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「はじめての、」
登場人物一覧
「きゃっ」
「珠緒さん!」
石畳に薄く積もる雪に滑って桜色の髪がさらりと流れる。蛍は咄嗟に手を差し伸べ、華奢な恋人をぎゅっと抱きしめた。
ふわ、と花めいた香りが意識を奪う。
(ああ、好きだなぁ……)
はっきり自覚したのはいつだっただろう?
「あ!」
蛍は珠緒を放して手を握る。
「ありがとうございます、蛍さん」
儚げな微笑みを咲かせて珠緒が隣を歩く。すれ違う人が振り返り視線を寄せるほどの可憐な恋人。
「蛍さん」
珠緒がこっそりと囁く。少し誇るようでもあり、拗ねたようでもあり。
「すれ違った男の人、蛍さんに見惚れていました」
蛍は目を瞬かせた。
「ボク? 珠緒さんだと思うよ」
目の前の珠緒は街の冬景色に儚く咲く春花めいて愛らしい。
蛍は? ――蛍は、女子高生だった。
蛍が思い出すのは、制服を着たクラスメートが集う教室だ。
没個性。
そんな言葉があった。
――蛍ちゃんは良い子ね。
よく、そんな事を言われていた。優等生だった。
そっと頬に手が伸びる。心配になるほど細い珠緒の手首に目を取られていると、その手は蛍の髪をすい、と梳いた。
「蛍さんは無自覚なのです」
珠緒の瞳に蛍が映っている。他の誰でもない、蛍だけが映っている。
「っ、」
蛍の頬が赤く染まった――距離が近すぎる気がして。
「こほんっ。珠緒さん、キャンディストア入りましょ!」
愛らしい看板を掲げるお店は女の子ばかりで賑わっていて、棚に並ぶのは見ているだけで楽しくなるような品々だ。
「きゃんでぃすとあ。可愛い飴がいっぱい並んでいますね」
女の子同士で楽しげな声をあげている客を見て蛍はどこかホッとして、そんな自分にドキリとした。
(ボク、人目を気にしてるんだ)
蛍はずっと普通の中の「良い子」だった。「女の子に恋をするのは普通じゃない」と思う気持ちがあった。想いを自覚した時は「ボク、おかしくなっちゃった」と悩んだりもしたのだ。
「蛍さん、結晶みたいな飴がありますよ……こほこほ」
「! 大丈夫?」
「はい」
「首を温かくするといいのよ」
珠緒が少し咳き込むと、大丈夫だとわかっていても心配でたまらなくなる。蛍は自分のマフラーを外して珠緒に巻いた。
「あのね」
珠緒の背後にカラフルなキャンディが並んでいる。ハートや星のロリポップ、猫やうさぎのアニマルキャンディ、林檎や苺をコーティングした果実飴、パステルカラーの結晶の花咲くロックキャンディ。
「さっき、ごめんなさい」
珠緒は擽ったそうな顔をした。
「蛍さんが無自覚なお詫びです……?」
「!? ううん」
「違うのです? ふふ。それなら、蛍さんが謝ることはありません」
首に巻いて貰ったマフラーにそっと指先を這わせれば、普段使いならではの手触りがした。
「蛍さんのにおいがします」
あたたかいです、と幸せに目を細めると蛍が耳まで苺色に染めて愛らしい。
燥いだ声をあげる他の女の子同士の客が傍を通り過ぎると珠緒は蛍の手をぎゅっと握った。珠緒と蛍はもっと特別だった。
キャンディストアを出た後、冬市の雑踏に紛れこめば乾燥した寒気の中を甘い香りがして蛍は二人分のスノーココアを屋台で買った。
「見て、真っ白の雪が積もってるみたい」
「ふわふわ……」
ホットココアの上にふんわり盛られた生クリームがゆっくり溶けていく。
(チョコレートドリンクも試してみたいけど、バレンタインも近いから)
心の中でそんなことを考えながら苺のギモーヴを衝動買いして、お揃いだねと微笑んで。いつも訓練、訓練と言っていたけれど、今日は「これは~の訓練」なんて言う必要もなく、ただ恋人同士でデートをしてるだけ。
「あたたかいです」
「うん、舌ヤケドしないように気を付けてね」
くすりと笑う気配に首を傾げれば、ふるふると首が振られる。
「蛍さんは、心配性です」
「あ、あら……。だって」
(だって、溶けてしまいそうな雪みたいで、簡単に手折れてしまいそうな花みたいで)
(大切だから)
「桜咲は、そんな蛍さんが」
好きです、と囁く声が甘やかで蛍はドキドキとした。湯気が赤みを隠してほしい、なんてカップを口元に運んだけれどきっと隠せていない。頬が熱くて、胸が幸せ――元の世界では、こんな気持ちになったこと、なかった。
