PandoraPartyProject

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あなたの温もり

登場人物一覧

日高 天(p3p009659)
特異運命座標
日高 天の関係者
→ イラスト

 アナトラ、と。彼が呼ぶたびに胸がとくりと高鳴った。聞きなれてしまった偽物の名前は、自分のものだとずいぶんと認識できるようになった。
 家鴨アナトラと名を改めたアリエーテ・ヴァン・フンスリュック。母は幻想貴族ラブラドル家の末娘、父は成金商人のフンスリュック。生粋のお嬢様育ちであった娘は老貴族ウィンゲートがローレットに齎した依頼を受けてから天のもとへと身を寄せていた。
 不憫な奴隷の娘に帰属令嬢の様にふるまうことを許した老貴族は護衛役として天をアナトラの世話役に任命したが――彼女のためを思えばこそ、天はウィンゲート家にアナトラを預けてローレットでの仕事に向かうことがあった。ウィンゲートは高齢だ。落魄れた元貴族階級の奴隷少女に色事や殺しの術、その他奴隷にふさわしい扱いではなく、彼女の品格に見合った生活を与えているだけでも特異な事である。ウィンゲートが亡くなったならば彼女と自身の関係性も掻き消えてしまう可能性だってあった。
 ウィンゲートは「アナトラを譲るならば、まずは天殿が彼女をそれ相応に暮らしていけるような基盤を用意せねばならない」と揶揄う様に言っていたのだが。
 ああ、そうだ。
 そう言われたから最近は無茶をした自覚はある。幾つかの護衛依頼や討伐依頼を受け、報酬を受け取った帰りのことだ。
 アナトラには数日は留守にするため、ウィンゲートの邸宅で過ごして欲しいと告げてあった。多少の怪我や汚れならば自分で何とかできるはずだ。彼女に心配を掛けるわけには行くまい。
 足を縺れさせながら何とか自宅に帰り着いた天は、玄関にでも横になってから動き出そうと考えた。其れだけの疲労がその体には蓄積されたのだ。
 最早我慢の限界だ。幸いにしてアナトラが居ないのだから何れだけ不格好でも構わない。
 もう考える事も出来ない。頭が重くなってきた。取りあえず、眠りたい。
 そう、扉を勢い良く開いてから、崩れるように前に倒れかけた体に――何かがぶつかった。
「おか、」
 聞き覚えのある声に天は慌てて目の前のを抱き締める。ふわりと華やいだ薫りと柔らかな感覚。視界を覆ったのは真白の気配だ。
「きゃっ――!?」
 ――と。
 たったそれだけの声を聞き天の意識ははっきりとした。気がつけば目の前には居なかったはずのアナトラが立っていた。しかも、倒れかけた体を受け止める位置に、だ。
 勿論、そのままアナトラを強く抱き込んだ。無意識ではあったが、何かが目の前にあることを認識した瞬間にそれを抱き込んでしまった――らしい。
 視界を覆った白は彼女の波打つ白髪だったのだろう。柔らかな薫りも、その感触の全ても、アナトラという少女を構成するものであったと認識する。
 サァ――と血の気が引いた。無意識とはいえ、淑女の体に触れてしまった。
 彼女は元々は成金商家の娘と言えども貴族令嬢とも呼べる身分だ。其れがどうしたことか奴隷市に流されてからはウィンゲート翁の庇護下で暮らしている。
 現在の身分が奴隷であれど待遇は貴族そのものであるのだから、この様に男が触れるのは非常に拙い。
「すっ、すまないアナトラ!」
 勢いよく見を引きはがし、天は青ざめながらアナトラの顔を見つめた。
 華奢な肩を掴んだからだろうか、彼女の体がびくりと揺らぐ。強く握りこんでしまった自覚から「あっ」と思わず声を漏らしてから天はしどろもどろになりながら「アナトラ」と呼びかける。
「ど、何処か痛い所は……怪我はないか!? 重かっただろう!?」
「あ……いえ……」
 顔を覗き込めば、アナトラは耳まで真っ赤に染まっていた。その美しいエメラルドの瞳が所在なさげに揺らぎ、真白の髪が頬へとかぶさる。
「は、はい……だ、大丈夫です……」
 かあと勢いよく顔を赤らめてからアナトラは俯いた。思わずその体から離れた天の頭の先にまで熱が昇っていく。
 ――ああ、一体どうした事か。
 拒絶をされたというわけではないのだろう。寧ろ、恥ずかしそうに視線を逸らす姿は愛らしい。
「お、おかえりなさいませ……ご主人様、その……湯、湯を、ご準備しますね。お疲れ、のようですから」
 いつもよりぎこちなく告げたアナトラに天は「ああ」と絞り出すような声音で言った。
 駆けて行くアナトラの背中を見ながら天は頭を抱え込む。先程見た彼女の表情は愛らしかった。けれど、そこにどの様な感情が存在していたのか。
 目を見開き、それから腕の中で大人しくしていた彼女は頬を真っ赤に染め上げていた。拒絶されたわけではないならば、あれはどう言う事か。
 もう一度、その表情を見たいと願って仕舞うほどに、愛らしいものであった。
 ……いや、表情だけではない。柔らかな髪から薫ったシャンプーの香りも。抱き締めたその柔らかな肢体の感触さえ、どうしたって忘れ難い。
 今だ、手にはその感触が残っているようだった。いいや、そんなものを思い出してはならない。首を振るが、どうしたって意識してしまう。
 暫く呆然と立ち尽くしていた天へ「ご主人様、お風呂へどうぞ。お食事の用意をしますね」とアナトラは壁からちょこりと顔を出して声を掛けてくれた。
 普段ならば近くまでやってくる彼女は、妙に余所余所しい。
「食事の用意? ――ッ、アナトラ、すまない」
「いいえ。私は使用人です。それに……ご主人様からウィンゲート様と夕食も、と仰せつかっておりましたが……帰って来られると、思っておりましたから……」
 材料はウィンゲート家の使用人に分けて貰ったのだと言う彼女は暫く共に過ごしたことで知り得た天の好物を作るのだと意気込む。
 そんな彼女に天は肩を竦めてた。事故だったとは言えど、意識をしすぎただろうか――いや、でも。それならば、どうして寄ってこないのだろうか。
「アナトラ。待っていてくれれば手伝う」
「い、いいえ。……その、お怪我の手当も、必要でしょうから……まずは汚れを落としてから」
「大丈夫だ、自分で出来る」
「私が、致します!」
 灼けに強くそう言った彼女は天の元へと走り寄ってからその手をぎゅうと握る。小さな掌に包み込まれた天の無骨な掌がぴくりと揺らいだ。
「その……だから、お、お任せ下さいませんか」
 頬を赤く染め上げたアナトラの唇が揺らいだ。見下ろしていた天とてその表情を見ればまたも、意識せざるを得ない。可愛らしい少女の意図は分からない儘、「分かった」と天は浴室へと向かった。

