SS詳細
Bloody Birthday Roses
登場人物一覧
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仕事あがりのジハール・チャンドラは上機嫌でハッチバックの運転席に乗りこみイグニッションキーを回した。
途端に響き渡る排気音。磨き抜かれた流線形のフォルムが夕陽を浴びて鈍色に光る。
今まで何度となく繰り返してきた動作だが『正式な貸し出し手続き』を踏んで車に乗り込んだ回数は数えるほどしかない。
アクセルを踏めば大した振動もなく滑らかに走り出す。レンタカー店での煩雑な手続きは面倒の一言に尽きたが恋人のためだと思えば我慢できた。
きっと特別な日になる。
後部座席には真紅の薔薇二輪、寄り添う赤ん坊のように乗っている。
恋人への挨拶は花が一番だ。それが誕生日なら猶更。
ジハールは生粋のロマンチストではない。しかし恋人の笑顔を見る為ならば、今まで培ってきた人生経験全てを使う男でもあった。
もちろん巨大な花束を贈ることも考えたが、直近に起こった事件――あの忌々しいサクラとか云う花のことを思い出して止めた。
あの弱々しい花の群れは今でも彼の心を荒立たせる。この狂った不思議の国では思いもよらぬ存在がジハールの恋敵になると分かった以上、周囲全てを警戒するのは当然の流れであった。
桜の一件はジハールに確信を齎した。
彼の隣にいるのは花すらも惚れさせる良い女なのだと。
だから、花束を作る代わりに店の中でも一等美しい薔薇を二輪選んだ。
彼女なら「薔薇を二本」の意味を理解してくれるだろう。
思考がとぎれた瞬間を見計らったかのようにaPhoneが鳴り出した。
良いタイミングだとジハールは笑みを浮かべる。運命とは斯くあるべきだ。
そうだろうヰニイ。海に咲いた俺の薔薇。
「なあ。アンタ、いまどうしてた?」
ハンズフリーを操作してジハールは電話を車のスピーカーにつなげた。そうすれば彼女の声に包まれているように感じるからだ。約束の時間より二時間も早いが、彼女なら既に待ち合わせ場所にいるだろう。ジハールの知るヰニイとはそういう女だ。
しかしスピーカーから聞こえてきたのは砂利を踏み潰すような雑音と、それから苦しげな、くぐもった息遣い。そして衣擦れの音。
ジハールはブレーキを踏んだ。幸いにも後続車がいなかったため大事故にはならずに済んだが黒いタイヤ痕が蛇のように道路に横たわる。
目を閉じハンドルに額を押し当て、慣れ切ったスラングを一言。
薄く開いた瞳は冬空の如く冷静だったが奥底では嵐のような感情が渦巻いていた。
どこの誰だか知らないが舐めた真似をしてくれる。祝い事の気分が霧散し、殺意と形容するのも生温い暴力性が鎌首を擡げる。
位置情報システムは便利だ。恋人が、いつどこにいるのかを教えてくれる。
二人を繋ぐ魔法の鏡はあっという間にカーナビと連携した。
ギアを入れ替えアクセルを踏み込むと無言のジハールの代わりとばかりにエンジンが悲鳴のような唸り声をあげた。
裏路地には羊水のような生温かい空気が満ちていた。
茜空を背景に座り込んだ女はまるで切り取られた黒い影絵のようだ。
大きく引き裂かれた胸元からは下着のレースが覗き、朝顔のように広がる純白のスカートの下には赤黒い水溜りが広がっている。
彼女のスカートの上には事切れた男の頭が乗せられている。白い布地に埋もれる驚愕に固まった横顔。剥きだしの腿と臀部に、中途半端な下履きとベルトが引っかかっているのが滑稽だった。
「アンタ……」
細いナイフは肋骨に阻まれることもなく深々と成人男性の心の臓を貫いている。
ジハールは怯えた少年のように顔を強張らせたが、直ぐに『いつもの自分』へと切り替えた。仕事帰りであったことも功を奏してか、本音を晒していた秒数は一秒にも満たなかったであろう。
「嗚呼、ジハール。丁度良いところに。此の方を如何にかして呉れない?」
丁度良いところに。それはジハールに助けを求めてきた側としては些か不似合いな言葉だった。逆光で影になった顔は見えない。けれども斜陽の中に夕陽色の眸が炯々と浮かんでゐる。