「蛍さん、あちらのお店で桜咲が髪飾りをお贈りします!」
淑やかな声がそう言って、珠緒が蛍を引っ張っていく。新鮮な気持ちだ。導かれるままについていけばいい、そんな気持ちがして蛍は幼い子供に戻ったように素直に珠緒の後についていく。
「ほら、りぼんの真ん中のところから鍵がぷらぷらしているのです」
「わ、本当。可愛いわね」
お揃いのヘアピンをお互いにプレゼントしようと相談して、選んだのは鍵の真ん中に藤色と薄桜色の宝石が並んで輝くヘアピンだった。
お互いに付け合いっこして市を歩けば、たくさんの人の中でより一層ふたりだけが特別に思える。
パフォーマーがアコーディオンやギターを鳴らして歌を歌って、最後にちょっぴり失敗して笑う芸人に皆が微笑み拍手する。
「よかったよ!」
「あはは、どんまい」
ふたりで並んで拍手する中、はらりはらりと雪が降る。
(いいじゃない)
「楽しい」
すなおな呟きを零す珠緒が愛しくて蛍は「うん」と頷いた。
「冷えてきたから、風邪ひかないように早めに帰りましょうか」
――恥ずかしくてもいいじゃない。
――他の人と違っても、いいじゃない。
「ボク、お礼を言わなきゃ」
「蛍さん?」
帰り道で呟いた横顔に珠緒が首を傾けた。さらさらと桜色の髪が流れて、蛍を見つめる珠緒の瞳はよく見るとちょっぴり左右の彩が違っていて、神秘的だ。世界中どこを探しても見つからない宝石の輝きが星のように瞬いて、奇跡みたいに生きている。
「珠緒さんのおかげで、いろんなことがわかった気がするカラ」
白い息混じりに眉を下げて笑えば、蛍のマフラーに守られた珠緒が少しだけ咳き込んで――、
「どうしてマフラーを緩めるの?」
ふと気付いた。
「あ」
珠緒が申し訳なさそうに息を吐く。ほわり、と白い息はあたたかい証拠だ。
「あの、汚してしまいたくないので……」
半ば予想していた言葉に愛しさがこみあげる。
家を出た時はまだ昇り切らなかった太陽が頭の上でゆったりと角度を変えて空を泳いでいる。気付かないほどゆっくりと。
青い空は澄んでいた。
人が排出するガスに汚染されない自然な空はとても高くて、青くて、蛍には眩しい。そんな中を雲がふわふわ浮いていて。
「大好き」
胸の奥からするりと出た言葉を口にして、口にしたあとで少し驚いたような顔をしてから蛍は笑った。
ふたりの吐く息が綺麗な世界の中で温度を伝える。足元には油断するとちょっとだけ滑りやすい大地があって、空気は少し冷えていて乾いていて、空は果てしなく広く高かった。
そんな世界に、ふたり。
「桜咲も」
とっておきの秘密を打ち明けるような声色が楽しくて擽ったくて、足取りが弾んで――、
「あっ」
「蛍さん!」
うっかり足を滑らせて転びそうになった蛍を珠緒が支えようとして。
「きゃぁ!」
「ええっ?」
支えようと踏み出した足がまた滑って、ふたり一緒に転んでしまう。
「大丈夫ですか? ふふふ、なんだか転んでも楽しくて――こほ、こほん」
「うん、……あっ、大丈夫?」
ふたりで一緒に立ち上がって、お互いの雪を払い合いっこして、手を繋ぎ。ゆらゆら、ゆらり。繋いだ手をどちらからともなく楽しさに揺らして、ちいさな子供がなんにも考えないでおうちに帰るみたいに。
――帰る。
ふたりとも、この世界は「帰る場所」ではなかったのだけれど。今は、それでいい。
「楽しかったわね」
「はい」
おひさまに照らされたふたりの影が揺れている。
◆
「こほん。では、改めて。珠緒さん、お誕生日おめでとう!」
カーテンの隙間から窓の外に広がる夜景が覗く。
「ありがとうございます……!」
珠緒が小さな箱を大切に持ち、愛らしい声を零した。箱は白とピンクの花咲く包装紙でラッピングされ、大きなリボンが揺れている。
召喚される前、珠緒は人のために造られた生体部品で、人ではなかった。
召喚されて、自我が生まれた。
わからないことがたくさんあった。
学ぶことがたくさんあると考えた。
――訓練しましょう。
蛍が誘ってくれた。
(人というのは、不思議です)
珠緒はそう思う。
少しずつ自分は人になっていった。前は不思議に思っていたことが今は当たり前に思える。
(いつから?)
