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Hunger wolf
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生きることが恐ろしくなったのは、忠誠心と共に在ったはずの誉れが折れてしまった時だった。
無数の人の死骸。その上に立つ悍ましさは決して忘れることは出来まい。あったのは自らの保身だけだった。男が逃げ出したのは、己の弱さでしか無かった。
男は所詮は脱走兵だった。戦場から逃げ出した愚かな男だ。傷を負ったその身を介抱した心優しき幻想王国の獣種の子供だって、脱走に関与した罪人でしかあるまい。
考えれば容易に理解出来ることであったというのに、瘡蓋のように濁り凝り固まった自らの心を解く子供の声音は甘く微睡みの縁に居るかのような心地であったのだ。
小さな羊の子供は自身の食事を籠に入れてやってきた。「お父さんとお母さんに内緒だ」と笑った小さな小さな子供。
「内緒にしていていいのか」
「いいんだよ。だって、アルトは悪い奴じゃ無い。元気になったら紹介するんだ」
今は休んでいて、と辿々しく歌われたのは子供が暮らす村で大人達が教える子守歌だった。聞き慣れないその歌は自然と心を落ち着かせた。
何時までも続くと思われた甘い時間。怪我が治れば子供の両親に挨拶をし、この恩を返そうと誓っていた。
「―――、」
「なに?」
呼び掛ければ笑ったその笑顔さえも、アルトはこの世の幸せが輪郭を持ったならばこうしたものを作るのだろうと考えるほどだった。
優しく、朗らかで、変わることのない絵顔。ひだまりの薫りに、心地の良い気配。もう少し、歌って居て欲しい。もう少し、穏やかに。
もう少し――
だから、目の前で飛び交った凶弾が、世界の全てを変えて仕舞ったのは当たり前だった。
「アルト!」
呼ばれた名に、男は動く事も出来なかった。
痛む体は碌に動かせず、傷口は塞がったとて、何時までも恐れるばかりで反応さえも出来なかった。
飛び交った血の匂いが鼻につく。嗅ぎ慣れた薫りが漂った。聞き慣れた軍靴の音は暗い洞穴に木霊する。
ほら、見たことか! ざまあみろ! ――誰かが笑っている気がしたのだ。
平穏など何処にもない。お前は屍の山に立っていたではないか。のうのうと幸せを享受しようとするからだ。
目の前に倒れた幼子の死骸はお前が作り出したのだ。
そこからの事を男は詳細には覚えて射ない。
ずる、ずると引き摺る音が響いていた。
啜るのはただ、己の欲のためだ。言葉にすることも悍ましい現実に己は顔を埋めている。
指先は血色に塗れていた。腸の感覚も忘れてはならない。伽藍堂の孔の中、己をせせら笑う悪魔が居る。愚か者め、お前はどうせ化物なのだと。
開かれたままになった子供の瞳が此方を見ている。苦しむことも、悲しむこともない、ただのガラス玉のように男の姿を返すだけの子供の瞳だ。
そんな瞳を何時だって覗いて来ただろう。これは死だ。誰もが逃れ得ぬ、終わりの形であったではないか。
何が、もう二度と人が死ぬ場面を見たくはない。己に罪はない、だ。
軍人であったからには国の為だと責任を擦り付け殺しに没頭してきただろう。其れが今更倫理を語るというのか。
――どの口がその様な
熱を帯びた紅眸で胡乱に世界を見詰めていた男の名はアルトと言った。
鉄帝国に生まれた彼は鉄帝国軍人として南部戦線で戦い続けたそうだ。ファミリーネームは最早忘れてしまった。
溺れているのは優しい羊の子供の匂い、そして、その甘美な味わいだけだ。傷だらけの青年が戦場から逃げ果せ、幻想に辿り着いた際に子供は何も聞かずに手当てをし、食事を与え、唄を歌って暮らした。子供にとっては大きすぎた秘密は、誰にも語られることはなく――近隣の村では山に入って行方不明になった子供が居た程度で済んだと風の便りで聞いた。
男は追って出会った鉄帝国軍人に殺された大切な命の事ばかりを考えて居た。凶弾より青年を庇った子供は即死だった。子を貫いた弾丸が洞穴の壁に食込んでいた。硝煙の匂いの中で、男は我武者羅に追っ手を殺した。頸をたたき折れば易い。叫声は雨音に隠された。
男は只の脱走兵ではない。今や、魔種に成り果てた。罪の象徴の如く映えた羊の角は、狼には決して似合うことはない。消えぬ罪悪。
苛まれながらも男は腹を空かせた。満たされることのなき空腹を抱えたまま野を行く。人も、家畜も、獣も、分別なくただの
男の鼻先がすん、と鳴った。
一番始めに喰らうた自身を介抱してくれた幼い羊の子に良く似た匂いがした。近隣の村で飼われた羊や山羊などの家畜ではない。彼等は季節毎に移動し暮らしている部族だ。
