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Ephemeral

登場人物一覧

ハルア・フィーン(p3p007983)
おもひで

 その日、ハルアの目に飛び込んできた太陽は、赤く、大きく輝いて見えた。
 夕暮れ時を行き交う人々は、ハルアには馴染み深いようで見知らぬ者たち。ああ、夢の中のような空中神殿で聞かされたっけ……そういえば、とハルアはふと思い出す。ここが『無辜なる混沌』という、どこか、遠い、遠い異世界なのだ、と。
 ふと、視界の上方に眩しさを感じる。おそるおそる光の源に、自らの指先を伸ばしたハルア。
 ああ、なんだ、そういうことか。優しく輝く光の原因は、自身の額の宝石だ。夕陽を受けた月長石色の宝石は……彼女に堪らぬ愛おしさと懐かしさを感じさせ、ハルアはそっとその表面を撫でる。
 その理由が一体どうしてなのかは、彼女にもさっぱり解らないのだけれど。



 彼女がどんな世界からやって来たのかは、どういうわけかハルア自身も憶えていない。ただ、彼女に言えるのは、その世界が二つの淡紫色の瞳には入りきらないくらい、美しく、不思議に満ちていたということだけだ。
 どこまでも色とりどりの花の絨毯が続く平原。
 まるで古代の怪物がまとめて石化したかのような岩山群。
 その世界には、一度目にしたら決して忘れるはずのない光景が幾つもあって、その細部までは思い出せなくなってしまった今も、その時の印象と心に抱いた想いばかりは強くハルアの中に残っている。

『この世界を、守りたい』

 それは――真実か今の彼女の願望に過ぎなかったのかは定かでないが――、世界に恋した娘の願いであった。
 高い山頂で煮え滾る岩も、大海原を掻き混ぜる嵐も、等しく彼女の愛した世界。火山から溶岩が零れなければいつしか陸地は海に呑み込まれてしまうし、暴風が大波を作らなければ海の栄養分は全て沈んでしまう……猛毒の火山ガスは木々を枯らし生きものを苦しめはするし、高波は陸に溢れて表面を掻き毟りもするが。
 けれどもかの地に住まう人々は、世界を支えるための小さな代償すらをも拒むのだった。残念ながら、仕方のないことだ……世界維持のための代償は、確かに世界そのものと比べれば些細なものかもしれない――しかしその上で暮らすちっぽけな存在たちにとっては、無限にも等しい悲しみを背負わすものだ。
 その悲しみを取り除くことができたなら。ハルアとて、そう願わなかったわけではないだろう。この世界が素晴らしく、かけがえのないものであることを、彼女は一人でも多くの人々に知らしめたいと感じたに違いないからだ。
 だから人の力ではどうしようもない天災が起こる度、彼女は運命を嘆く人々のところへと飛び出してゆき、彼らを励ましたり、持ち前のバイタリティで率先して行動し、復興のためのあれこれを手伝ったりもした。自然は畏れられるべきかもしれないが、決して恐れるべきものでも、憎むべきものでもないのだ――そういった事柄を皆に説くために。

 ――だというのに。
 自然に虐げられた人々の怨嗟は、いつしか彼女独りの力ではどうにもできないほどに、大きく膨れ上がってしまった。
 自然を制せよ。
 支配せよ。
 気付けば彼らは危ういものも、美しいものも、何もかもを自分好みに変えようとするようになってしまった。
 いや、その程度であればハルアも拒否はするまい……どれほど美しいものであっても、いつか必ず崩れ去ってゆくのが世界の理だ。そして、そうすれば今までとは全く違う、新たな美しいものが、その残骸の中から生まれ出ずるのだから。
 だからハルアを最も苦しめたのは、もっと別のものだった。
 自然に真っ向から立ち向かい、多くの勝利を積み重ねた人々は、繁栄を謳歌して数が増えすぎていた。ハルアの手助けは彼らの隅々にまでは届かずに、希釈しきれぬ絶望と呪詛が世界に溜まる。

