SS詳細
血の森
登場人物一覧
男は後悔していた。
どうしようもなく、後悔していた。
男は野党であった。
けれど、有象無象のソレでは無い。
元は、数多の死線を潜り抜けた傭兵崩れ。
相応の腕が有るが。
如何せん性根が悪辣。
腕を買われて戦場に出る度。
必要以上に殺し。
必要以上に奪い。
必要以上に犯した。
仕舞いには報酬や手柄を増やす為、味方までどさくさに紛れて手に掛ける始末。
戦場なれば、さしたる問題でも無かろうとたかを括っていたが。
とある貴族間の縄張り争いで敵方の大物を横取りしようと、最初に戦っていた味方の兵士を邪魔とばかりにバッサリやったのが不味かった。
ただの下郎と思っていたその兵士。あろう事か恋仲にあった女兵士を助くる為、密かに参戦していた此方側領主の嫡男。
相手の身分が身分故、成した悪業はたちまち暴かれた。
迫る追及に知らなかったのだ間違えたのだと弁明するも、そもそもが味方殺し。端から通る道理も有りはせず、前々から男の悪行を知っていた者達の怒りが遂に爆発した。
男は逃げた。
元より、腕は確か。
追手にも比肩する者は居らず、ただ男の行く先々に屍が積むばかり。
遂には仇を追って来た女兵士までも刃にかけた。しっかりと、その操を汚してから。
余計な悪癖は更なる怒りと憎悪を集め、途切れぬ復讐の念に根が上がる。
足が付く傭兵稼業を切り上げ、男はとある山林へと身を隠した。
次に選んだ生業は盗賊。
元より、真っ当な職に就ける業も性根も有りはしない。
やってみれば、此れが実に性に合う。
金品元より、女もそれなりに手に入る。
全て殺してしまえば足が付く事も無い。
何より、旅の商人民人相手なら。
己が傷つく懸念無く、思う存分昂る加虐の衝動を満たせた。
愉快。
愉快。
実に、愉快。
男はどっぷりと、畜生の沼へと身を浸して行った。
そんなある日。
獲物を探して徘徊していた男は、『ソレ』を見つけた。
小柄な少女。見た目からして、幻想種だろうか。ぼさぼさの黒髪と、薄汚れた身体。裸足。痩せこけた身体に纒うのは、茶黒い染みで汚れた薄いボロ切れ一枚。
浮浪の孤児か。
放浪の果てに迷い込んだか。
茂みから観察しながら、考える。
元より、見逃す方向は無い。
金品など、期待すべき相手では無い。
だが、身体は有る。
ここ暫く、獲物が無かった。
飢えていた。
子供でも、女。
肉欲は満たせる。
貧相でも、生きている。
加虐の衝動も、満たせる。
それだけで、獲物としては充分なのだ。
舌舐めずりをして、茂みから少女の前に躍り出た。
虚を突かれた顔が、キョトンとする。
幼いが、作りは良い。それなりに愉しめそうだとニタつきながら、手にした鉈を突き付けた。
事態を理解したのだろう。少女の顔が引き攣った。見る見る染め上げる、恐怖の色。
良い顔だ、と思った。ソレだけで、達してしまいそうになる。
さて、此処からどう動くか。
逃げても良い。この山林は知り尽くしている。存分に鬼ごっこを愉しもう。
竦んで動けぬと言うのなら、この場で組み伏せて思う様。
下卑た欲望のままに、怯える顔に手を伸ばしーー。
曲がりなりにも、男は戦人であった。
戦いに身を置く者にとって、その『感』は必須のモノであった筈。
然るに、この場においてソレが働かなかったのは。
一重に絶対的捕食者の立場に溺れていたが為。
リスクを冒さず、ただひたすら飽食に明け暮れれば。
竜とて鈍る。
そう。
男は気付けなかった。
今、手を触れようしているモノが。
絶対の『禁忌』だと言う事に。
昏い森に、絶叫が響き渡った。
甲高い。裂く様な。世の終わりに鳴く化鳥のソレの様に。
思わずたじろいだ視界の中で、男は見た。恐怖に叫び震える少女。その目がグリンと裏返り、取り変わる様におびただしい鮮血が溢れ出す様を。目だけでは無い。頭、手足、凡ゆる場所の血管が膨れ、弾け、その全てからも鮮血が迸る。