「此の方がね、あんまり熱心にお誘いしてくるものだから久方ぶりに自己存在の確立と疑念の立証をしてみたのだけれど結果は御覧の有様」
艶を帯びた声は常闇から響いてくるようであった。
「ね。『stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus.』をあなたなら何て訳すかしら?」
唐突な問いかけにジハールは片目を眇めた。
「アンタは?」
「そうね。『今直ぐ裸に成って愛し合いたい気分だわ』とでも云っておきましょうか」
「へえ? 随分と情熱的な言い回しじゃん」
ジハールがヰニイを見間違えるはずが無い。けれども違う。同一だが決定的に違うのだ。
「そうだな、俺は……『アンタの薔薇の香りも愛してる』。尤も、今のアンタからは血の臭いしかしねーな」
「
この目をジハールは以前にも見た事がある。その時は寝ぼけているか忘れているのかと思っていたのだが、ヰニイもまた不思議の国の住人であったというだけなのだ。
「取り敢えず幇助してやるよ、そのままじゃマズい事になんだろ? 取り敢えず家帰ったら服脱がないとな……」
ヰニイと会う事を優先したためレンタルカーの中にはジハールの仕事道具一式が入っている。そのなかにはブルーシートもあるしロープもある。ついでに言えば巨大なスコップも。
買い物用にと準備した巨大な荷物置き場を占拠する動かない男の身体を、ジハールは靴先で突いて地面の上に落とした。分厚い靴底からはぐにゃりとした生肉以外、何の感触も伝わってこない。この男は、ヰニイの膝枕がどれほどの価値があるのか理解して死んだのだろうか? 脚に痛みを持つヰニイは他人に脚を触らせることがない。
つまり……つまり?
ヰニイの顔をした『何か』は幼い子供のように瞬きをするとジハールに向かって無邪気に両手を差し出した。
「服を脱げだなんて大胆なお誘いね。血の匂いで興奮したのなら我慢しなくても善いのよ?」
シルバーのウサギが微笑む愛らしいナイフと初めて見る白いワンピースを血で濡らしながら、仕方のない子と腕を絡めてくる存在に、ジハールは頭が痛くなった。
鉄錆の匂いに混じって感じる蠱惑的な香りはヰニイのためにオーダーメイドで調香された品だ。甘やかな
「ああいや、すぐ抱かせろとかそういう事じゃなくて。折角の白いお召し物がそれじゃあ生理用ナプキンみたいだって言ってんの」
言ってからジハールは無神経だったか、と自分の発言に対して自信をなくす。普段のヰニイならジハールの言葉に、あら本当とのんびり同意を返してくれるだろう。微笑みのおまけつきで。けれども今日のヰニイはジハールを見つめながら、ぼんやりしている。
服を撫でるように指を動かし、白いワンピースが更に赤色で汚れるのを不思議そうにヰニイは見つめた。
「……――あゝ、あゝ。ええ、そうね。何時もお洋服は――」
こてり、と首を傾げてからヰニイは唇をゆっくりと動かした。
「あら? 如何して居た、のかしら。此處は、ええっと、わたし、わたし」
迷夢に取り憑かれた声色が徐々に輪郭を取り戻し、夕焼けを帯びた瞳が現実を映しはじめる。
死体を見下ろした眸が恐怖に染まり咄嗟にジハールはヰニイの瞳を掌で隠した。
「あとは俺が上手くやっとくからさ」
「これ、わたしがやったの? そうでしょう? ジハール。ごめんなさい。おねがい、おねがい、嫌いにならないで」
ジハールの掌が、ヰニイの目から溢れた液体で濡れていく。
「なあ、ヰニイ。これ、何度目だ?」
白兎のように震える背中をさすりながらジハールは優しく告げる。
「覚えてないのか?」
びくり。白い背中が死にかけた魚のように痙攣してもジハールは柔らかな愛撫を続けている。
「別に悪いって責めてるわけじゃねーよ。俺だって殺しはやるし、死体の処分なんて専門職みたいなモンになりつつあるからな」
いっそ無邪気にも聞こえる聲でジハールはヰニイの耳元で囁く。真昼の様に明るく、深夜のように沈溺した声色。
