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俺の開花(ルーツ)とフランスパン
登場人物一覧
人間は水と睡眠さえとっていれば、たとえ何も食べなかったとしても2~3週間は生きていられるという。
仮に水を一滴も飲まない場合は1週間足らずで死んでしまうとも。
そんな豆知識が脳裏をよぎった時、零・K・メルヴィル(p3p000277)はこう思った。
「こんなの一日だって耐えられないだろ絶対!」
「失敗した」
零の名が上谷・零であった頃のおはなし。
それも、混沌世界に突如召喚された時のお話である。
どこにでもいるような平凡な男子高校生だった彼は、登下校中だったのか制服姿のまま混沌の空中庭園へと召喚された。
「う、うわあ!? どこだここ!? 俺を拉致っても何もないぞ!」
異世界召喚という『メディア』に触れなかったといえば嘘になるが、宝くじの高額当選並に自分にはありえないことと割り切って生きてきただけにこの唐突さは彼を怯えさせた。
なにせ、ごく普通の生活をしていたら突然知らない世界に呼び出され滅びがどうとか言われるのである。
チート能力も専用ヒロインもなければ金だって使えない。親は勿論友人にも会えないし楽しみにしていた漫画やアニメももう見れない。その全てを突然にして奪われた感覚は、彼を錯乱させるに充分であった。
「あの――」
「なんでこんな目にあうんだよ! 俺はなにもしないぞ! ただの高校生に何求めてんだよ!」
係員の説明を完全にすっとばし、逃げるように飛び出してきた零。
あのとき話くらい聞いておけばよかったのではと思い始めたのは、異世界生活一日目が終わり始めた頃だった。
(ああ、腹減った……)
普通に暮らしてきた彼にとって、『飯抜き』とは一食程度を指すものだ。それでも育ち盛りの彼であれば死ぬほどひもじい気持ちになるもの。まる一日食わないだけで足はふらつき腹は鳴り、めまいや変な汗すら出始める始末であった。
(おかしいだろこの世界。言葉は通じるのに金は使えないし、なんか頭がニワトリの怖え人いたし……)
当時からアクの強かったローレットに彼が寄りつかなかったのは、やはり当然のことと言えたかもしれない。
当時は本当に平凡な男子高校生にすぎなかったのだ。普通の生活を割り切って過ごすことで平穏を保っていた人間から平穏と普通さを奪い去れば、当然バランスは崩れる。
見るものすべてが恐ろしく、そして自分を陥れる罠のように思えるものだ。
手を伸ばしてくれる人の笑顔すら、恐怖の対象となりえた。
信じられない世界のなかで、確かなものがあるとすれば自分のこの空腹だけ。
(とにかく、食えるものを探さなきゃ……)
迷い込んだは幸か不幸かスラム街。手持ちの千五百円あまりをスリ取られたが、今更そんなものなくなったところで何にも変わらない。ひもじそうに歩く青年が一人いたところで目立たない。そんな場所をふらふらと歩き、人目を避けるように裏路地へと逃げ込んでいく。
宿を取るという発想は、当然ながら無かった。
暮れた夜の月の下で、人目につかぬ路地裏に座り込む。
(ああ……冷たい……)
世界がこんなにも冷たいなんて思ったことはなかった。
風が冷たい。
地面がつめたい。
壁がつめたい。
胸の奥から湧き上がってくるような汗が冷たい。
頭がスゥーっと冷えていくような感覚と、腹の底がしぼんでいくような感覚。
体験したことのないほどの『飢え』に、彼はそれこそ無縁だと思っていた『死』を意識した。
「死にたくねえなあ……」
出してみた声はかすれきって、自分の声には思えなかった。頭の中をわんわんと、自分のかすれ声が反響する。
死にたくない。
そうだ、死にたくない。
けれど何ができるだろう。この、信じられるものが何一つない世界で。
サバイバル術をマスターしたレンジャーかなにかだったらよかった。
知らない都会でも生き延びる漫画やアニメの主人公だったらよかった。
自分には何もない。主人公でも、なんでもない。
交通事故のように突然異世界に呼び出され、誰も知らない場所で飢えて死ぬのだ。
「なんで……俺が……」
壁によりかかった背の感覚がなくなっていた。
視界が90度ほど傾いていく。よりかかったまま自分が倒れたのだと気付いたが、だからどうにかできるワケではなかった。
苦しさも、ひもじさも、消えかかっている。
死ぬときは案外苦しくないのかな。
そんな風に考えた……その時。
ふと、『できる』と思えた。
「フランス……パン……」
かすれた声で翳した手から、真新しいフランスパンがゆっくりと現れた。
「その先は言わなくても分かるよな。
パン食って元気だして、水なかったからむせまくって、近くの人にパンと水交換してもらって立ち直って、案外この世界のヤツ話せるじゃんってなって、ローレットの世話んなったわけ」
パンをかじり零・K・メルヴィルは言う。
「あれが、俺の開花(ルーツ)だったな」
そう、彼が平凡じゃなくなった瞬間の話である。