SS詳細
志屍 瑠璃の目覚め。或いは、夢に見た在りし日とこれから…。
登場人物一覧
- 志屍 志の関係者
→ イラスト
●真の名の恩人
深夜1時。
健全かつ、十全に仕事をこなすには事前の準備と同じぐらいに、毎日の休養が大切だ。
その日の仕事を終えて数時間。
志屍 瑠璃 (p3p000416)が音も立てずにひっそりと裏口から自室へ帰還したのは、夜も遅くなってからのことである。
返り血と汗と、それから臭いを落としてから、瑠璃は速やかに武器の手入れに取り掛かった。短刀の刃を研ぎ、苦無の血を落とし、忍者刀の楔を打ち直して、ワイヤーを新しいものに取り換える。
決まり切ったルーチンワーク。
何年も、何年も、それこそ物心が付いてから今の今まで1日とて欠かすことなく繰り返した武器の手入れはすっかり身体に馴染み切っていて、例えば目を瞑ったままでも、真っ暗闇の中でさえも、瑠璃はそれをこなして見せることだろう。
瑠璃の扱う武器はどれも、黒い塗料で塗られていた。
もしも塗料が剥げていれば塗り直す必要があるだろう。暗闇の中で、ほんの僅かでも金物の光がしたのなら、それを理由に任務が失敗する可能性だってあるからだ。
幸いなことに、今日のところは塗料を塗り直す必要は無さそうだ。
並べた武器の幾つかは外套の裏に仕舞い、短刀と苦無の数本を夜着の懐や、髪の間へと隠すと、瑠璃は部屋の明かりを消した。
足音もなく、瑠璃は暗い部屋の中をベッドの方へと歩いて行った。元々、物の少ない部屋だ。あるのは鍵の付いたチェストや棚、それから武器の手入れに使う道具が幾つかと、読みかけの本が数冊ばかり。
本のページの間には、剃刀の刃が仕込まれている。いざという時、一時凌ぎの武器になる可能性があるからだ。当然、本に挟まれた栞も銃弾の1発程度は防げる特別仕様。
もっとも、それらの道具を使ったことは数える程度しかないが。
瑠璃のような“仕事人”は、自分のヤサを敵に知られるようなヘマを踏むことは無い。もちろん、そう言った“ヘマを踏む”類の同業者がいないわけではないが、そういう連中はとっくの昔に墓の下だ。
中には、墓の下にさえ入れず鮫の餌になったような者もいる。瑠璃も何度かそういう仕事を受けたことがある。
「明日は仕事もありませんし、ゆっくり眠ることができますね」
その気になれば、1日や2日程度は睡眠不要で活動できる。だが、十全なパフォーマンスを発揮するには、まとまった睡眠時間が必要だ。
瑠璃は上機嫌に床に伏せると、ベッドの下へ手を伸ばした。
罠の類が仕掛けられていないことを確認すると、滑るようにベッドの下へと潜り込む。ベッドの下が瑠璃の寝床だ。別に今日だけが特別なわけでは無い。
物音や気配がすれば、瑠璃はすぐにでも目を覚ます。
意識の覚醒から、行動開始までにかかる時間は瞬である。だが、だからといって無防備な姿を表に晒したままでは、熟睡なんて出来るはずは無い。
「おやすみなさい。いい夜を」
誰に向けての言葉でも無いが、就寝前の挨拶をして瑠璃はゆっくり目を閉じた。
●彼女の見る夢
夢を見ている。
その実感があった。
立っているのは雪原だ。どこまでも広く、真白い雪原である。
見覚えの無い景色だ。そのはずなのに、瑠璃はこの場所を知っている。そんな気がした。
「さて、これは……一体、どういうことでしょう」
夢なんてあまり見た覚えが無い。
夢の内容なんて、さっぱり記憶に残っていない。
もしかすると、今まで見た夢の中でも瑠璃は今のように鮮明な景色を見ていたのかもしれない。そう思うが、確証は無かった。
だが、きっと“今回だけが特別なのだ”と、何となくそんな気はしていた。
目の前に見える光景が、夢というには不自然なほどに鮮明だったからだ。吹く風の冷たさや、頬に当たる雪の粒まではっきりと“現実”と遜色のないものとして感じられていた。
「ところで……」
腰に下げた苦無に手を触れ、瑠璃は背後へ視線を向ける。
「あなたは、どこのどなた様でしょうか?」
そこに居たのは1人の女性だ。