 いつしかハルアの額の宝石は濁りを帯びて、どす黒い瘴気が彼女を蝕んでいた。
 それでも彼女は世界を愛していたし、その世界を呪う人々さえをも見捨てはしない……ただ、言い知れぬ痛みが全身を襲い、かつては闊達だった彼女を病床へと縛り付けていただけだ。
 彼女は抱いている愛の全てを伝えようとはしたが、苦痛なしにそれを行なうことは叶わなかった。ただでさえ増えすぎた人口に比べれば彼女の顕現は減っているのに、今では割合のみならず絶対数でさえ往時には届かない。人々が彼女を忘れゆくのが解る。濁った宝石は今ではわだかまる闇のようにも変わり、彼女を、そして彼女の愛した世界を、底知れぬ虚無へと誘わんばかり……。

 地上には天まで届かんがばかりの螺旋塔が聳え、途方もない富と権力を手にした者たちがそうでない者たちを虐げていた。大地は焼かれ、略奪されて、海には得体の知れない廃液が流れ込む。山は砕かれ、地は掘られ、秘められたささやかな宝物さえもが無残に根こそぎ奪われてゆく。
 無論、人々とて全てがそれを良しとしたわけではなかっただろう。うら寂れた聖堂にはやつれ痩せ細った人々が日夜集って、女神に救いを祈り続けた。ある学派の者たちは団結して立ち上がり、今の自分たちの文明がいかに自然の摂理に反し、このままでは人類も共倒れになることを証明せんとした、だが――。
 権力者たちは、そんなこと望んでなどおらぬのだ。聖堂はとってつけられたような他愛もない理由で取り壊されて、学者たちの主張は捏造されたデータによって“反証”される。全ては“世界に安寧をもたらすため”に。ハルアの愛した美しい世界を、権力者たちに都合のいい解釈によって維持するために――。

 淡い紫色の瞳から大粒の涙が零れるのと同時、世界は音を立てて崩れはじめた。
 山々が活力を失った陸地はゆっくりと沈み込みを始め、最初は沿海の人々を、次に内陸の人々を海への贄とする。
 が……彼らの死が次の生へと繋がることはない。何故なら海深くに沈んだ彼らを掬い上げるべき力の源は、とうの昔に失われてしまったからだ。
 それでも、権力者たちは後悔などしなかった。彼らはいまだ無尽蔵の富の上に胡坐をかいており、災厄など幾らでも逃れることができる――少なくとも、今はまだ。
 ハルアの耳奥に声が木霊する。救われなかった人々の祈りだ。
 その声は次第に数を増やして、時と共に大きくなってゆく……なのに何もできない自分が歯痒くて、ハルアの涙は止め処なく流れ落ちてゆく……。

 全身を内側から引き裂かれるような苦痛の中で、ハルアはどうにか立ち上がってみせた。そんなことをすればもう長くない……そんなこと、他ならぬ彼女自身が解っているというのに。


 だとしても……愛するものが朽ち果ててゆくさまを、彼女は最期まで眺めていることなんてできやしなかった。もしかしたら我が身全てと引き換えにしたのだとしても、ただ苦しみの時を長引かせるだけの結果に終わるかもしれないけれど――。



 ――ハルアがふと思索から我に返った時には、茜色が残るのは西空の端だけになっており、月と無数の星々が頭上に瞬いていた。
 そういえばこの世界に来る前の最後の記憶は、彼方の山の麓まで広がる黄金色の薄の穂や、霧がかった絶壁の間を縫う川面だったような気がする。
 ハルアは、月光を受けて青白く輝く宝石にもう一度懐かしげに指先を触れると、手櫛で前髪を整えて、大切そうにそれを髪の間へと仕舞い込んだ。
 それから、どことなく誇ったような、楽しげな表情を浮かべて、『ローレット』の入口を潜っていった。

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