戦慄する男の悲鳴も、少女の絶叫に掻き消される。
大量の血は瞬く間に周囲を満たす。充満する鉄錆の匂いの中で、男は漸く理解する。
己が、最も愚かしき選択をしてしまった事を。
そして、その後悔を肯定するかの様に。
満ちた血溜まり。今だ吐き続ける鮮泉。その全てから、無数の殺意が弾け出た。
●
夢を見る。
いつかも。
何処かも分からない。
在るのは赤。
真っ赤。
何もかもが飲まれて。
壊された。
大事なモノ。
大切なモノ。
大好きなモノ。
全部。
全部。
赤の中に沈む世界。
溺れながら、誰かが言った。
『オマエノセイダ』
と。
「キャハハハハハッ!!」
鎌を構える死を纏い、『トリック・アンド・トリート!』マリカ・ハウ(p3p009233)は『彼女』に向かって踊りかかった。
何の遠慮も無く振り下ろされる刃。ソレを無造作に受けて流すのは、防具さえ無い裸の手。当然の如く受ける度に血がしぶくが、巧みな技術によって重傷には至らない。だと言っても、正気の所業ではない事に変わりは無いが。
「やレやレ」
返しの一撃を後ろに跳ねて躱した少女が、そのまま乗った枝の上からマリカを見下ろす。
「挨拶モ無しでダンスの手ヲ取るのは、流石ニ礼儀に欠けましょうや。愛しき御同胞?」
焦点あやふやな目で小首を傾げ、『天慈災華の狂い姫』エメレア・アルヴェ―ト(p3n000265)はケタケタと笑う。
「アハ、硬い事言わない言わない!」
マリカもケラケラ笑いながら跳ね上がる。
「マリカちゃんとキミの仲じゃん!?」
「親しき仲にも礼儀あり、デスよ?」
再び振り下ろされる首狩り鎌を、枝を掴んだ半転蹴りが弾く。と思ったら、逆立ち姿勢のまま一旦停止。
「そんなイケナイ子ハお仕置きデス」
クスリと笑んで、逆回転。斧の様に落ちた両脚が、虚を突かれたマリカの両肩を叩く。
土煙を上げて地面に追突。でも。
「キャハッ! すっごいスッゴイ! さっすがぁ!!」
陥没した地面で大の字になりながらも、楽しく笑う。下で、クッションになった『お友だち』がキュウ……とか言ってるが。
「死人権ノ尊重が成ってマセンねぇ」
声と共に落ちて来た爪先。突撃槍(ランス)の如き一撃を、転がって躱わす。すれ違いで着弾して脚槍はそのまま硬い地面を穿つ。喰らっていれば土手っ腹に風穴が開いていたろうが、顔色一つ変えずにはしゃぐマリカ。
「素敵、素敵! ねぇ、もっと踊ろう! 遊ぼう!! ねぇ、ねぇ!!」
先の一撃で外れた肩を無造作に嵌め直しながら、おねだりする。
そんなマリカを愛でる様に眺め、わざとらしく溜息など吐く。
「アタクシもお勤めデ来ているのデスが。困った方デス。と言うカ、良く此処ガ知れましたネ? 今回ハ別にローレット様に御協力ヲ願ってハいませんガ?」
「そうだよ? マリカちゃんも知らなかったし」
「ふむ?」
「マリカちゃん、別のお仕事で近くに来てただけ。その帰りに、この森を通ったら……」
ーーキミの香りがしたのーー。
破顔する。蕩ける様に。
聞いたエメレア、顎に手を当て。『ほう?』と頷く。
「全く意図せぬ事デ在るト? なるホドナルほど。でアルならバ」
ーー此れなるハ主ノお導きト言う事デスかーー。
此方も笑う。怖気が立つ程に悍ましく。
「ならば、全て委ねまショウ。サテどうしたモノかと思っていましたガ。流ルルままニ踊るガ解と悟りました故」
「アハ、遊んでくれる?」
「ええ、主の啓示ト在らば」
「あー、ソレちょっと違うかなー?」
受け入れる様に開かれたエメレアの腕の中に飛び込みながら、マリカは宣言する。
「マリカちゃんは、マリカちゃんの意思でエメレアちゃんと遊ぶんだ!」
「ソレもマタ、主の御手の上」
