを晒け出すのか。臥床の上で銀蛇幾すぢを蓬に靡かせて、されるが隨意に腰を振り、善がり、強請り――吐き出された精を受け止めるのであろうか。あの愛らしい薄紅色の脣が、他の者の名を喚んで、節制の無い形を象って甘やかな嬌声を漏らし、口付けを交わしては眩く光る唾液から輕らかな網目の絲を紡ぎ――後に嫣然とした調子で笑い掛けるというのか。
それで、良いのかも識れない。姉の倖せを考えれば――本当に彼女のことを愛しているのなら、それが良い。嘘だ。そう考えたら、気が、狂ってしまいそうだった。夙の昔に狂ってしまっているだなんて識らずに。
厭だった、厭に決まっている。『自己』が確立した時には彼女を愛していた、愛してしまっていた。尚一層稚拙に噛み砕いて云うのならば『好き』だったのだ。異性として意識して居て、隣は僕だけの居場所であって欲しい。僕が先に好きだった。そう、だから下滓みたいな、低級無智の他の天使共に明け渡す気は無かった、その軀も、純潔も、何もかも。彼女だって、心の底では同じ想いを抱いているに違いない。若し、ふたりの倖せの形が違うのだとしたら――共に在れぬと云うのなら、不倖に為って仕舞えば良い。
穩やかな假面の下、心に祕密の焱を燃やし――兆しは、或る朝のこと。禁忌の戀に焦がれ、遂に心のみならず翼迄もが黒く灼け爛れ初めたのだ。これは、神に叛いた愛を抱いた者に齎される報いの色。こうなってしまった以上、『姉を慕う甘えたがりの弟』はもう演じられない。『堕天』――という言辭が頭を過るが、不思議と少しも脅怖の念を覚えはしなかった。誰よりも優しい心を持った姉ならば――此の誠の愛を告げれば、共に堕ちてくれると、そう信じていたから。それなのに。
想いを打ち明けた時の彼女はとても悲しそうな貌をしていた。それは紛う事無き拒絶だと取れるだろう。幽かな息、沈默、如何にも為らぬ静謐けさ。そして、極微の息吹の後に彼女の頬を濡らしたのは悲哀から来る茫莫たる涙珠だった。その悲痛な眼見に射抜かれた、魔に憑かれたる心は激しく亂れ、ふたりは孤と孤に分たれたのだと理解すると同時に襲い来たのは『自己の消滅』だ。
「神様に」――『やめて』、
「謝りに」――『ぼくを』、
「行きましょう」――『どうか』、
「心から」――『そんな眼で』、
「入れ替えて」――『視ないで』、
「そうすれば」――『そうしたら』、
「屹度」――『絶対』、
「神様も」――『ぼく達は』、
「御赦しに」――『永遠に』、
「為って」――『分たれて』、
「下さるに」――『もう』、
「違い」――『一緒には』、
「ないわ」――『居られない』。
躬らが抱いた戀の深度を喩え姉や創造主であろうと、『他人』の尺度で測られたくは無かった。その身勝手さが深く傷付けるだなんてこと、予想だにしないのだろう。赦しを乞うだなんて身滲めったらしい事、出来る訳が無い。この想いを穢されたくも無い。男は女に囁きかける。
――『神様の言辭程、當に為らないものはないよ。老耄て一徹の『存在』の云う事になんて、耳を傾けてはいけないんだ』。
けれど、女に取ってそれは絶対だった。滑らかな絹糸を脱ぎ捨てて、姉の女體が顕に為り、しなやかな腕が伸びて来て控鈕を脱して行く。漸く、心が通じたのだと恍惚した心地で居たが、愛らしく泣く聲に力も失せて、魔に虜るる心は汲めど掬へど盡きせぬ。共に纏ったのは咎めの衣、荊棘の頸飾り。頭に被くのは侮蔑の重荷。曠野の道を進む大空に光輝満ちて、その分だけ彼の翼は焦がれていく。片側に涙珠を垂れ、もう片側で笑ぐ姿を視て、衆人は擧って『狂ってしまったんだ、可哀想に』と嘲った。
天使が堕ちたら、何処へ行くのか。それは誰にも判らない。堕ちて戻って来た者は居ないのだから当然といえば当然だ。翼はなほややに焱えて、終ぞ彼の心は満たされた。金色の光の中に跪づき、その身を軈て横たえて心優しく壓倒されて――他の誰でも無い姉の手で、彼の體は宙に舞う。その時まさに太陽は終いに戀愛の薔薇と咲き誇り、姉には沈む日の死を歔欷く緋を、弟には宿命を歡喜ぶ純粋の蒼を咲かせた。
「さよなら」――『さよなら』、
「私」――『僕等』、
「いつまでも」――『産まれ変わったら』、
「待って」――『その時は』、
「いるわ」――『また、ふたりが良いね』。
ごろん、と鈍い音が遥か頭上から聴こえ――然し深く、深く、夢を見るように堕ちて行く彼には。姉の『最期の嬌面』を識る由は無い。
そして、残酷な運命は流転する――。
おまけSS『Let him write it.』
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『嘘をついても良い日?』
「うん、そうなんだ。嗚呼でも、勿論、冗談で聞き流せる範囲でだよ。人を傷付けるようなことがあってはいけないからね」
『まあ! そうね。じゃあ私もアレンに嘘をついても良いかしら?』
「最初からそうと言ってしまったら意味が無いじゃないか、姉さんったら」
『あっ、それもそうね……でも、ひとつ、お話を思い付いてしまったのだもの』
「ふふ、じゃあ聴かせてくれるかい?」
『ええ、此れは私達の前世のお話。――私達は双子の天使だったの。ふたりでひとつの翼で、何時だってふたりは一緒に居たわ。でもね、私達は神様を怒らせてしまったの』
「え――……? 姉さん、それって、」
『神様に謝りに行きましょう、って私が云った時のあなたはとても、悲しそうな眼をしていたわ、それで、えぇっと』
「『神様の言辭程、當に為らないものはないよ』って?」
『あら? あらあら? 私、このお話はもう何時かしていたりする?』
「いや、初耳だけど――それで? それからお話は如何なるの?」
『ええ、そうね。心を入れ替えることなんて難しい! ってあなたったら頑固になってしまって……あなたらしいでしょう? それで、あなたは堕天使、私は飛べない不完全な天使に分かたれて――……』
「さよなら、」
『え?』
「良いから、続けて、姉さん」
『さよなら、私いいつまでも待っているわ』
「さよなら、僕等産まれ変わったらその時は」
「『また、ふたりが良いね』」
「やっぱり、そうだ。僕、同じ事を夢で見ている。嗚呼、それで、それで、僕は堕ちて行って」
『それで、私の首もごろん、と堕ちるの』
「待っておくれよ、そこまでは、僕は、僕は、識らない……」
『私、それで泣きながら。あなたを追い掛けて行った』
「……そう、かあ。で、姉さん。それって何処までが本当で何処までが嘘なんだい?」
『内緒よ、内緒。明かしてしまったら、嘘じゃなくなってしまうもの!』
「嗚呼、けれど嘘を吐いて良いのはお昼まで、なんだ本当は」
『何ですって! アレンったら、もうっ!』
「はは、そうむくれないで。『僕の』、可愛い姉さん――……」