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信頼の鍵
登場人物一覧
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――その日は雨が降っていた。
窓に滴る雫を、瞳が覚えている。
瞼を閉じても――覚えているんだ。
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ハリエットとギルオスは外に出かけていた。
今日もまた、目指すべき情報屋としての道を歩むべく――だ。
外に出向きて情報収集。首尾よく進んで後は帰還するのみ……と。
まぁそこまでは良かったのだが、しかし。
「わっ」
ハリエットがそんな声を零した――それは彼女の鼻先を雨粒が掠めたから。
数秒後には連続する音鳴りがすぐ近くへと。土砂降りの雨、だ。
――濡れる。二人して近くの空き家の軒先に隠れるものだが、横殴りの形の雨であれば左程大きな意味はない。紡がれる雨の飛沫がハリエットの服を更に水浸しにするもの――あぁどうしようか。ローレットは遠く、ハリエットの家もまた遠い。
どこかの喫茶店にでも入る? いやそれにしたってずぶ濡れだ。
こんな状態ではお店を汚してしまう――
そもそも濡れた髪と服を乾かさなければ風邪も引いてしまう、などと考えていれば。
「ああ――此処からだと僕の家が近いな。来るかい?」
「えっ……お邪魔しても、いいの?」
「ああ構わないよ。ここ最近忙しくてちょっと部屋は散らかってるけどね、ははは」
ギルオスから、とんでもない事を言われた。
――いや、彼からすればそれは然して特別な事ではなかったのかもしれない。
あっけらかんと。思い出したかのように言を紡いだギルオスにとっては。
でもハリエットにとっては違う。
誘われた事など今までなかった、これが初めてだ。
そもそも。誰かの家に入れてもらうだなんて。
……駆け抜ける。どうせ濡れてしまうのならと、遠慮せずに。
ギルオスがハリエットの手を引いて。暫く路地を抜けていれば――ほら。
「此処だよ、さぁ入って入って」
本当にギルオスの家に、到着した。
誘われる様に扉が開かれれば――あちらこちらに紙だらけ。これは情報屋としての資料だろうか? 大きな樽の中に、幾つも丸まって入れられた大きなモノは地図か。幻想の片田舎や鉄帝の山奥、天義の街などの地形情報が刻まれている……
興味深げに眺めるハリエット。ちょっと指先を伸ばして、しかし引っ込める。
流石に見たり触ったりして配置がズレたりしてはいけないと……
「さぁとりあえずこのタオルで体を拭いて。
――あと、服も変えた方がいいかな。ええと……僕の代えのシャツでいいかい?
とりあえずこっちの部屋で着替えてて。温かい飲み物もいれるから」
「う、うん。ありがとう。ちょっと寒いなって思ったから、助かっ……くしゅん」
「わわ。やっぱり濡れると身体によくないね、すぐにお湯を沸かすからね」
とにかく、と。ギルオスから手渡されたのは大きなタオルだ。それと、着替えも。
――ハリエットには少し大きいシャツだ。
だけど濡れたままの服でいる訳にはいかないと、彼女を一室に案内してギルオスは外へ。
刹那。ハリエットの嗅覚に香りが感じられる――ギルオスのコートと似た香りだ。
なんとなく落ち着く。
濡れた髪をタオルで拭いて、着替えを身に付けようか。
「……流石にちょっと大きい、ね」
分かってはいた事だけれども、口に出してしまう。
身に纏って鏡の前で腕を広げてみれば――微かに手が出ないか。
だけれどもこの場凌ぎとしては問題なさそうだ。
高まる胸の鼓動。走って来たからかな、なんて心を落ち着かせんとしつつ……ギルオスが待っているであろう部屋へ。扉を開けば――珈琲の香りが漂ってこようか。
擽られる。己が嗅覚が、どこまでも。
