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変わりたい
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嫌な夢を見た。
黒が入り混じる紫色が、美しい景色を飲み込んでいく夢だった。そこに咲いていた草木は紫に飲み込まれた途端に枯れ、逃げられなかった生き物たちはその命を吐き出していった。
夢というものは曖昧で、確かなことを理解するには足りない。だからその紫が具体的に何なのか、ジョシュアには分からない。それでも毒だということは分かるから、目の前に広がる光景が恐ろしくなった。
止めなければ。そんな思いばかり浮き上がって足を動かすも、踏み出した先で足が沈んでいく。縺れて転び、それでもと手を伸ばすも地面がなくなった。
落ちる。身体の内側と外側がずれていくような感覚。悲鳴が零れる前に視界が黒に閉ざされた。
「早く大きくなってね」
一切の光が消えた中、響く声。それは森にいた頃からよく知る少女の声で、ジョシュアは耳を塞ごうとして――目が醒めた。
半身がベッドの上からはみ出していた。落ちる感覚はこれだったのかとほっとするようで、紫が広がっていく光景の生々しさが瞼の裏に焼き付いて離れない。
びっしょりかいた冷や汗がシャツに張り付いていて気持ち悪かった。着替えて水を飲もうと思って立ち上がると、身体がふらりと傾く。
時計を見ると、まだ布団に入ってから二時間も経っていなかった。身体が睡眠を欲しているのを感じるが、眠りについたときに再びあの夢を見てしまったらと思うと、再び布団に入ることすら避けたくなってしまう。だらだらと着替えてゆっくり水を飲んで、それからやっとベッドの縁に腰かけた。
じっとしていると思い出すのは、ザビアボロスの怨毒のことだった。
毒と薬は紙一重。毒でも誰かを救うことができるのだと信じたい。だけどこの一件は毒は毒でしかないと思い知らされるようで、心が痛かった。
先ほど見た悪夢はこのことを考えていたせいなのだと思う。夢に見る程に、あの毒のことが心に突き刺さって抜けない。それこそ刃に塗られた毒が身体を苦しめていくように、じわりじわりと胸から痛みが広がって、全身を鈍くさせていく。
今日はリコリス様と会う日なのに。薬を作る日なのに。
彼女に会う時は暗い表情を見せたくない。できるだけ普通に、明るく過ごしたい。沈んだ様子を見せれば彼女を心配させてしまうというのもあるけれど、こちらが笑っているほうが彼女はよく笑ってくれる。だからこんな風に夢に怯えたのも、毒について苦しく思っているのも知られたくない。
せめてしっかり寝なければ。そう思えば思うほど頭は冴えていくようで、なかなか眠りにつけなかった。
朝に目元を冷やして温めてと繰り返したからか、顔色は随分よくなったと思う。だけど思考にかかった靄はなかなかとれなくて、リコリスの住む世界に来る前に出会ったカトレアに不思議そうな顔をされてしまった。
リコリスに会えたら今度こそ普通に過ごそうと決めて、蒸し暑くなった森を歩く。時折汗を拭いながら緑が深くなった場所を進むと、カネルが道の真ん中で待っていることに気が付いて、ほっと息が零れた。
カネルの前足が、ジョシュアの靴に触れる。何でもないのだとジョシュアはカネルを抱えて、リコリスの家までの道を急いだ。
「ジョシュ君、いらっしゃい」
リコリスは庭の日陰に腰かけて、扇子でぱたぱたと顔を仰いでいるところだった。近くには水が残った如雨露が置かれていて、少し前まで水やりをしていたのだと分かった。
「今日はよろしくお願いします、リコリス様」
ジョシュアがお辞儀をすると、彼女はにこりと微笑んだ。「一緒に頑張りましょうね」と柔らかな声が耳に響いて、心臓がとくりと音を立てる。