外見年齢は瑠璃と同じぐらいか。銀の髪に、褐色の肌、身長はおよそ170センチほど。少なくとも外見は瑠璃と同程度だが、年齢は相手の方が瑠璃より少し上のように思う。
その立ち方から、相当に鍛え抜かれていることが分かった。
身体能力も瑠璃と同程度……瑠璃の背丈が150センチほどと低いことを考えれば、斬り結んだら不利なのは瑠璃の方だろう。
こういった開けた場所でさえなければ、戦いようはあるが……。
「いえ、いいでしょう。どちら様です?」
その女性からは敵意を感じない。
苦無から手を離すと、瑠璃は肩を竦めてみせた。
一体、どういうことだろう。
困ったような、けれど嬉しそうな笑顔を浮かべ、見知らぬ女性は頷いている。
そんな彼女の仕草に、懐かしさを感じる。
「私は、あなたを知っていますか?」
奇妙な質問だ。
思わず口を突いて出た問いに、瑠璃は疑問を感じていた。
見知らぬ女性は、顎に手を触れ、思案する。
「知っているよ。よく知っている。でも、知らないかもしれない」
「禅問答の類ですか? それとも哲学?」
少し“ムッ”とした顔をして、瑠璃は問い返す。
それを見て、見知らぬ女性は確かに笑った。
これ以上に嬉しいことなど何もないという風に笑って、瑠璃の方へ手を伸ばす。
女性の手が瑠璃の頬に触れた。
冷たい手だ。
だけど、少しだけ温かい。
「あんな機械みたいだった子がよくここまで育ってくれました」
まるで姉か、母親のような顔をして女性はそんなことを言った。
喜んでいるのがよく分かる。
見知らぬ女性が、瑠璃の成長を喜んでいる。不可思議な状況だ。喜ばれる筋合いはない。しかし、不思議と嫌な気もしない。
彼女のことは知らない。
知らないけれど、知っている。
何年も、ずっと一緒にいたような気がする。
「……っ。本当に、誰なんですか、あなた」
頭痛がした。
頭を押さえながら、瑠璃は問うた。
「本当に良かった。人間らしい顔をするようになったじゃないですか」
瑠璃の問いに答えずに女性は笑う。
マイペースな女性だ。
「ただ、仕事の成否に影響しないのなら、多少の被害を気にも留めない点は少しいただけないですね」
「……む」
「ターゲットの生命についてもそうだし、人的被害にも酷薄だし、そう言うの少しどうかと思いますよ?」
自覚はあるのか、瑠璃は思わず視線を伏せた。
そんな、どこか“少女らしい”仕草さえも、女性にとっては嬉しいことであるらしい。
「だけど、きっと大丈夫。これから先、納得のいかない命令を下されることもあるだろうし、見たくないものを何度も目にすることになる」
「今までだって、そうでしたよ。そう言うものには慣れっこです」
「それでも、です。それでも、あなたは大丈夫。色々な手段で心を守れる」
「一応、聞きますけど……どうやって?」
「あなたならどうします?」
「……納得するまで考えるか、抵抗するか、反逆するか」
「ほらね。だから、あなたは大丈夫だと言ったんですよ」
にこりと笑った女性の顔を知っている。
毎日、鏡で見ている顔だ。
彼女は、自分自身なのだろう。
瑠璃はそう確信した。
「あなたは、どこに行くんです?」
瑠璃は問うた。
女性は笑って、肩を竦めた。
「消えるんですよ。私はあくまで仮の人格。あなたが自分の人生を、自分自身でコントロールできるようになるまでの補助輪ですから」
「消える……私は、そのことを覚えていますか?」
「まさか。そんなはずはないでしょう。だって、私は“あなた”なのだから」
そう言って、見慣れぬ女性はくっくと笑う。
「そもそも覚えているとか、そう言う話じゃないんですよ。私が消えても、記憶や経験は残るんです。つまり、今まで通りということです」
「仮の……人格。一体、どこから現れた……」
「気にしなくてもいいんじゃないですか? 気にせず、自分の人生を全うすることの方が大切ですよ。そうするべきです」
「だって、それではあなたがあまりにも……」
