SS詳細
血を食む兎、食餌の騎士
登場人物一覧
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――何気ない、昼日中の街中だった。
陽光降り注ぐ住宅街。その外縁に位置する場所へ、車いすを扱ぐ一人の人影が見える。
「はっ、はっ……」
人影は、ほんの少しだけ、奇妙な風体であった。
冬は遠く過ぎ、いや寧ろ夏の陽気の方が近しいとされるこの季節に於いて、人影はその小柄な体を大きなローブで全身を覆い、然程速度も出ない車いすを少しでも早く走らせようと手を動かし続けている。
それは、目的地に辿り着くことを逸るかのように。
或いは、何かから一刻も早く逃げんとするために。
「……おねえちゃん?」
ふと。
背後から、声を掛けられた。
「……っ」
「だいじょうぶ? すごくくるしそう」
人影は、ハンドリムを回す手を、止める。
近づいてきたのは、年端もいかない少女であった。「おねえちゃん」と呼ばれた、恐らくは女性なのであろうその人物は、横に着いた少女を側へと視線を向ける。
「わたしがおしてあげる。どこにいきたいの?
だいじょうぶ! わたし、もうひとりでもおつかいにいけるんだから」
「……そうなん、ですか」
胸を張る少女に、女性はぽつり、一言だけを呟く。
「それなら。ちょっと、手を出してくれませんか?」
「? こう?」
言われるがままに手を差し伸べた少女に、女性は己の手を添わせる。
軈て、女性はその手に向けてゆっくりと頭を落とした。唇を手の甲に当て、まるで祝福のキスを送るように。
若しくは。
――「ああ、美味しそう」
獲物を吟味する、捕食者のように。
「おねえちゃん?」
「………………!!」
撥ねるように頭を上げ、少女の手から己の手を離した女性は、恐怖そのものの表情で少女を見て……けれど、その後すぐに平静を取り戻す。
「何でも、ありません。
折角ですけど、気持ちだけ受け取っておきます、ね?」
「そう?」
それじゃあ、と手を振って去っていった少女に、女性も「取り繕った」笑顔で応え、その後に再び自宅へと向けて車いすを扱ぐ。
「……。わたくしは、あの子、を」
――フードの影から零れた雫は、少なくとも、余人にとっては汗に見えた。
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時期は、特異運命座標達が『月の王宮』と呼ばれる遺跡に侵攻作戦を始める数日前の話である。
その頃、ラサを中心として無辜なる混沌の各所に蔓延りつつあった『烙印』――吸血鬼と呼ばれる種族が他種族に刻み、時と共にその在り様を変質化させていく病――の症状はほぼピークに達しており、関係各所はそれらの対応に躍起になっている為、何処も俄かに騒がしい様相を呈している。
……そして、それは『彼女』にとっても例外ではなく。
「ふ……っ!」
自宅に着く。座っていた車いすごと転がり込むように入り込んだ彼女は、それと共に玄関の鍵を閉め、あまつさえ扉に背を預けて誰も入ってこないようにする。
呼吸を一度、二度――――――四度。
漸く、一先ずの平静を取り戻した彼女は――『星に想いを』ネーヴェ(p3p007199)は、次いでぽろぽろと零れる涙を。「そのように見える水晶」を両手で払い、誰にも聞こえぬよう嗚咽を漏らす。
特異運命座標であるネーヴェもまた、他の者たちと同様吸血鬼に関わる依頼を請けたことが在る。
そして、それによって負うた『烙印』も、また。
はじめは、それを気に留めることは無かった。寧ろ、吸血鬼から人々を守れた証左のようにすら思え、誇りのようにも思えた。
……それを、「愚かである」と。
今のネーヴェは、過去の自分に向けて。声を大にして言いたかった。
――時間が、どれほど経っただろうか。
小さなすすり泣きの声を、幾重にも零れる『涙』を、ずっとずっと一人で零し続けたネーヴェは、赤く腫れた目蓋を冷やしもせず、扉に背を預けた態勢のまま忘と上を見た。
「……クラリウスさまは、怒っているかしら」