珠緒じゃなくても、蛍はきっと珠緒にしたのと同じように手を差し伸べて、色々なところに連れ出して。それは、誰にでも注がれる善意で、優しさで。
(なんだか、想像すると)
それはなんだか、寂しい。
(いつから?)
いつからか、特別さが籠っていた。最初は蛍がおかしい様子を見せるたび不思議に思っていた。けれど、今思えばそれは特別な愛情だったとわかる。それはとても嬉しくて、幸せなのだ。
「どうしたの?」
蛍が心配そうな声をして頬に手を伸ばした。
「あ……」
珠緒の頬が濡れていた。
「嬉しくて」
ひとりで色々なことを考えていたことを恥じらい、珠緒は頬を桜色に染めた。
「そ、そう? なんだか悲しそうな顔をしたようにも見えちゃったから心配」
蛍がハンカチを優しく頬にあててくれる。人の気持ちによく気がつく少女だ。そして、優しいのだ。
珠緒は「大丈夫です」と頷いた。
「実は、蛍さんが桜咲と出会った時のことを思い出していて」
「懐かしいわね」
蛍がにっこりとする。
「ええと、……むむ」
(恥ずかしい、気がします)
少しだけもじもじとしてから珠緒は言葉を紡ぐ。
「桜咲が桜咲じゃなくても、蛍さんが蛍さんな行動をなさったと思って、想像をしていましたら」
「う、う……ん?」
蛍が理解しようと眼鏡の奥の瞳をぱちぱちとさせている。
「桜咲じゃない、蛍さんに手を引いて貰う人と蛍さんが、その。桜咲と蛍さんがしてきました訓練を一緒にしたりして」
「う、うん」
「それが、寂しい心地がしたように」
自分の中の曖昧な気持ちを伝えようとする珠緒に蛍が辛抱強く頷いて、「それって」と呟いた。
(嫉妬、みたいな……?)