「可哀そう? それとも、虚しいですか? いいえ。そんなことはありません。自分の人生を生きることの方が大切です。誰だってそうしていますし、あなただってそうするべきです」
女性の手が、再び瑠璃の頬へと触れた。
瑠璃の額に、女性は自分の額を押し付け至近距離から目を覗き込む。
どこまでも深い藍色の瞳。
瑠璃はその目を知っている。
雪の上に、女性の遺体が転がっていた。
喉を裂かれた女性の遺体だ。その顔や、腹の肉は狼か何かに食い荒らされていて、とてもでは無いが直視できるものではなかった。
半壊した頭部から転がり落ちた藍色の眼球が、瑠璃の方を向いている。
閉じる瞼ももう無いのだ。
瑠璃は、なんの躊躇いもなく眼球に手を触れた。
腐敗が進んでいたのだろう。
それだけで、眼球は崩れて潰れた。
遺体の記憶が、瑠璃の脳に流れ込む。それはまるで情報の津波。
瑠璃の意識を飲み込んで、ぐるぐると脳を搔き乱す。
頭が痛い。
彼女が、なぜ死んだのかは分からない。だが、断片的な彼女の記憶を“読む”中で、幼い瑠璃は1つの答えに辿り着く。
彼女はきっと、死ぬべき存在では無かった。
幼い子供たちに慕われ、周囲の大人からは誉めそやされて、将来を期待される、誰からも好かれるお姉さん。
それが彼女だ。
名前も知らない、無残な遺体は、きっとそう言う者だった。
命の価値に優劣は無いと人は言うが、それは嘘だ。この世界には、生きるべき者とそうでない者の2種類がいて、彼女はきっと前者の方だ。
だけど、死んだ。
今から十数年も昔に、彼女は死んで、遺体は獣に喰われて消えた。
そうだ。
これは、幼いころの記憶だ。
瑠璃が初めて、誰かの遺体に触れた日の記憶だ。
どうして忘れていたのだろうか。
きっと、記憶しておくほどに大した出来事では無かったからだ。何しろ、当時の瑠璃が置かれた環境において、“死”はごく身近でありふれたものだったから。
昨日、隣にいた者が今日の夜には死んでいる。
今朝、一緒に食事をした者が、昼前には息絶えている。
そんな毎日を送っていたのだから、遺体の1つや2つ程度に驚くことも、怯えることも無かったのだ。
けれど、不思議と。
彼女のようになりたいな、と。
そんなことを考えたのを、瑠璃はやっと思い出した。
「繰り返してください。“私はもう大丈夫”」
見知らぬ女性は、そう言った。
「私はもう、大丈夫」
瑠璃は素直に女性の言葉を繰り返す。
満足そうに女性は笑うと、瑠璃の頬から手を離した。
風が吹く。
女性の姿が、雪の中に消えていく。
「そう。あなたはもう大丈夫。1人でだって生きていけます」
そうして、彼女は姿を消した。
雪原に1人だけ。
大切な何かを失ったような喪失感を胸に感じる。
瑠璃はそこで、目を覚ました。
●朝、目が覚めて
不思議な夢を見た気がする。
寝起きの頭はすっきりしていて、身体の調子もいいようだ。
試しに手を開閉させた。
よく動く。
まるで自分の手のように。
「……おや?」
自分の手のように……とは、何だ?
自分の手なのだから、自分の意のままに動くのは当然だ。
「おや?」
呟いた声は、自分の声だ。
聞き慣れた声に、なぜか少し違和感がある。
だが、違和感の正体は分からない。
頬に触れた。
しっとりとした肌の感触。治りかけの傷が、僅かに熱を持っている。
ベッドの下から這い出して、瑠璃は窓へ目を向けた。
赤い瞳の見慣れた顔だ。
当然だが、藍色ではない。
「そういえば、昔に見た死体の……藍色の目を今もよく覚えています」
思えば、遺体に触れたのはあれが初めてだっただろう。
だから、だろうか。
ほんの一瞬だけ見た藍色の目を、今でも鮮明に覚えている。
溜め息を1つ。
窓の外には、朝陽が見える。
今日が始まったのだ。いつも通りの、代り映えのしない今日が。
仕事は無い。
武器の手入れも済んでいる。
軽く日課の鍛錬をこなして、今日は街へ出かけよう。
そう決めると、瑠璃は窓から視線を逸らした。
「おやすみなさい」
誰に向けての言葉だろうか。
口を突いて出たその一言に、なんの疑問も抱かないまま瑠璃は部屋から出て行った。