ぽつり。告げた名前は、彼女の身を案じる騎士の青年のもの。
本来は今日、彼女は青年……『花に願いを』シャルティエ・F・クラリウス(p3p006902)と共に、街中を歩く予定であった。進行する『烙印』の症状に気鬱気な彼女を青年が誘おうとした結果は――けれど、そうなる前に破綻した。
住宅街までは良かった。時間帯が平日の昼間であり働きに出ている者が多数であったため、彼女はそれほど多くの人と会うことなく進むことが出来た。
けれど、其処から市街地に出た時。ネーヴェは識った。
街中を往く多くの『食物』を、幾らでも、好きなように食べてしまいたいと思う、悍ましい自分の欲求を。
自覚してからは駄目だった。踵を返し、自室に戻ろうとした時、ただ一人だけ出会った少女にすらネーヴェは食欲を抑えきれるか危うかった。
(……それでも)
「三角座りの態勢になって」、ぎゅう、と膝を抱えるネーヴェは思う。あのまま自身が騎士の青年の元に赴けば、何れは欲望に負け、誰かを襲っていたに違いないと。
それくらいなら、このままで良い。そう、彼女は己に結論付ける。ずっと、一人のままの方がと。
――――――だのに。
「……ネーヴェさん?」
「………………っ!」
扉の向こう。聞き知った声に対して、ネーヴェの身体がびくりと震える。
背を預けたままだった扉もまた、小さくカタンと震えた。
●
約束の時間から幾らか待って、けれど待ち合わせ場所に来なかったネーヴェを心配したシャルティエは、先ず真っ先に彼女の家へと向かった。
シャルティエにとって、今日のような事態はひどく珍しいものだった。と言うのも、彼とネーヴェが二人で待ち合わせなどをする際は、約束の時間よりどれほど早く待ち合わせ場所に向かってもネーヴェが先に着いていたためだ。
これは、ネーヴェが基本的に自らを卑下する性質から来るものだろう、とシャルティエは予測している。「自分なんかのために誰かを待たせるのは申し訳ない」と言う考えが、必ず先に相手を待つと言う姿勢を取らせるのであろう、と。
――その予測に、当てはめて考えれば。
(ネーヴェさんが「来たくない」か、「来られない」理由は……)
何らかのトラブルに巻き込まれたり、『ローレット』の依頼で偶然ネーヴェを必要とする事態が在ったり等、小さな可能性まで含めれば諸々ありそうだが、恐らく一番は――
「……烙印」
件の烙印が、それを刻まれてからの経過日数に応じて被刻印者の本質を吸血鬼のそれへと歪めていくのは、特異運命座標達の間では広く知られている話である。
無論、それとてただの推測だ。真実がどうなのかは、ネーヴェ本人にしか分からない。
なればこそ、知らなければならない。
「クラリウス様とお出かけ、ですか? はい、喜んで。
今度のお出かけでは、クラリウス様の好きなもの、好きな場所、沢山教えてくださいね。だって……えっと」
自分の誕生日祝いを選ぼうと、そしてそれを気取られまいと必死だったネーヴェ。
そんな彼女と、今度こそ一緒に街を歩くために。
「……ネーヴェさん?」
気づけば、シャルティエは彼女の家の前にまで辿り着いていた。
最初にドアノッカーを叩こうとしたが、それよりも先に、シャルティエは扉の向こうに声を投げかける。
「………………っ!」
案の定、扉の向こうに感じられた気配は、押し殺した声と共に小さく扉を震わせた。
「どうかしたの? 待ち合わせ場所に来なかったけど」
「……ごめんなさい。風邪をひいてしまったんです」
淀みなく、自身の体調に困った調子で、ネーヴェは言葉を返した。
「お出かけは、また今度にしても良いでしょうか?」
「それは、構わないけど……」
ネーヴェの言葉は滑らかであった。
――少なくとも、シャルティエ以外には、そう聞こえた。
「ネーヴェさん」
「……何、ですか」
「一度だけ、顔を見せてはくれないかな」
「……、」
言葉を発さない、と言う躊躇の証左。
それでも、此処で退いてはいけない気がして、シャルティエは更に言葉を畳みかける。
「風邪の程度を見たいだけだよ。部屋に入ったり、ネーヴェさんを捕まえたりはしない」
