SS詳細
The pain plays on our skins.
登場人物一覧
少女人形は、しとしとと、しとしとと。泪を流す。
其れは、
将又、すっかりこのひとに心を奪われてしまったという恋の傷みだったかも識れない。
●
『Scheinen Nacht』の裏側、ゼファーとアリスの特別な時間。
今日の宿にと腰を据えたのは、何の変哲もない普段から利用する様な宿屋。こんな日だ、ちょっぴり贅沢をしたって罰は当たらないのだろうが。暖かみのある賑やかな大通りから外れた其処は、しん、と寒くて薄暗くて、埃っぽかったけれど、何より静かでこんな夜には相応しい。少なくとも、此れから神聖な儀式を執り行うふたりにとっては、打って付けの場所であった。
痛覚とは、人の記憶に最も根強く、深く残る物なのだと云う。互いを、揺るがぬ、忘れられない存在にする為に。風に吹かれて、摺り抜けて消えてしまわぬ様に。
いたみで以て互いの存在を記憶に刻む事を望み、いたみを分かち合う事で互いを強く結んでしまえと欲したのだ。
一つのベッドに腰掛けて、意を決した様に向かい合う。
そう言えば、宿に泊まる時に一つのベッドで良くなったのは何時の事からだっただろうか。ふたりが出逢って凡そ2年。旅をして、護衛や踊り、特技を生かして身銭を稼ぎ食事と宿に在り付く、そんな生活。アリスにせがまれて、シーツを被って結婚式ごっこをした事だってあった。それ以上の――わるいことだって。
そんな風に記憶を揺り起こして口端を歪めるゼファーに、アリスが贈ったのはシルバーのカシューピアス。
静かで、冷たい光をたたえる銀は、存外手が掛かるものだ。移ろい易い美しさは、我儘な少女の様に。黒ずみがちな軀は、まるで少女の儚さの様に。だが、磨いてやれば、うんと輝きを増して上機嫌になるのが<わたし>みたいだと。
そして、アリスにゼファーが贈ったのは、銀の稲妻を落として尚眩い空の青――小さなターコイズが一粒揺れる白蝶貝のビジューピアス。
愛情を注ぐ相手に贈れば、成功と幸福を約束してくれる石。誇り高くて、気が強くて、惚れっぽい少女の様な子。移り気な天気の様に、液体を含んでその姿を変える事もある其の蒼さが<私>みたいだと。
お互い、それ程上等な物ではない。唯、物の価値では計り知れない意味がふたりの中にはある。片耳分だけの其れは、左耳に飾ると決めていた。
膝の上によじ登った小さく軽い軀が、ゼファーの冴えた銀の髪を恭しく耳に掛け、キスより近く、吐息が擽ぐる距離で頭を優しくまるで慈悲深い聖母の様に抱く。緩く上下する人形の胸の鼓動は毀れてしまいそうな程に早くて、心情を物語って居る様にも想えた。しなやかな肢体がバランスを崩さない様に、両腕を軽く回す。
――此れが答えだ。
恐る恐る、真っ新な耳朶に穿刺針が充てがわれる。じくり、とする痛みの次に、異物が体内へ入って来る感覚。痛みには慣れているからであろうか、眉を顰めたのはほんの一瞬。不快な様な、けれども求めていた快楽が其処にはあった。
ぷつり、と裏側まで針が通ったのを確かめると、新しい傷跡にピアスを急いで通す。器具を買った露店商が言っていた通り、そこまで血は出ない。
綿紗で柔く滲んだ血を拭き取ってお終い。ツン、と神経質な消毒薬の香りが鼻を擽って、実感にだろうか。少し興奮するわね、なんて宣えば、結構怖かったのにあなたってば酷いわと不満そうな聲。
「痛くしないでね、とでも謂えば良かった?」
「そんな珠じゃないでしょう、もう」
そう、そっぽを向きながら、自分用の針を渡して来る顔を覗き込めば、薄暗い中でも判る程に顔どころか耳、ネグリジェから覗く鎖骨まで紅潮しているのが見て取れて、其れを知ってか知らずか、急かす様に今度はアリスがゼファーの首に腕を回す。