二つの狂気がぶつかり、静かな森が辟易に騒めいた。
●
逃げた。
逃げ続けた。
人より優れた肺腑が息切れ。
人より強い脚が鉛になっても。
逃げる。
逃げる。
ひたすらに。
腐っても、界隈ではトップ五指に数えられた事もある凄腕。
ただ攻められるままでは無かった。
流れ出す血から弾け飛ぶ様に顕現する、数多の凶器。血染めの剣や槍。矢に飛礫まで含まれるソレは、一つでも当たれば致命必至のモノばかり。それでも動きは単調で直線的で、修羅場を潜った目であれば読んで躱わすは可能ではあった。
それでも。
一度の攻撃で襲ってくる数が尋常ではない。少しでも気を抜けば、その瞬間に針鼠と化してしまう。
ならば、いっそ本体を切り伏せてしまえとも思ったが。かの少女から吹き出し、流れ出した血が満ちる全てが攻撃範囲。おびただしい量の血は既に広範囲を汚染し、少女本体に届く術が無い。それどころか尚も血は迸り、血溜まりはどんどん広がって行く。
普通に考えれば、これ程大量の血液があの小さな身体に収まっている筈が無い。本来であれば、この1割にすら満たない量で失血死している筈である。
然るに。
迸る血は今だ止まらず。
少女本人も、変わる事無く。
此処に至って結論は明白。
アレは、人では無い。
幻想種の様な亜人の類ですらない。
けれど、ソレならアレは何だと言うのか。此方とて、この世界で己の腕一つで生き抜いて来た身。モンスターの類には、嫌と言う程見えている。襲われた事も有れば、打ち倒した事も有る。戦う術も、逃げる術も心得ている自信があった。例え魔族や竜種の様な到底及ばぬ領域であったとしても、脅威を感じこそすれ恐怖はしない。だからこそ、誰の助けも望めないこんな野盗暮らしを選んだのである。
ただし。
その余裕は全てが既知である事が前提。
アレは違う。
遭遇した事も無ければ、伝え語りに聞いた事すら無い。
完全なる未知。
文字通りの、超常。
知らないモノには、抗えない。
知らないモノとは、戦えない。
知らないモノは、怖い。
常に蹂躙する立場でしか無かった故の、限界。
ゴポゴポと産声を上げる血溜まり。
森を浸し迫るソレから逃げながら、背後を見る。赤一色の闇の向こう。泣きながら歩いて来る、小さな影。
ああ、追って来る。
諦めない。
諦める筈が無い。
何故なら、アレは自分を怖がっているから。
怖いモノには、居て欲しく無い。
怖いモノには、消えて欲しい。
虫嫌いの人が、喚きながら油虫を踏み殺す様に。
それはとてもとても、当たり前の事。
だから、アレは自分を逃がさない。
人が、こわがりながらも必死に油虫を隙間から掻き出す様に。
見つけなきゃ。
捕まえなきゃ。
そして、殺さなきゃ。
だって、そうしなきゃ。
安心、出来ない。
当たり前。
だから、男は逃げる。
その、当たり前から。
自分も、そうして来た。
当たり前。
●
「え?」
「ふむ?」
マリカとエメレア。踊っていた二人の動きが止まる。
「ハテ? 何か来マスか?」
夜闇に満ちた木々の向こうを見つめ、呟くエメレア。
狂気に堕ちているとは言え、荒事師としての感や思考は損ねていない。寧ろ、狂気によってタガが外れた理性は本能と混ざり合い、別レベルの感覚態として完成されている。獣の直感と人の思考力の並行励起。エメレアが『理性ある狂戦士(バーサーカー)』とも称される所以。
それを持って、迫る何かの異常性を把握する。
「何でショウかねェ? モンスターでも獣ノ類でも無し……かと言って魔族や竜種ノ気配でも無い……ハテはて」
ブツブツ言いながら、頭の中の車庫を漁り。らしき知見が無い事を確認する。
「……アタクシの方デハ心当たりは無い様デス。なら、ヤハリ既知の方に委ねるガ最適解でしょう。ねぇ……」
ーー御同胞ーー?