確かにその部族には小さな羊が多かった。けれど、此程までに匂いが近いのは――
アルトはそろそろと歩きながら匂いを辿った。
白くふわふわとした髪に羊の耳。俯き、涙を流していた小さな羊の子。
アルトは足を止める。ああ、だって――あれは
「――――」
唇は確かに
ごくりと生唾を飲み込んだ。だが、唇がもう一度子供の名を呼ぶ――音にはならない。
「ひっ――!?」
びくりと肩を揺らした子供は何処からか聞こえた獣の鳴き声に酷く怯えているようだった。
嘗ての自分だったならば、獣の全てを払い除け大丈夫だと手を貸しただろうか。今は、近寄ることさえも出来やしない。今までこんな事を考えたこともなかったというのに――目の前の羊の少女を見ただけでどうしようもなく心がざわめいたのだ。
人に手を掛ける悍ましさも、人も家畜も獣さえも分別なく只の肉だと認識する己の心も、訴え掛けるように揺さぶられる。
「ひっく……」
子供が泣いている。アルトはどうしようもない程にその場に立ち尽くした。茂る草叢でぴたりと足を止めたまま動く事は許されやしない。
「どうして……カシュ……おばあさま……」
子供は何度も、何度も涙を流す。彼女は近隣の部族の子なのだろう。其れにしては様子がおかしいか――アルトは空腹と、罪悪感の狭間に立たされながら様子を見ていた。
メイメイ・ルーは季節によって転々と住処を変える部族の出であった。幻想王国の片隅、鉄帝国と隣接した北部の山岳地帯に棲まう流浪の民。
アルトを介抱したのはメイメイの村の子供だった。それは確かなことだ。アルトが彼女に面影を感じたのだって、仕方が無い事だ。
だが、村の子供が一人で山を歩くことは珍しい。特に、
――駄メイメイ。
揶揄うように笑ったのはカシュ・ウルだった。メイメイが棲まう集落の長の息子である。彼は眠っている最中に刹那のひときわだけを切り取った夢を見る。
集落の者達はそれを天啓だ、神の啓示だと尊んでいた。カシュが見た断片的な情報は
そして、それに幼馴染みであるメイメイが関わっている、と。カシュにとっても信じられない啓示はまたたく間に家族達へと伝えられた。
その
メイメイを護り、その命を助くならば村から追い出さねばならない。村に居ては、彼女を護りきれない。遠く、遠く離れた地に――
そうして彼女は訳も分からぬ儘追い出された。二度とは村に戻ってはならないと、禁じられて山間を一人で歩く。
山を下り、メフ・メフィートを目指せとカシュに言われたからだ。
だが――
その途中に少女はアルトと出会ってしまった。涎を垂らした狼。少女の匂いにおもかげを感じ、伸ばし掛けた腕を止めたのは偶然か、それとも彼女が世界から受けた
それは躊躇いと、途惑い。そしてその後の僅かな逡巡という刹那。
男は空腹に耐えかねて草叢を飛び出した。だが――瞳を見開いたかと思ったメイメイの体は消え失せる。
「――!?」
アルトは酷く怯えた様子で座り込んだ。眼前の娘が風に攫われるように掻き消えたからだ。
それは世界の悪戯か、それとも彼女の運命に与えられる大きな変化を予見していたのかは分からない。メイメイ・ルーはその瞬間に空中神殿に召喚されたのだ。
あの幼い羊に良く似た匂いを有した子供が消え失せてしまった。
アルトは呆然と座り込み、叫び声を上げる己の空腹に為すことは出来ず山を下った。その先にあった村を
だが、満たされやしない。腹を満たせど、空腹だと心が叫ぶのだ。
あの時喰らった子供のと何が違うのか。肉の質など大差なく、幼子であるならば柔らかさだって代りもない。
――だと、言うのに忘れられやしないのだ。
時折、山間の集落に向けて手紙が届けられる。転々と移動する流浪の民達の集落の場所を麓の集配人は知っていたのだろう。
アルトはその中に
彼女が何者であるかは分からない。ただ、思い出させるのだ。
あの小さな羊の子が歌った唄を。自身を庇い死んでいったあの子を。どうしようもない空腹に抗うことさえ出来ず、口にしたあの肉の甘美なる味わいを。
それが、彼女を喰らえば得られる気がしてならなかった。
男は未だに山に潜む。
便りが届けば彼女が生きている証拠だ。まだ、誰にだって食べられてや居ない。
彼女を喰らう為だけに男は山に暮らし、偶然ながら見付けてしまったのだ。
転々と移動する流浪の民達の集落に。そして、その周辺に漂った懐かしい匂いに――ぐう、と腹が鳴った。
ああ、食事は何時にしようか?
- Hunger wolf完了
- GM名夏あかね
- 種別SS
- 納品日2023年05月12日
- ・メイメイ・ルー(p3p004460)
・メイメイ・ルーの関係者