蛍はハンカチをテーブルに置いて自分の頬に手をあて、緩む頬を抑えた。
「珠緒さん、訓練みたいにシミュレートしたのね」
「はい、なんだか想像を巡らせてしまいまして」
しょんぼりとした様子の恋人が可愛らしくて堪らない。蛍は頬をむにむにとした。
「えへへ」
「蛍さん?」
「はっ、こ、こほん。そのシミュレートは現実とは違うもので、現実がそうなることはないから。ケーキ食べましょ!」
蛍は思わず零れたふにゃふにゃした笑いを咳払いで誤魔化し、ふたり分の紅茶を淹れた。
テーブルの上のケーキは勿論、ふたりで一緒に作ったのだ。まぁるい生地に担当する部分を左右に分けて一緒にコーティングしたヴァニラの香り漂う純白の生クリーム。下の方には薄く縦切りした苺をドレスのように纏わせて。平な上面にはぐるりと生クリームデコレーションで囲んだ内側に丸ごとの苺を円く並べて、白と赤の輪で囲まれた真ん中に砂糖菓子のお人形がふたり。ハート型のチョコレート片と一緒に並んでいる。
ケーキ皿とティーカップもこの日のために揃えたもので、縁は清潔感のある白。内側に紅いラインが滑らかに引かれて、内側は甘いピンクに白ドット。
注ぐ紅茶は透き通っていて部屋を照らす灯りの中できらきら煌いた。そっと白い花を浮かべると体に良いという薬花の香りが立ち上る。
「いただきます」
神聖な儀式に挑むように行儀よく声を合わせて、ケーキを切り分けてひとくちを一緒に口に運ぶ。示し合わせたわけでもないのにタイミングが一緒なのが楽しい。
ふたりで作ったケーキは生クリームの舌触りが滑らかで心地よく、口の中にヴァニラの香りが広がる中でスポンジ生地がしっとり、ふわり。苺の甘酸っぱさに蛍が微笑めば珠緒が「おいしいですね」と頷いた。
明確な出生の記録がない珠緒には、誕生日というものがなかった。珠緒の誕生日は召喚された後に何となく決めたのだ。
それが、2月3日。
「なんとなく、わかった気がします」
珠緒が呟いた。
紅茶の中で白い花が揺れている。特別なお祝いを一生懸命に演出しているのがわかる。
「ありがとうございます、蛍さん」
またひとつ、「わかった」と思ったから。
「桜咲を、……「わたし」を、あなたと同じ「人」にしてくれて、ありがとう」
「あのね。ボクも、さっきも言ったケド。いっぱい、ありがとう……」
頬を寄せて、秘密を教え合うみたいに。
ここには誰もいないから。
お揃いの髪飾りの鍵が近づいて、お互いが惹き合うみたいに体が動いた。そうするのがとても自然で、当たり前のように顔を近づけて、ふと止まる。間近に見つめ合う眼が互いの感情に揺れていた。
どちらも、まだ知らない「はじめて」の予感に胸を高鳴らせ、耳まで赤く染めながら、体の内側があついのに、指先は冷たかった。
「し、しても、いい?」
蛍がおろおろと囁いた。するところだ、そう思って、だけど流されるままでしたくない。
何を、とかは言えなかった――恥ずかしすぎる! けれど、わかってくれる気がしたから。
「は、はい。蛍さん」
それが特別なことなのだと珠緒は感じていた。蛍の緊張が伝わって、珠緒もきっと緊張していて、今がとても長く感じる。
「目を、瞑ってほしいかも……」
「!」
蛍が林檎みたいに真っ赤になって泣きそうな声で言うから珠緒は慌てて目を閉じた。
「す、するわよ」
蛍がとても遠慮がちにおそるおそる言って、顔を近づけた。つがいの小鳥が啄むように、強張った唇がそっと触れる。
(あ……)
どきり、と体が跳ねる。触れている。
息を止めたまま、ふたりは少しだけ唇を触れ合わせた。手を繋ぐのとは全然違う、神聖な儀式のようなファーストキス。感触とか温度とか、そんなものが全くわからないほどドキドキして、唇をそっと離した後でふたりはぎゅっと抱きしめ合った。
「ふ、ふえ。ふええ」
蛍がぽろぽろと涙を流していた。どうして泣いているのか、自分でもわからない。だけど、嫌で泣いているのでは絶対にない。
「蛍さん、……こほ、」
言いながら珠緒も自分が泣いている気がした。
「好きだよお、好きなんだよお……!!」
学校では、ずっと良い子だった。
蛍は、頭の良い子だった。聞き分けがよかった。どんな風に生きるのが良いのかを知っていた、と思う。
レールの上をずっと歩いていくと思っていた。
「蛍さん、可愛い。泣かないでください……」
珠緒が濡れた目で蛍を覗き込む。
心を縛っていた何かを解き放つような優しい目を見て蛍は頷いた。
「今日が特別な日になりました」
夜空に散らばるたくさんの星からも視えない部屋の中、珠緒は恋人に今日一番の笑顔を見せて、幸せを抱きしめた。