――此れは何時もの『大丈夫』の合図でもあった。もう、言葉は要らないだろう。
薄っすら睫毛を濡らすのを尻目に、彼女がそうした様に普段なら見惚れる程美しく白い、完成されたパーツの一部である薄い耳朶に尖った先を当てれば、軀が小さく跳ねて。屹度、此処で笑ったら彼女は臍を曲げてしまうだろうから――印を付けた場所に狙いを定め直して、ゆっくり、優しく。貫いた。
「……っ」
肩口で丸まる、甘い蜜が滴り落ちた様なハニーブロンドの手触りの良い髪に、つう、と頬を伝い流れた泪が合流し濡らす。人形は、先に”女”になったゼファーの様に痛みには強くない。何より、今では偶に忘れそうになるが彼女は驚く程精巧な少女人形。そんな軀に傷を刻むのは己の失いに等しい。
然し、人形は其れで泣いていたのではない。悦ばしかったのだ。此の人のものである証を貰えたのが。夢見ていた、捜していた。<わたし>に傷を付けてくれる人。<わたし>のさいわい。こんな感情を与えてくれる人を、待っていたのだから。
「最初は、不本意、と言う言葉に尽きたと思うの」
まるで其処に心臓があるかの様にどくり、どくりと脈打つ耳の傷痕を愛おしそうに撫ぜて。泪を流し続けながら、真っ直ぐに目の前の人を見つめ続けた。
「ええ」
「少なくとも――わたしの心はわたしだけのものだって。其れに、あなたは『可愛い』って謂ってくれるけれど、当然だわ。だって、わたしは
泣き方も識らなった筈のその子は、今は見事な程に、しとしと、しとしと、泪を流す。どれ位の間、そうして居ただろうか。直ぐとも、永劫とも、思える様な時間の後。
不意に、その滴をざらりとした生温い感触が拭う。ひたひた、ひたひた、濡れた柔らかな頬にゼファーは丁寧に舌を這わせ、軈て其の脣は薄く驚きに開くアリスの脣と重なった。其れから、
「ねえ、私のアリス。あなたの泪ってしょっぱいのね」
そう、茶目っ気たっぷりに笑ったのだ。
「……其れは、泪だもの。当たり前よ」
「不本意だったのは私も同じだわ。――此の手に或るのは槍だけで、守るものを持つ事なんか考える由も無かったんですもの」
生きて行くには、身軽な方が屹度良い。年頃の少女の様に着飾る事をせず、居場所も持たず、風が戦ぐ儘に流れる放浪の身。ひと時を共にした彼の人からは、此の世を生きる術であって、誰かを守るものに非ず。ひとりで、生きていく心算だった。ひとりで、ひっそり死ぬ気で居た。看取られるのも、看取るのも、御免だと。
――そうして皆、私を忘れていったのに。
――思い掛け無い出逢いは、有りし日突然に。
――共に歩き旅をするのは、何時しか必然に。
――募る想いの儘、互いを求めたのは当然に。
変遷して行くのが、人間だと識った。変わる事を受け入れ無いのは考えるのを辞めてしまう事。生き物としての停滞に等しいのだと、否が応でも識らしめられたのが彼女と云う存在だった。
「だから多分、出逢いは魔法ね」
「あら、ゼファーってばロマンチックですこと! ――でも、」
「でも、何かしら?」
「『魔法』で終わりたく無いわ。痛い程の現実に、身も心も焦がしたいから」
「まあ、まあ、欲張りさん」
「だって今日は願いが叶う日でしょう?」
すっかり曇った硝子の向こう。蕩けた銀色に、幾重もの流星が降り注ぐ。きらきら、輝く祈りの日。
月の灯が、ふたりの影を壁に形作る。ひっそりと、其れはひとつに重なって。今宵の戀物語は此れにてお終い。
此れからの事は、星々すら識らないお話。気高く、白い輝きだけが、見守って居た。