呼びかけると同時に手を伸ばし、倒れ込んで来たマリカを抱き止める。
「ご存じなのでショウ? 最も、碌な思い出デハ無い御様子デスが」
答えは返らない。
苦しげに顰める顔は真っ青で、呼吸は浅く。荒い。
「頭……痛い……」
「そのテンプレな症状。ひょっとしなくても、記憶を失ってらっしゃる?」
やはり、返事は無い。朦朧としている。意識への負荷が酷い。
「ふむ」
エメレアの影が騒めく。影絵の手がマリカの影に。
彼女の、『お友だち』の元へ。
嫌がる彼らを捕まえて、強引に『接続』。些か流儀に反するが、緊急措置。そのくらいの融通は効かせるのだ。
接続部を通して彼らの『記録』を覗き見る。
しかし、やはりめぼしいモノは何も。それどころか、明らかに彼らも怯えている。
「生きていた頃の記憶では無く、現状への恐怖? つまり、この先より来るは……」
ーー死者すらも、殺すモノーー。
エメレアの顔が笑む。今までの狂気に満ちたソレでは無く、確かな思考に準える笑み。
「コレはコレは。今少し情報が欲しいですねぇ」
独り言ちて、腕の中のマリカを抱き寄せる。
「失礼」
朦朧として、無抵抗のマリカ。その胸元に指を伸ばすと、鎖骨に沿う様に爪で浅く裂く。
滲み出た真っ赤な血が、白い肌に紅の彩を流す。
小さく響く、ガリッと言う音。エメレアの口端からも、紅い雫。
マリカの胸元。己で刻んだ傷に顔を寄せる。薄く開いた口から伸びるのは、自身に噛み破られた舌。
此方も血に濡れたソレが、マリカの傷をゆっくりと舐め上げる。
混じり合う、二人の血。
生命の媒体。
魂の末端。
深層の記録。
接続。
暫しの間の後、エメレアはゆっくりと顔を上げる。
「……ウフフ……」
口の中のマリカの血を己のソレごと飲み下し、妖しく笑う。
「成程。『コレ』が貴女の根源。罪の形ですか……」
血の紅で彩られた唇をペロリと舐めると、マリカを草の上に横たえる。
「やはり今宵の邂逅は、主のお導きであった様ですよ? 御同胞」
囁く言葉に、それでも抗おうと言うのか。微かに呻くマリカの細い首に、指を回す。
「お眠りなさい。今此処において、貴女の最適解はソレでしょうから」
クキンと、か細い音が泣く。マリカの身体がビクンと跳ねて、後はもう動かない。
「主よ。かの者にどうぞ良き夢を」
短く祈ると、エメレアは静かに立ち上がる。
向ける視線は、漂う血臭の向こう。
薄笑む主に倣う様に、影に潜む『彼ら』が蠢く。
●
限界が近づいていた。
息は途切れ途切れ。
脚は鉛を通り越して抜けかけの切り株。
服は吹き出した汗を吸って砂袋の様に重く張り付き、身動きを阻害する。
過熱した頭は、碌な思考も回せない。
もう、見切るだの躱わすだのと言った芸当はこなせない。
今度あの殺意の激流に襲われたら、一巻の終わり。
今こうして無事なのは、反撃の望みを捨てて体力の有る内に逃げに徹したから。
幸い、アレの速さは然程では無かった。
けれど、それとて時間稼ぎが精々。逃げても逃げても。どれだけ逃げても、アレは諦めない。
何処まででも、追って来る。
安心出来ないのだ。
怖がりのアレは、怖いモノを消してしまうまで。
安心出来ないのだ。
だから、追って来る。
何処までも。
何処までも。
怖いモノを壊して。
安心する為に。
自分は、死を知っている。
特に、暴力によってもたらされる死がどんなモノかを。
何の事は無い。
それは、散々自分が与えて来たモノだから。
