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『偽り』のなき夜
登場人物一覧
「確かこの辺に……あったあった。まだぶかぶかかなぁ」
クローゼットから取り出した冒険者の服に袖を通してルアナはむうと唇を尖らせた。
それは自身が召喚時に着用していたものであり、喪った記憶の欠片として大事に大事に仕舞いこんでいたものだった。傍らにいるグレイシアが庇護者として傍に居て呉れる事もあって当面、不安は存在していないのだが――
(ルアナだって大人だったんだ……)
小さな小さな子供として接される事もあり、ルアナは早く大きくなりたいのだと服を着用した儘、姿見の前に立って更に頬を膨らませた。
「やっぱりだいぶ大きい……。
ああもう! 一瞬で育たないかな! 『おおきくなーれー!』」
魔法使いのように。指先を天へ翳して一つ叫んだ。きらりと紅の瞳に宿りし光の色が変貌し、ルアナの姿は着用した衣服に似合う女性の体に変化していく。
「えっ――え!? えええええっ!?」
腹の奥深くから飛び出したかのような叫び声。慌て、喉奥から引きつった声が「ひえ」と漏れ出した。
その叫び声を聞きつけて、扉を開く音がする。庇護者たるグレイシアが駆け付けた事に気づいたのは彼の姿が姿見に映り込んだからだ。
……目を見開いたグレイシア。それが『自分自身を見て』の事だとルアナも気づく。
へにゃり、と気まずそうに笑って、ルアナは「おじさま」と彼を呼んだ。
「ねえ、見て、わたし、大きくなっちゃった!」
「――――はぁ」
その溜息の意味は分からない。グレイシアは大人びた姿に変化したルアナを見てどうした事か理解できなかった。
それはルアナも同じだが、こうしてこの世界で姿が変わったという事は神の悪戯であるか、彼女の姿が大人に変化する贈物(ギフト)を世界が授けたという事になる。
「おじさま、ど、どう?」
「……ああ、とても驚いた」
「そ、そうじゃなくって!」
可愛いとか、綺麗だとか、そういう『可愛らしい子供じみた』感想を求めてくるルアナにグレイシアは困惑を浮かべた儘、咳払いをして食事の準備ができているとルアナを食堂へと誘った。
手足が長く、可動域も広く、視界だって高い。そうした世界を喜んで食事をとって入浴を済ませば脱衣所にはグレイシアの寝間着が置いてある。ルアナは「おじさまが大きくなったわたしの為にパジャマを用意してくれたんだ!」と幼い感想に胸を躍らせた。
「おじさま! おやすみなさい!」
「……ああ」
どうしてグレイシアがあんなにも反応が微妙であるかをルアナは分からない。きっと、自分が余りに綺麗に成長したから驚いたのだと心を躍らせた儘、ベッドに潜り込んだ。
―――
――
夜更け、ぎいと扉を開いたのは長い金の髪を揺らした女であった。手にはキッチンで使用される包丁。
夢遊病者を思わせる足取りはふらり、ふらりと真直ぐにグレイシアのベッドに向かっている。
長い髪が男の頬を撫で、馬乗りになった女――28歳のルアナ・テルフォードはその刃を一気に突き立てようとし――
「ルアナ」
「……貴方がその名前で呼ばないで」
苛立ったように吐き捨てたルアナにグレイシアはその女の赤い瞳に宿された光の色味が変化していることに気づく。
「記憶が……いや、吾輩を魔王だと理解したのか……?」
馬乗りのルアナを見上げたグレイシアは困惑を浮かべた儘、彼女の能面の様に白い肌を眺めた。女の姿は遠巻きに見た勇者と同じだ。しかし、その瞳に宿された困惑は今までに見た事もない者だった。
「どうして――」
月光がその金の髪を照らしている。美しい女でありながら、魔王を殺す宿命を背負った乙女。
それが勇者ルアナ・テルフォードーーグレイシアを殺す勇者。
その彼女が『宿敵』を見下ろして困惑しているのだ。
「どうして……貴方は『あの子』を殺さずに傍に置いているの……?」
その言葉にグレイシアは記憶が戻ったのか、と再度、確かめる様に――いや、その言葉には確信が込められていたのかもしれない。
「どうして――!」
吐き出す様にそう言ったルアナの手から包丁が滑り落ちていく。絡めとる様にしてルアナをじいと見たグレイシアは月光の下の『本来の勇者』をじっと見た。
「自分の使命を、そしてすべての事を理解しているのか」
その言葉に何も答える事無くルアナは崩れ落ちていく。