「ただ、アンタのこの秘密を知ってるやつが俺の他もいるのかなって考えると、嫉妬で頭がおかしくなっちまいそうでさ」
ヰニイは笑った。泣きながら、嬉しそうに笑った。
「わたしのこと、きらいに、ならない?」
「ああ」
ジハールは応えた。
「当たり前だろ」
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夕闇の間違いを消す為に人間社会と別れを告げてから三時間。漆黒の山道を一台の車が走り抜けていく。
窓の外では深海とよく似た色彩が広がっている。弱々しい計器の色彩が灯る車内では時間や速度すら曖昧だ。
現世から隔絶された二人だけの世界。沈黙の蜜に酔いしれるようにうっそりと恋人たちは吐息を重ねる。
「ねえ。ジハール、どこへ連れて行ってくれるの?」
「JardimSecreto」
秘密の花園。そっけなくジハールは答えるが、それが作られた簡素さであることをヰニイはとうに知っている。その証拠にジハールはニヤリと白い歯をみせて笑っていた。
「庭の土をたがやして、夜と一緒に花に餌をやるんだよ。豊かな庭になりますよーにって」
赤薔薇の芳香に燻るガイアックウッドの重く心地良い香りに身を委ねながら、揺り籠で夢をみるようにヰニイは頷く。
フリージアにホワイトローズ。アンバーやバニラの花咲く二人だけの庭に花言葉を埋めるのだ。
「素敵ね。忘れられない夜になりそう」
「勿論、そうなる。アンタと、もう一人。それから俺の、初めての共同作業だからな」
ジハールは冷たい窓硝子に横顔を映しながら片手で運転をし続けている。その表情には夜霧のように幽かな微笑みが浮かんでいた。運転席と助手席。互いの体温を感じる距離。絡みつく指が棘のように互いの掌を食んでいる。
「どうせなら特別な場所にするか」
「ええ、二人の記念になるように」
上から下までお揃いの
“Feliz aniversário”
“ありがとう”
眞実の戀が欲しかった。
ずっとずっと欲しかった。
でも誰も呉れなかったの。
だから沈めたの。今迄はそうしてきたわ。
でも今は? わたしにはジハールが居るのに手に憑いた甘い薔薇の赤が甘美だったと思ってしまったの。
この殺意は誰のもの? わたし? それとも
「わたし、自分が正気なのか分からないの」
「誰だってそうだろ。この世の生き物は頭におかしなもん飼ってる」
BANGと空想の銃弾でジハールは己の菱脳を吹き飛ばす。
「ジハール。わたしの弱いところを全部もらってちょうだい。何を知られたって好い。どんなことをされたって善い。わたしを全部、あげたいの。そう言ったら、あなたには迷惑かしら」
「迷惑? んなことはありえねえ。アンタは俺のものだし、俺はアンタのものだ。俺たちの間に生と死が別つだなんて曖昧な決まり文句は当てはまりゃしねえし、アンタが死ねば俺も死ぬ。俺が死んだらアンタも死んでくれ」
「ええ、ええ。よろこんで」
頬を染めてヰニイは歓喜の渦に身を委ねた。ジハールの瞳は言葉よりも雄弁に、狂気混じりの愛をヰニイへ告げた。それが狂おしく愛しく思えた。
「死臭がうぜえ邪魔者を後ろに積んでなけりゃあ、今すぐアンタに手を出せたのに」
「駆け落ちをしているみたいでドキドキするわ」
「今なら出来るがどうしたい?」
今まで築いてきた人生を壊すかと、煙草を吸うような気軽な調子でジハールは問いかける。
このまま二人の事を誰も知らない場所で一から生活を始める。それは魅力的な誘いであったが、少し悩んでヰニイは首を振った。
「荷台に知らない人が乗ったままですもの。旅立ちは二人だけの日が良いわ」
「そうだな」
「それに、帰るのでしょう? あのお部屋に」
車の速度が落ちて行く。
墓場か、花園か。地獄へ至る路へと辿り着く。
ジハールは隣に座る彼女を改めて見た。
「よお、はじめまして」
「はじめまして。
「今度は俺からの質問だ。……アンタの名前は」
――ミニイ、とそれは応えた。
柔らかな土を踏みながら、二人で人間大の芋虫を引き摺り落とす。
「何時から氣づいてゐたの?