割られた頭が、どんな風に脳漿を散らすか。
裂かれた腹から、どんな風に臓物が溢れるか。
切り落とされた手足が、どんな風にのたうつか。
苦痛と憎悪と悲哀の断末魔が、どんな風に響くか。
みんな。みんな知っていて。
思う存分、愉しんで来た。
けれど、今はソレが。
その全てが。
自分を追っている。
まるで、今まで味わった愉悦。その対価を払えと言うかの様に。
嫌だ。
嫌だ。
あんな風に痛いのは嫌だ。
あんな風に苦しむのは嫌だ。
あんな風に死ぬのは嫌だ。
逃げる。
逃げる。
出口の無い。
因果の輪。
朦朧とする視界の中に、何かが見えた。
人だと知れた瞬間、幾つもの感情・思考が脳内を巡る。
まだそんな余力が有ったのかと、自身が驚く程に。
単純な喜び。安直な安堵。落胆。絶望。打算。
無数のソレらを、最後の力で持って纏め上げ。男は『彼女』の前に膝を折った。
「お助けください!」
急に現れたのみならず、事情も話さずに助けを求めて来た男に、修道士姿の少女は酷く驚いた顔をした。
「お願いでございます! 主の御力で、この哀れな羊を御守りください! 私は、まだ死にたくは無いのです!!」
「……主の救いを御求めになると?」
額を地面に擦り付けたまま願う男を見下ろすと、少女はそっと腰を屈めて彼の肩に手を置く。
「まずは、御顔をお上げください。その様に謙る必要はありません。主の身元において、人は等しく兄弟なのですから」
少しの負念も感じない、純粋で清らかな声。それに少女の純心と誠実さを読み取り、男は伏せた顔にニヤリと笑みを浮かべる。
「さあ、御顔を……」
「は、はい!」
再度促され、ようやく立ち上がる。
間近で見た彼女は思いの外小さく、華奢だった。どれ程持つモノかとも思ったが、贅沢を言える状況ではなかった。とにかく、幾ばくでも時を稼いでくれればソレで良い。
「何がありましたか?」
縋り付こうとする男を制し、少女は改めて尋ねる。
「追われています! 人ではありません! 怪物です!!」
追い詰められた声と表情で言う。演技ではない。
「御救いを! 私には、故郷で待つ家族がいるのです! 死ぬ訳には行かないのです!!」
在り来たりだが、だからこそ入り込み易い理由付け。何だかんだ、人は家族の情に靡く。特に、こんな聖職者気取りの甘ちゃんは。
案の定、少し考えた後に少女は言った。
「分かりました。私は、多少ですが武の心得があります。その魔性とやらは、私が留めましょう。その間に、貴方は御逃げください」
「シスター、しかし!」
「お気になさらず。こうして行き合ったのも、主の御導きなれば」
「ああ、ありがとうございます! ありがとうございます!」
ペコペコ頭を下げて、彼女の脇を走り抜ける。すれ違い様に、声が聞こえた。
「貴女に、主の御加護が有らん事を。ディムド・アルター様」
『ああ、生き延びてやるさ。馬鹿なお前の代わりにな』
心の中でほくそ笑み、男はそのまま走り去る。少女が口にした、不自然にも気づかずに。
●
「さテ」
目の前に満ち始めた血の海を前に、エメレアは言う。
「貴女ハ、死者ではアリません」
呼びかける先に、揺れる影。
怖い怖いよと泣く、小さな姿。
血で塗れたソレを、穏やかな狂気で愛でながら。天慈災華の聖女は説く。
「死者でないのなら、貴女は私の関与する領域ではありません。貴女が死者に関わらぬ限りは、関係を持つ道理も有り得ません。ただ……」
ソレの血に埋まった目が、エメレアを見る。