少しだけ、冗談交じりな言葉。対する沈黙は更に長く、けれど。
「……一度だけ、なら」
「うん、有難う」
かしん、と言う、鍵が上がる音。
それと同時に、覗いた「赤黒い」瞳。
「……? ネーヴェ、さ」
繊手が、シャルティエの身体を掴み、引き込んだ。
●
最初、シャルティエはネーヴェが義肢を装着しているのだと思った。
ネーヴェには両足が無い。それは過去の依頼によるものであり、以降彼女は日常生活に於いては車いすを、依頼などに於いては義肢を装着しての生活を送るようになっていた。
けれど、今両足で立ち、シャルティエの腕を引き寄せたネーヴェの傍らには――倒れた車椅子が、見えて。
「ネー……!?」
「――きれいな、かお」
家の中に招き入れた後、ネーヴェは掴んだ腕をそのままに、今度はシャルティエを玄関横の壁に押し付ける。
「きたえたからだ、ととのったゆびさき。とてもとてもいじらしい。
ねえ、あなた。どうかうさぎとあそんでくださいませ」
血の色をした瞳が覗いた。
義肢に見えたそれは、脚の形を取った水晶であった。元の彼女の姿でありながら、その要所要所に彼女とはそぐわない部分を覗かせる。そんな様相に、シャルティエは混乱を隠せない。
だから。『それ』を許してしまった。
「痛……!」
首の付け根。上顎と下顎の間を鎖骨で区切るような位置に、ネーヴェは己の犬歯――否、牙を突き立てた。
次いで、啜られる血液。普段のネーヴェならば決してしないであろう行動を見て、シャルティエは眼前の彼女が似姿の異形ではと考え、睨みつけるように見下ろす。
「――――――」
けれど。
其処に在ったのは、ただ、生きることに懸命な幼子の如き姿。
それはさながら、生まれたばかりの獣が、親の乳を欲しがるかのような。
毒気を抜かれたシャルティエは――振り上げかけた拳を、刃を抜こうとした片手を降ろし、無抵抗の体を取った。
「……っ、は」
時間はそれほど経たなかった。
牙を抜き、傷口から零れる血が止むまで丹念に舐めとり、ネーヴェは忘我の表情でその場に座り込んだ。
「……ネーヴェさん?」
正気を、取り戻しただろうかと。
シャルティエは彼女同様屈んで、視線を合わせながら問う。
けれど、それに対し返ってきた言葉は、
「あ、っ――」
たいせつなひとを傷つけた己に対する悔悟と、己に対する羞恥が綯い交ぜになった表情と共に。
「――――――!!」
悲鳴じみた慟哭が、家にこだました。
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ネーヴェが落ち着きを取り戻した後、終ぞ彼女はシャルティエに告白した。
それは即ち、『烙印』の進行による症状の説明だ。自身の涙が水晶となり、血が花弁となる。また――ヒトに対する食欲が発露していること。
「それは……先刻の、僕に対してみたいに?」
「……はい」
吸血中の自我があったのかは定かではないが、ネーヴェはシャルティエの傷跡を見て申し訳なさそうに首を垂れる。
「僕の方なら大丈夫。これくらいの怪我なら直ぐに治るよ」
「でも、クラリウス様は――」
自らの身を案じて来てくれた人に、彼女は傷を負わせてしまった。
その悔恨が深いことは誰にとっても明らかで、またそれを今すぐ、言葉だけで癒す術がないと言うことも、シャルティエは理解していた。
実際、シャルティエにとってこの程度の怪我は依頼で受ける手傷に比べればかすり傷に等しい。特異運命座標が持つ潤沢な生命力を介せば数日と経たず消える程度のものだ。
寧ろ、この程度でネーヴェが抱く「飢え」が解消されるのであれば、幾らでもこの身を預けることに抵抗は無いと思えるほどに。
――だが、ネーヴェにとっては。
「一先ず、身体は楽になった?」
「……はい」
「なら、良かった」
努めて、笑顔で。
シャルティエは倒れた車いすを起こすと、床にへたり込んだままのネーヴェを抱え、その上に座らせる。
「お出かけは、また今度にしよう。ネーヴェさんの都合がつくまで、僕は待ってるから」
