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幸せになるまでの二十四時間
登場人物一覧
●幸せになるまで、あと――。
目一杯枝を広げた大きな樹の下。其処に置かれた温かい木目のベンチにフーガは腰かけていた。
その身はいつもの楽隊の制服ではなく、真っ白なタキシードに身を包んでいた。
きっちりと締めたネクタイの所為で若干窮屈であり若干息苦しい。
少し緩めようか、いや崩してしまうのは駄目か。
ネクタイの結び目と、その少し下の辺りをフーガの右手は行ったり来たりを繰り返していた。
彼が落ち着かないのも無理はない。
何故なら明日はこの世界で一番大切な
「望乃がおいらの嫁さんか……」
一生に一度の晴れ舞台。
花嫁の象徴たる純白のウエディングドレスを望乃がフーガの為に着てくれる。
そう思うと歓喜やら興奮やらで、口元が緩み締まりのない顔になってしまった。
「っと、いけない、いけない。おいらは望乃の旦那さんになるんだぞ。しっかりしろ」
ぱしんと両頬を叩いて喝を入れ直すも、きりっとした三秒後には再度口元がゆるゆるになってしまった。
それを繰り返す事三回。これはダメだと早々に顔を引き締める事を諦めたフーガは、太陽の光でも浴びれば多少シャキッとするだろうとベンチから立ち上がった。
木漏れ日が差し込んでいた樹の下から出て、空を見上げれば雲一つない透き通った青が一面に広がっていた。
天高く輝く陽光の眩しさにフーガは思わず目を細めた。
(思えば、望乃と出会った時もこんなにいい天気だったな)
今日と同じように太陽が輝く真夏のシレンツィオでの海辺で、フーガは望乃と出会った。
かけがえのない友人も其処に居た。自分と彼の間で向日葵の様に笑う少女、それが望乃だった。
ダイビングスーツに身を包んで、穏やかな蒼い海に三人で飛び込んで一面のマリンブルーの美しさに目を瞠ったのだ。鮮やかな珊瑚に、色とりどりの花の様に海中を気ままに舞う魚たち。水面から差し込む陽光がキラキラと輝いて。宝石箱をひっくり返したようなすべてが輝いている世界だった。
(本当に綺麗で、世界にはこんな場所もあるんだって思った。フーガさん達と過ごした時間が楽しかったの)
ウエディングドレスに合わせてアップにした紙に、髪飾りを付けながら望乃はあの夏の事を思い返していた。
最初は『姉ちゃん』なんて呼ばれて、自分よりも年上の筈の彼に対してつい実家の弟達の様に接していた。
これからも『姉ちゃん』と『可愛い弟』の関係が続くと思っていたのに。
(どんどん惹かれていって、気が付いたらフーガのことを好きになってた)
だが自分が恋した
いつか
この世界の事も、佐倉・望乃という女がいたことも、屹度何もかも忘れてしまう時が来るのだ。
フーガはとても優しい。
もし自分が「好きです」と伝えてしまったならば、優しい彼は困ったように笑うのだろう。
その言葉一つで、鎖の様に彼に絡みついて屹度その脚を捕えてしまって彼が行くべき道を閉ざしてしまうだろうから。
(だから、だからずっと……ずっと、この想いは内緒にしておこうと思っていたのに)
なのに、その日は突然やってきた。
あの洋館でフーガといつもどおり笑い合っていた時、フーガが頬を染め、頭や頸を激しく掻いていつになく真剣な顔で言ったのだ。
『そもそもおいらがアンタの旦那になりたい気持ちって、妄想にも程があるか……?』
一瞬、望乃は何を言われているのか分からなかった。
自分の都合のいい妄想だと思ったのだ。過去に何度も見た優しくて甘い夢なのではないかと。
だが、目の前のフーガは確かに存在していて、自分の身体を駆け巡る感情は紛れもない現実だった。
一歩的に慕っていて、相手の迷惑になるからと鍵をかけた恋心。
その鍵は、まさかの相手が持っていて。
ぴったりと鍵穴に収まったソレは、かちゃりと音を立てて望乃の心をあっさりと解放してしまった。
『姉ちゃん』じゃなくて、あなたの『嫁さん』になりたいって欲が出てきちゃいました。
「――おいらの、一方的な思い込みじゃなかったんだよな」
フーガとて大人の男性だ。
望乃から自分に向けられる視線の意味に気づかぬほど鈍感ではない。
なんとなく、彼女とはとは想いが通じ合っているのではないか、と思っていた。
しかし、それは自分がそういう風に思い込んでいるだけで、彼女からすれば『ついつい構いたくなる義弟』の一人なのだろうと無理やり言い聞かせていた。
『自分自身に恋する人なんて現実にはあり得ない』
呪いの様に沁みついて、心に深く刺さったこの楔の所為だった。フーガは自己肯定感が低い為に、真直ぐな想いから目を背けていたのだ。
だが、あの日。あの洋館で、フーガは堪え続けた胸の内を打ち明けた。
本当は怖かった。
ここまで丁寧に積み重ねてきた二人の時間が、関係性が自分の言葉一つで壊れてしまいそうな気がしていたのだ。
だが、抑えきれなかった。
想いを伝えた時、空間に一瞬静けさが訪れてフーガの心臓はバクバクと嫌な音を立てていた。
軽蔑だろうか、侮蔑だろうか――憐れみだろうか。
しかしどれも違った。
望乃の口から出てきたのは、温かく愛に満ちた言葉だった。