張り付くのは、新たな恐怖。
アレは、強い。
強いのは、怖い。
怖いモノには、消えて欲しい。
「貴方は、何であれ現世に在するモノです。現世のモノとしての、権利を享受しています」
自分の言葉など、届いてはいない。
そんな事、百も承知でエメレアは説く。
愚者に、説法する様に。
「故に、対価の義務が生じます。もう、現世権利の福音得られぬ死者達への奉仕と言う義務が」
広がる血溜まりが、震え始める。
恐怖に対する自己防衛。
怖いモノから、自分を守る。
単純明快極まる、存在執着の原理。
存在する事への、執着。
エメレアは、笑う。
「そう、ソレ。恐怖への抵抗。抹消願望の行使。ソレこそが、貴女が権利を謳歌している証左」
絶叫と共に血が弾ける。飛び出す凶器。四方八方から襲いかかる殺意。
エメレア、その隙間を縫う様にヒラリと舞う。
「下拵えは、此方で済ませて置きました」
流れる体捌きで飛び交う刃を抜けながら、ソレの上を飛び越えつつ告げる。
「どうぞ、『かの方々』の為に対価を。御奉仕を」
目下で見上げるソレに微笑みかけて。
「ソレまで、私も暫し降段を」
瞬間、鋭い貫手の衝撃が自身の心臓を貫ぐ。
ポタリ、と力無く落ちるエメレア。
ピクリとも、動かない。
佇む、ソレ。
もう、エメレアに興味は無い。
死体は、何もしない。
なら、怖くない。
怖くないなら、どうでも良い。
そして、ソレはまた進み出す。
まだ動いてる、怖いモノ。
消さなきゃ、いけないモノ。
彼を、目指して。
●
「此処まで来れば……」
漸く血の匂いの届かない場所まで辿り着き、男は汗を拭った。
「全く、あのメスガキのお陰で助かった。感謝しろよ? 俺の身代わりになった功徳で、愛しい主とやらが足元まで御導きくださろうさ」
そう言ってゲラゲラ笑った時、ふと近場の木陰に横たわるモノが見えた。
何かと思って近づいて見れば、ソレは金髪の少女だった。
一瞬ギョッとしたが、彼女が身動ぎもしない事に気づいて良く観察する。
「何だ。死んでるのか」
事故か病いかは知らないが、まあ良く見る毎ではある。そして、この森は自分の縄張り。なら、此処に在るモノは自分の所有物である。
「中々、上玉だな」
身に付けた装飾物や持ち物も価値が有りそうだが、何よりその見た目が目を引いた。
幼いながらも、良い造形の顔。扇情的な服装も相まって劣情が唆られる。
実際の所、そう言う目的で襲った女に抵抗されて。面倒になって殺してから行為に及んだ事は結構ある。肉が在って腐ってなければ、生死自体はあんまり問題では無いのだ。
子が欲しい訳じゃない。ただ、快楽が欲しいだけ。
舌舐めずりをして、動かない少女ーーマリカの胸に手を伸ばしたその時。
『またそうやって、無意味に女を汚すつもりか? 『私』にした様に』
「……え?」
何処かで聞いた声。ポカンとした瞬間、激痛が足を貫いた。
悲鳴と共に下を見ると、彼の足を地面に縫い付ける様に貫く錆びた短剣。そして、ソレを掴むのはマリカの影から伸びた青白い手。
「な……な……!?」
混乱と苦痛に戦慄く彼の前で、ヌルリと持ち上がるのは女性の顔。
『久しいな、ディムド』
男の顔が、恐怖に引き攣る。
「マ……マリアンナ……?」
『そうだ。貴様に愛しい者と命を奪われ、挙句操まで汚されたマリアンナだ。会いたかったぞ?』
「ど、どうして……?」