「……クラリウス、さま」
「うん?」
今日のところは、と家を出ようとしたシャルティエに対し、ネーヴェは懸命に頭を上げて視線を合わせ、言う。
「ありがとう、ございました」
「――どういたしまして」
少なくとも。
彼女は、まだ懺悔や謝罪よりも、謝意を告げることを良しと思っている。
シャルティエにとっては、それだけで十分だった。
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恐ろしい。自分が悍ましくて、たまらない。
「……う、ぁ」
あれ程忌避していた行為を、最も親しい人に向けて取ってしまった。
何よりも、意識を取り戻した時に得た感覚――「満たされた」と言うそれこそが、ネーヴェにとっては忌まわしかった。
「あ、あああ……!」
吸血鬼。人を糧とし、人の敵を王と崇め、何よりもそれを『悦び』と覚える異形達。
ネーヴェが、彼女を含めた多くの特異運命座標達が相対した彼らと、今の自分の何が違うと言うのだろう。
何よりも、この先、吸血鬼たちの王を倒したとして、この症状が完治する見込みすら危ういと言うのであれば。
「………………」
静かに。
ネーヴェは己の首に両手を添わせて――止めた。
その性質がどれほど吸血鬼に近くとも、今の彼女にはパンドラの加護が在る。生半な『手法』を取ったとて生き延びてしまうことは火を見るより明らかだ。
「クラリウス、さま……」
脳裏に思い浮かぶのは、つい先ほどまで共に居た青年の姿だ。
何処までも、こんな自分を慮ってくれる騎士に対して、ネーヴェは残酷な、けれど懸命な願いを、彼に向けて口の中で唱える。
(いつか、わたくしがみなさまに害をなすようなことが在れば。
いいえ。もしもわたくしが、『使い物』にならなくなったら)
身勝手な祈りで在ろう。我が侭な願いであろう。
それでも彼女にとって最も必要とする望みは、今、其処にしか存在しないのであれば。
(――その時はどうか、貴方の剣で)
おまけSS『それは被食者の想いか、若しくは――』
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傷痕から、血は驚くほどに滲んでこなかった。
あの時、正気を失ったネーヴェが施した『止血』は完璧だったと言うことだろう。シャルティエは下宿の自室に帰ると、お出かけ用に誂えた服を着替えることもせず、寝台に己の身を擲つ。
「ネーヴェさん……大丈夫かな」
口を突いて出るのは、やはり彼女に対する心配の言葉。
待ち合わせの時にも書いたように、ネーヴェは自己意識と言うものが極端に低い。そんな彼女が自ら他者を――殊に親しい相手を――傷つけてしまったと言う事実は、どうあってもしばらく彼女の心に傷を残すことであろう。
「あんまり気に病んでないていいな……無理を言った僕も悪かったんだし」
言いながら、シャルティエは微かに服をはだけ、覗いた傷口に少しだけ触れる。
指先に微かな熱感を覚えたが、痛みは然程走らなかった。そもそも牙を突き立てたネーヴェのそれが小さなものであったことも要素の一つなのであろうが。
「……ネーヴェさんの、牙」
あの時の光景を、回顧する。
蠱惑的な笑みを浮かべ、血の色の瞳と、水晶化した足を伸ばしたネーヴェの姿。
最初はそれが、何らかの吸血鬼による擬態なのかとすら思ったが。
――ねえ、あなた。どうかうさぎとあそんでくださいませ。
凡そ、あの姿のネーヴェに誰かを欺こうと、傷つけようとする意図は無かった。
あの時の彼女は唯、必死だっただけだ。耐えがたい欲望に身を任せ、己が望むものへと懸命に行動しただけ。
それは、つまり。
(あれが、若し。
「何かを望むことに必死になったネーヴェさん」の一面で在るのだとすれば……)
其処までを考えて、シャルティエは突如寝台から半身を起こし、思い切り頭を振った。
「何考えてるんだ、俺は」
――小悪魔じみた表情で、けれどその奥底では一途な想いを隠せぬまま。
そんなネーヴェが、自分を求めるようになってくれたら、などと。