「疑問に思っていたのは結構前からだ。気のせいだと思って流してたンだが、こうも堂々と会話する日が来るとは」
「だって逢いたかったんだもん」
線香花火のような会話を交わして穴を掘る。地球の裏側まで届くように。彼の生まれた国へ贈り物を届けるように。
下半身を露出したまま蛙のように固まった男の残骸を埋めながら、鈴蘭の愛を囁く。
「この時間は別の穴を掘ってる予定だったんだが」
「二人で汗をかいて甘美な夜を共に過ごすのだから予定通り」
ラッピングをはがすようにシートから取り出せば、捻くれた手足が歪な形状で転がった。まるで真夏の車内に放置したチョコレヰトが意図せぬ再凝固を遂げたやうな有様だ。
胡桃のように顔を顰めたミニイの傍らでジハールは膝をつく。
「こいつァ、幾つかに分解しないと無理だな」
「切断するの?」
「アンタのあの細いスプーンみたいな刃じゃあ骨で曲がるぞ」
細波のようにミニイは嗤った。
「あらァ
完熟した音と共に頭蓋が飛んだ。まるでケヱキの一口目を切り分けるように死人の気道からどろりと粘液が溢れいけば、ヒュウと口笛が鳴る。
「代わる」
「心配?」
「ああ、いや。心配はしてねえんだ。ただ、こいつの汚えモンをこれ以上アンタの視界に入れたくねえってだけ」
彼女は緋色をまあるくして
「どうしてだ」
「なあに?」
「どうして今頃になって出てきた」
ジハールの凪いだ瞳にはミニイに対する好奇心も無ければ嫌悪も無い。どこまでもフラットな観察にミニイはぞくぞくと身を震わせた。
「
二輪の薔薇が示す意味は『世界に二人だけ』。
夜が正気を蝕んでいく。
真夜中の逢瀬、真夜中のドライブ。
生誕を祝しながら戀人達は秘密を埋める。
おまけSS『生命』
出逢いは突然。
四時間前のジハール・チャンドラはそこに自分以外の誰かが通り過ぎるなんて、あまつさえ足を止めてゴミに埋もれて眠る自分を拾う奇特な人間がこの世に存在するなんて夢にも思っていなかった。
思わなかっただけで起こってしまった。
しかも自分を拾ったのは犯罪とは縁も所縁も無さそうなお嬢様だ。
二日酔いでガンガンと悼む頭で直視するには眩しすぎる、純白のお嬢様。
四時間前のヰニイが其処に居たのは偶然だった。
現実は小説よりも奇なりとはよく言ったもので、雄大なゴミの波間に漂いながら昏々と眠り続ける青年を見つめながらヰニイは世界の真理にふれている。
運命の出逢いは存在するのか? 答えは勿論YESだ。だって其処に堕ちている。
嗅覚は麻痺していたがそれ以外の全神経が叫んでいる。
太陽を始めて見た日のような輝きが目の前に存在している。
彼が、そうだと。
黒髪が翻り、ううんと苦しそうな吐息を漏らした瞬間、ヰニイは浅黒い肌の青年に手を伸ばしていた。
「わたしの、王子様」
ヰニイの戀は大いなる海から始まる。
草の海だろうと、ゴミの海だろうと、人の海だろうと関係ない。
いつだって、海から始まるのだ。