『どうしてもこうしても有るものか。あの苦痛。あの屈辱。どうにも死に切れなくてな。『聖女様』に連れられて、こうして追って来たのた。なぁ、アドルフ』
『ああ、全くその通りさ』
今度は背後から。肩に食い込む爪の痛みに振り返れば、そこにもまた知った顔。
『やあ、ディムド。元気そうで嬉しいよ』
「ア、アドルフ様……!?」
そう。彼らはかつて、男が我欲で殺めた貴族の嫡男とその恋人。
『案内役、ご苦労様。アドルフ』
『君の呼び声は、良く聞こえたよ。マリー』
笑い合う声が、男の心臓を捻り上げる。
「ま、待ってくれ! お、俺が悪かった! 謝る! 謝るから、ど、どうか……」
『謝る? 何を謝るんだい?』
『貴様は畜生ではないか? 畜生が欲のまま喰い散らかすのは、世の理だ』
『だから、僕達も畜生に堕ちたのさ。欲望のままに、君を喰い散らかす権利を得る為に』
「ま、待て……!」
『私達は待つが、時間は無いな』
『もう、料理人が到着したからね』
何の事かと思った瞬間、満ちる血臭。全てを理解し、悲鳴を上げる。
まだ、諦めていなかったのか!
逃げようとしたが、二人の死者に絡まれた身体は動かない。
「放せ!!」
『放さない』
「アレは、バケモノだ! 人知の外だ!!」
『知ってる』
「死人(お前ら)だって、無事では……!!」
『構わない』
『ソレが、僕達の対価だ』
『納得の上』
『付き合ってやるよ』
『一緒に逝こう』
絶望の悲鳴を、恐怖の絶叫が掻き消す。
弾け、雪崩れる凶器と狂気。
一人の悪党と、二人の死者。
歓喜の笑いと共に。
飲まれて。
絶えた。
●
「実に有意義ナ時デシタ」
雑な蘇生術での目眩など何処吹く風で、エメレアは笑う。
「貴女ニハ御礼をしなケレバいけませんネぇ。あの様ニ、万能とも言える『執行者』ノ存在を教えてクレルとは。あの方に御協力願えば、救済法ノ選択肢は随分と増えまショウ」
「……何言ってんのか、分かんない……」
上機嫌なエメレアに反し、極めて不機嫌そうなマリカ。仮死状態の反動での不調だけが、理由では無い。ソレを知り、エメレアは尚笑う。
「教えて差し上ゲルのは簡単デスが、ソレは余りニ無粋と言うモノ。御自分デ辿り着きなさい。それでこそ、貴女の罪は更なる高みへいたれます。最も、ソレはソレとして……」
まだ身体の自由が効かず、横たわったままのマリカにエメレアが覆い被さる。
「次に会う時を、楽しみにしていますよ? もっともっと、登って来てくださいな。その果てに、貴女が至る場所に興味があります」
そんな言葉と共に、重なる唇。絡む舌が、妖しく囁く。
「今暫し、お休みなさい。いつか邂逅する忘却と共に」
ーー可愛い、マリカーー。
甘い香り。
甘露。
そして、暗転。
全て全ては。
事も、無し。
おまけSS『街路にて』
「御礼を言いましょう」
まだ残る、偽りの死の残響。
二日酔いの様な頭痛にふらつきながら、近場の街まで辿り着いたマリカ。
今夜の宿を求めて歩いていると、すれ違った旅姿の女性から囁かれた。
「御陰で、『あの子』が顕界に留まる理由が増えた様です。あの子はああやっているのが、教会(こちら)としても色々助かりますので」
ハッと振り返った時には、女性はもう遠く。人混みに紛れる瞬間、一礼する彼女の額にはエメレアと同じ形の紋章。
追いかけるのも億劫で、ただ見送るマリカ。
気づけば、頭痛はすっかり消えていて。
これが御礼かと納得しつつ、何か甘いモノが食べたいなと思案しながら。
彼女の姿も、また人混みの中に紛れて消えた。