恋心を自覚したのは友人とのやりとりがきっかけだった。一度気が付いてしまうとふわふわとした気持ちをどう扱ったらいいか分からくなって、髪色が変化していないか気になってしまう。そんなジョシュアの内心をリコリスが気付いているのかはまだ分からないけれど、特に髪色について触れられることもなくて、何となくほっとした。
家の中は窓際に鉢植えの植物が並べられていたり、青や緑などの涼し気な色合いの小物が増えていたりと、この夏を少しでも快適に過ごそうとしている様子が伺えた。この部屋に馴染めばいいと思ってお土産の花束を取り出すと、リコリスが「まあ」と声をあげた。
「手紙で話していたお花です。アルバフロッケという種類で」
元々は浮遊島に咲く、ワタスゲにも似た白い花だ。きちんと育つかずっと心配していたが、予想に反して立派に育ってくれた。
「ひんやりするのね」
花束を受け取ったリコリスが驚いたように呟く。その指先が白い花弁にそっと触れている様子を、思わず見つめてしまっていた。
「大事にするわ。ありがとう」
じっと見てしまっていたことが照れ臭くなって、こくりと頷く。こんな風に喜んでもらえたのだから、育てた甲斐があるというものだ。胸のうちで温く心地の良いものが息をしているのを感じて、ジョシュアもそっと口角を上げた。
アルバフロッケを花瓶に生けてから、薬作りを始める。
使う材料は、フロイドと呼ばれる薬草の葉をじっくりと発酵させたものと、魔法の込められた粉が複数、それから黒い羽が一枚。それらを順番通りに煮だして煮詰めることで解熱剤はできるそうだが、魔法の力加減が難しいらしい。込めた魔法が少しでも足りなければ効果が出ず、少しでも多ければ体に有害な代物が出来上がる、そういう繊細な方法らしかった。
「冬に診療院を手伝ったときに、高熱で苦しむ子供たちに普通の看病しかできなくて」
その時の出来事が悔しくて、薬を作りたいと思った。冷やす事なら自分の毒と相性がいいはずと思って解熱剤作りに挑戦しているが、成長して毒が強まった分特性が映りやすくなったようで、なかなか薬を作り出せないでいる。
「私もこれは毎回薬にできるわけじゃないから。肩の力を抜いてね」
「やってみます」
まずは赤色の粉を鍋に入れて水に溶かす。完全に溶けたら火にかけて、黒い羽を入れる。それから魔法の粉を一つずつ入れて、粉が完全に溶けるまで待つ。
「あまりかき混ぜると羽が切れちゃうから、そっとね」
「はい」
リコリスには前と同じように、少し離れたところで見守ってもらっている。万が一のために解毒剤を持ってきてはいるが、やはり使うような事態は避けたい。
粉が完全に溶けてから、フロイドの葉を入れる。そこに自身の毒の力を通して――。
『早く大きくなってね』
夢に現れた少女の言葉が蘇る。手が一瞬強張って、リコリスに気が付かれないように握りなおした。
たとえ望まれたとしても、あんな風に恐ろしい毒になるのは絶対に嫌だ。薬にもなり得るこの力を、ただの毒にしてはいけない。薬になりたい。そう思うと苦しくて、早く抜け出したくて気がはやる。夢で見た光景を振り払うように力を込めると、ぱちんと水面が音を立てた。
「あ、そんな」
使わなくても、触れなくてもこれは毒だと分かる。解熱剤としての薬効を持っていない、身体を冷やし過ぎたり頭痛を引き起こしたりする、ただの毒だ。
「ジョシュ君」
呼ばれてそっと振り返ると、ちょうどリコリスが立ち上がったところだった。作ってしまったものを見て欲しくなくて、彼女を見上げるのを少し躊躇った。
「落ち着いて。息を吹きかけるように、そっと撫でるようなイメージで」
リコリスが伸ばした手が、ジョシュアの手に触れる。固くなったそれをそっと包むような動作に、申し訳なさと、話を聞いてほしいという気持ちが湧き上がってくる。