大人の姿で、今までの出来事全てを把握し、幼い自分が彼を慕っている事も理解した『本来の勇者』は意識を刈り取られた様に伏しただけだった。
「さて、どうしたものか……」
女の体を受け止めて、グレイシアは小さく呟いた。月光が照らした女の顔は余りにも色が白く血の気が引いている。
その言葉は闇に溶け――
小鳥のさえずりが聞こえる。ぱちり、と目を覚ましたルアナはぶかぶかとした寝間着に身を包んだ儘ごしごしと目を擦った。
幼い姿に戻った少女は余りに大きな衣服を着て居た事で昨日は大人になっていたのだ、と咄嗟に思いだす。
せっせと朝の身支度を整えて、急ぎ寝間着を畳んでグレイシアの姿を探す。
「おじさまー?」
どこだろう、と歩き回ればキッチンより微かな物音が聞こえた。寝覚めにはカフェオレを入れてくれるのが最近の冬の朝だ。きっと、カフェオレを用意してくれているのだろうと心を躍らせてキッチンの扉を開いたルアナは「おじさま!」といつも通りの笑みを浮かべた。
「おはよう、おじさま! 見て! 起きたら元に戻ってた!」
にんまりと何も知らない顔をしてそう言ったルアナを見遣って、伺う様にグレイシアは「昨晩はよく眠れただろうか」と彼女を伺った。結上げた金の髪を揺らして首を傾いだルアナは「うん!」と大きく頷いた。
昨日は倒れたルアナの体を抱えて、何事もなかったようにベッドに戻したグレイシアにとって、ルアナが『本来の勇者』としての意識を持った儘、朝を迎えるのではないかという不安が首を擡げていたのだ。
「ええっと……たしかおじさまの服を借りておやすみなさいしたよね?
んで、目が覚めたら戻ってたよ。よくねたー! ふぁぁ……ちょっぴり残念かも……」
「寝る事で何かがリセットされたのやもしれんな」
じい、とルアナの一挙手一投足を見遣るグレイシアにルアナは気付かぬ儘に自身の体を見下ろしている。
大人になった自分は素敵で、とても嬉しかったのだ。けれど、起きたら元の通り。
グレイシアの云う通り『リセット』されたのだと認識したルアナは彼の気など知らぬ儘で「また大人の姿になれるかなぁ」とぼんやりと考え続けている。
「理由はわからぬが、一度なったという結果がある以上、今後も大人になる可能性は充分にありそうだ」
「ほんとー?」
「……ああ」
大人になった自分がとてもとても素敵で。だからこそ、なりたいのだと無垢な笑顔で笑ったルアナにグレイシアは曖昧な表情を浮かべるだけだった。
あの月の夜に見たルアナ。自身に向けて刃を向けていた『本来の勇者』――彼女は、彼が庇護するルアナではないのだろう。
(……ひとまず脅威は感じなくなった、か。今の所は問題は無くなったようだな……)
何も知らない小さな子供として接していた今までとはまた違う。勇者の顔を覗かせた『脅威』としても見なければならないのだ。
グレイシアのその視線の意味が変わった事にルアナは気付かぬ儘、何かを思い出したようにグレイシアを満面の笑みで見遣る。
「おじさま、思いだしたの。あのね、あの時はわたし、『大きくなーれ!』って念じたんだ。
だから、もしかしたら――『大きくなーれ!』」
念じて、その思いを爆発させるようにしてルアナの姿は変貌する。その瞳に違う色を乗せて、姿を変えた彼女にグレイシアはルアナが所有するギフトが外見操作をする者なのだろうと推測した。
ただし、姿を変貌させるだけであり、精神性は幼い少女の儘というのが世界の皮肉か。そもそも、記憶に関しては何らかの理由で蓋をされただけで彼女にどうすることもできないのではないかとグレイシアは考える。
ああ、そう考えても意味がないのだ。
この関係性こそ『偽り』だ。幼い少女に花冠を乗せ慈しむこの日々こそ偽善の上で成り立って居る。
月光の下で一瞬だけ現れた『大人』であり『本来の』ルアナ・テルフォード。
彼女は何時、その姿を現すか。
――どうして。
そうして向けられた鋭利なナイフ。
本来は殺し合う事になる定めの上で存在している。
ルアナはグレイシアを殺すため、グレイシアはルアナに殺されるためにその命を繋いでいるのだ。
何時かの日、勇者に殺される事を知っている魔王はその時が何時になるのかと平穏な顔をして笑った少女を見下ろした。
「おじさま?」
「……いや。パンはちゃんと噛む様に」
「ふふ、ルアナ。子供じゃないよ」
この偽りの微温湯に慣れるだけでは、もう駄目なのだ。