そしてその言葉は、望乃はフーガを深く愛しているのだということを意味していた。
自分は、確かにこの人に。愛されているのだ。
そう自覚した時、この世界が色鮮やかに煌めいたのをよく覚えている。
「……本当は、とっくに夢から醒めてたんだよ」
最初は必死にこれは夢なんだと思い込んだ。思わなければ気が狂いそうだったのだ。
だが、かけがえのない友と出会い、そして望乃に出会った。
そうしていくうちに『夢』だと思っていたのは、辛くも楽しい『現実』へ変わっていった。だが、その時間が増えるたびにフーガは怖くなった。
いつか
それが酷く恐ろしかった。この幸せな時間が、安らぎがすべて無かったことにされて別れが来るのが恐ろしかったのだ。だから、自分の想いすら『夢』なのだ、と思い込んで耳を塞ぎ目を閉じた。
だが、そうして全てから目を逸らし続けるには望乃への想いは大きくなりすぎてしまった。
――愛してる。
練習が足りなかった所為か、俳優の様に活舌も悪ければ声量も足りない消え入りそうな声だった。それでも、耳が良い彼女にはしっかり届いていた。
そして、思いの通じ合った二人は婚約者となり、冷たい極寒の冬を超えて花々が咲き誇る春になったら、式を挙げようと誓ったのだった。
「あの時は早く春にならないかなって思ってたけど……もう、式前日なんだもんな」
時の流れというのはあっという間で、互いに依頼をこなしていたり聖夜やグラオ・クローネなどを共に過ごしているうちに真っ白な雪はすっかり融けて、淡い薄紅の花が蕾を付け始めていた。
そして今フーガの近くにあるこの大樹も、寒々しかった枯れ枝の姿から見事な緑の葉をつけるほどになっていた。
明日、自分たちはこの樹の下で結婚式を挙げる。
そう思うと、フーガの胸の奥がじんと温かいものが溢れ出した。その時愛おしい妻の声が聞こえてきた。
「フーガ? そちらへ行ってもいいですか?」
「ああ、もちろ、ん」
「どうでしょう? 変じゃないでしょうか……」
おずおずと現れた望乃の姿に、フーガは釘付けになった。
シンプルなプリンセスドレスだが、無駄な装飾の無い真白が望乃の美しさをこれでもかと引き立てている。
布をふんだんに使ったドレープに緩やかに波打ったフリル。白薔薇のコサージュは華やかだが決して望乃の邪魔をしておらず、彼女を護るヴェールはそよ風に揺れ幻想的で、儚げだった。
もしフーガが御伽噺に出てくる魔法の鏡で『この世で最も美しい者は誰か』と冷酷な女王に問われたならば、たとえその身が粉々に砕け散ったとしても断言しただろう。
――それは佐倉・望乃です、と。
尤も、現実は言葉は出てこず、ぽかんと口を開けたまま固まることしかできなかったのだが。
「……」
「フーガ?」
「…………」
「あの、フーガ……? やっぱり変、でしょうか……?」
望乃に声を掛けられ、漸く現実に帰ってきたフーガはぶんぶんと勢いよく手を左右に振り必死に否定した。
「へっ!? いやいや、変だなんて!! その、あの。望乃があんまりにも綺麗すぎて……言葉を失っちまって……」
「ほあ!?」
気恥しそうに頬を掻くフーガの熱烈な言葉に、不安げな顔から一転してぼんっと望乃は顔から湯気をあげた。
「き、綺麗だなんてそんな」
「いつも綺麗だけど、その、特別綺麗って言うか……」
「~~~~ッ!」
「こんな綺麗で優しい嫁さん貰っていいのかなぁって……」
「も、もういい!! もういいですから!! ……きゃっ!?」
「望乃!?」
恥ずかしさの余り顔の前でぶんぶんと両手を振っていた望乃だったが、勢い余ってつんのめってしまった。
そのまま躓き、バランスを崩した望乃はフーガの方へと倒れ込んでしまう。それをフーガはしっかりと受け止めた。
「だ、大丈夫か?」
「え、ええ……ごめんなさい、フー、ガ」
ぱっと望乃が顔を上げれば、さっきよりも近くにフーガの顔があった。
さっきよりも近い距離に、収まりかけた熱がじわじわと再度温度を上がり始めた。
とくん、とくん。
心臓の鼓動が、一つ一つ確かに刻まれてフーガと望乃は自然と口を開いていた。
「これからも、ずっと一緒にいてくれ。どんな運命になっても、おいらはずっと、キミの傍にいたいんだ」
「これからも、一緒にいたい。ずっとずっと、あなたの傍に」
二人が幸せになるまで、あと、二十四時間。
おまけSS『小噺』
「んっ、ん~~!」
「望乃? 何を難しい顔で悩んでいるんだ?」
「あっ、フーガ! ウエディングドレスで悩んでいるんですどれが良いでしょうか……悩んでしまって」
トルソーに着せられたウエディングドレス。
一つ目はホルターネックにパールとビジューをあしらい裏地に上品な紫のヴェルヴェットを縫い付けたドレス。
二つ目は膝下くらいまでのスカートでパニエを入れてふんわりとボリュームを出したミニドレス。
三つ目は装飾は控えめだが、真っ白なプリンセスラインの王道のクラシックスタイル。
「どれも、可愛いと思うんですけど……」
「そうだなぁ、望乃なら絶対全部に会うと思うが……おいらはコレが好きかな」
フーガが指さしたのは三つ目のドレスだった。
「なんていうか、御伽噺の姫様みたいだろ? 望乃も姫様みたいだからぴったりじゃねぇかなって」
「お、お姫様だなんてそんな……!」