 着替えとタオルを準備してから、キッチンへと向かったアナトラは独り言ちる。料理をすると幾分か心は落ち着いたが、それでもまだまだ頬の熱は引きそうにない。
 自分の為に、と仕事を承けてくれていることは知っていた。ウィンゲート翁も高齢だ。彼が亡き後は奴隷であるアナトラは『護衛依頼』を承けた天とは離れることになるやも知れない。
 孫娘のように可愛がってくれる彼はアナトラが願うならばウィンゲートの養子として迎え入れる事も出来ると声を掛けてくれていた。其れを拒否したのは主人となった天がどうしても気になったからだ。彼の事を危なっかしいと思っていた。目的を探し求め、危険地帯にだって飛び込んでしまうような人だったから。
(――ウィンゲート様、私はあの方と一緒に居たいのです。危険な事だって顧みないのですから、家で誰かが待っていた方が良いでしょう?)
 それが湧いた情だと言われればその通りだった。其れだけだと思っていたのに。
 ああ、ウィンゲート様。どうしましょう。貴方様の仰るとおりだった。
 アナトラは鍋を眺めてから嘆息した。果たして、其れだけかと揶揄うように行った翁の柔和な笑みを思い出す。
 疲弊した彼が崩れるように帰宅した。本当は玄関にでも寝そべって、少しだけ体力を回復しようとした程度だったのかもしれない。
 けれど――お帰りなさいませ、と声を掛けた自分の上に彼が落ちてきた。支えきれない重みに足が縺れた時、彼は目の前に何かがあると理解してその腕で抱き寄せてくれたのだ。
 想像よりも幾分も逞しくて、埃と汗と、血のにおいがする。怪我をしたのだろうか、と考える前にがしりと抱き込まれたからだが密着して、心が悲鳴を上げた。
 思わずその背に腕を回してしまったのは不可抗力だ。ぎゅうと強く抱き締められた時、強く考えてしまったのだ。
 アリエーテ本当の名前を呼んで欲しい、だなんて。
 名前を捨てたはずなのに。もしも、此処に居るのがアナトラ奴隷ではなく、アリエーテ貴族の娘だったなら?
 奴隷と主人の関係性も何もない、只の男女だったなら。
 この先に繋がる関係性があったのだろうか。考えれば考える度に気恥ずかしくなって行く。
 手に触れたのだって、怪我の手当てをしたいと乞うたのだって自分の気持を確かめるためだった。
「アナトラ」と呼ばれた名前に心臓が跳ね上がった。違う、本当の名前はそれじゃないけれど。貴方が呼べば心地良いと感じていた。
 ああ、だって、こんなの――貴方の事が、好きだと言って居るようじゃない。

「アナトラ」
 背後から声を掛けられてからアナトラはびくりと肩を跳ねさせた。
 その赤く染まった頬に天は視線を逸らす。驚きと、羞恥と、それからその眸が物語った何かを乞うような視線に胸が高鳴って仕方が無かったからだ。
「ご主人様」
 唇を戦慄かせたアナトラに天は余所余所しく視線を逸らした。
「食事の準備を手伝おうか」
「あ、……それでは配膳を……」
 そう呟いてから、彼が見下ろしていることに気付いてアナトラはそのふんわりとした髪で視線を遮り俯いた。
 何方も年若い青少年のように相手の顔なんか見れやしない。
 相手の気持ちを推し量りながら、少しずつ距離を詰める。あの表情の意味も、あの仕草の意味も、何もかもが分かりやしないまま。
 一つ屋根の下、アナトラと天は何方となく互いのことを意識して――今日の夕飯の味は良く分からなくなってしまったのだ。

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