「僕は、毒のままでいたくないです」
ぽつり。零れた言葉に、はっとしたように彼女はこちらを見た。
「何かあったのね」
少し、話してもいいですか。そう尋ねると、リコリスは「紅茶を淹れるわね」と微笑む。その穏やかさにジョシュアは静かに息を吐いて、それから頷いた。
紅茶はレモンの香りがするものだった。お菓子は果物がぎっしりと詰め込まれたゼリーで、陽光が透けてきらきらと輝いている。そっと口に運ぶと体温でゼリーが崩れて、柔らかな甘みが広がった。なんだかほっとした。
「美味しい?」
「ええ。とても美味しいです」
「良かった」
リコリスもまたほっとしたように表情を崩して、紅茶に口をつけた。そのゆっくりとした動作がこちらの話を待っているような気がして、ジョシュアは一つ息を吐く。
「その、実は」
今自分が住む世界で何が起きているのか。そこで自分が何に出会ったのか。どんな夢に魘されたのか。どこから話せばいいのか分からなくて、途切れながらも伝えた言葉たちに、リコリスは静かに耳を傾けてくれた。
「魔法の薬を作るのってなかなかうまくいかないのよね」
リコリスの薬を使うのは、魔女よりも人間の方が多い。迫害はするくせに都合の良いときばかり頼ってくる存在に嫌気が差して、薬を作れなくなってしまったことがあるという。同じ手順を踏んで薬を作っても、身体に有害なものばかり出来てしまったのだと、リコリスは苦笑した。
「でも私の薬を欲しがる人の中には、本当に困っている人もいて」
本当に困って魔女の薬に縋る人たちは、皆それぞれ違う目をしていたと彼女は言う。恐れを抱いたまま傲慢に薬を奪おうとする者も、赦しを乞う者もいた。そしてその中には、魔女にも優しく振る舞おうとする者がいた。
「心の綺麗な人のために薬を作りたいって思ったの」
魔法が薬になるか毒になるかは、心の在り方に大きく左右される。優しい気持ちで心を満たした時、薬は生み出せる。
「ジョシュ君は、どんな人のために薬を作りたい? どんな薬になりたいの?」
リコリスが真っすぐにこちらを見つめる。その目に灯した穏やかさと真剣な様子に、固まっていた心がほどけていくような、そんな感覚を覚えた。
「僕は」
悩みながらも選んだ答え。その言葉に、彼女はそっと表情を崩した。
おまけSS『穏やかな夜を』
「これが手紙で話した薬なの」
はにかみながらリコリスが差し出したのは、小瓶に入れられた液体だった。持ち上げると小さな光が中で揺れるようなそれは、星空を閉じ込めたようだった。
「気持ちを落ち着かせる薬草と、疲れを取りやすくする粉と、あと」
リコリスが込めた魔法には、「穏やかな夜を過ごせますように」という願いが込められている。それが手に取った途端に伝わってきて、この優しさに包まれて眠れたらどれだけ良いだろうと思った。
「持って帰って、使ってみてくれる?」
頷くと、リコリスはぱっと表情を輝かせた。使った感想がどうだったか教えて欲しいとその表情で頼まれて、ジョシュアもまた笑顔を見せる。
「僕が使って効果があったら、この薬は完成なのですか?」
「そうね。ジョシュ君が使ってみた様子で少し調整はするけれど、ほとんど完成だわ」
大事な役目をありがとうございます。ジョシュアの言葉にリコリスは照れ臭そうに笑う。些細なことであれ大事なことであれ、彼女のために何かできるのは、嬉しい。
ジョシュアが微笑むと、カネルが膝の上に飛び乗ってきた。柔らかいものに触れているとリラックス効果が増すと言っているとリコリスが教えてくれて、ジョシュアはそのふわふわの毛を撫でた。
まだもらった薬を飲んだわけでもないのに、心が穏やかになっていくのを感じる。今夜はよく眠れそうだと思った。