「あぁ着る事は出来たかい? 大き過ぎたらどうしようかと思ってたんだけど。
あ。はい、これもお待たせ。ちょっと熱いかもしれないからゆっくりと飲んでね」
「うん、ありがとう。
……それにしてもギルオスさんのお家って、こんな感じだったんだね。
なんだかローレットの仕事部屋と変わらない様な……」
「そうかな――いや、そうかもね。どっちも仕事の資料置き場みたいなものだからなぁ……」
と。少しばかり落ち着けば、ハリエットは改めて周囲を見渡してみるものだ。
初めて来たギルオスの自宅。幻想王国の住宅街に存在する、そう特別ではない普遍的な……小さな家、だ。幾つかの部屋があり、ハリエットが見えた範囲では寝室や居間、作業部屋があろうか。
先程も述べた様にあちらこちらに資料が散乱しているのが目立つが……なんとなしローレットでのギルオスの仕事場の雰囲気に似ている、と思うものだ。彼にとっては何処にいようが皆の為にと常に動いているからかもしれない――
変わらないな、と思う反面気の休まる一時がギルオスにあるのだろうか。
ハリエットの心中の片隅に斯様な心も生まれるものだ――が。
「――うん? どうしたんだい、僕の顔を見て」
「ううん、なんていうか、その……人さまのお家に入れて貰ったの、はじめてだったから」
ギルオスと視線と言を交わせば、また別の事を思い浮かべようか。
彼女は……かつての世界においてストリート・チルドレンだった。
誰かの家に招かれる経験などありはしない。いつだって窓の外から眺めるだけだった。
だから、窓の『内』側から眺める事があるだなんて――
「思ってもいなかったな」
「なぁに。これからきっと沢山あるよ――なんなら僕の家にはいつでも来てくれていい。大体ローレットの方にいる事が多いだろうから、僕は留守がちだけどね」
「えっ――」
「今日みたいに雨に降られたら避難しにきなよ。鍵なら……えぇとどこにあったかな」
そう言って合鍵を探し始めるギルオス――
一方でハリエットは本当にいいのかとやや動揺するものだ。
人様の家に入ったのも初めてなのに、いつでも入れる様に鍵まで?
(いい、のかな。本当に)
両手で抱く珈琲のカップから、暖かさが指に伝わってくる――
耽る思考。ハリエットからすれば急なる事態に慌てている、と言った所か。
――いつでも来ていいの?
ハリエットにとって家とは……ある意味、特別な意味を持つ。
先の通り、ストリート・チルドレンであったが故にこそ。
立ち入れぬ領域。己とは縁がない領域。『そういうモノ』だと思っていたのに――
「はいこれ、合鍵。無くさない様には気を付けておいてね」
「う、うん――」
こうもあっさりと手に入っていいのだろうか。
どこか夢の様な。どこか浮つく様な気持ちが胸に広がる。
まじまじ見据える一つの鍵。無くさない様に、強く、指で握りしめれば。
「ありがとう。絶対、また来るね」
「ははは、そんなに緊張しなくてもいいよ。
とにかく今はまだ雨が降ってるし――暫くゆっくりしていくと良い。
僕も偶にはローレットに戻らずに、此処で過ごすのもいいかな」
「そうだよ。ギルオスさんもゆっくりしないとね」
言を交わそう。暖かな部屋で、温かな心と共に。
外は未だ雨の音が存在感を露わとしている。
(……もうほんの少しだけ)
だから、微かに願うものだ。
もう少しだけ雨が降ってほしいと。もう少しだけ此処にいさせてほしいと……
……暫くすれば、ハリエットの瞼が閉じ始めるものだ。
雨で冷えた身体に、ふわふわなタオル。それに暖かい飲み物。
それらで一度冷えた体を暖めた反動だろうか。それとも胸の奥まで温まったからだろうか。
ぼんやりと、彼女の意識が和らぎ舟を漕ぎ――
果てに。ギルオスの肩へと寄りかかってしまおうか。
「……おやすみ。ゆっくりと、良い夢を」
であればギルオスも拒みはしない。
窓を打つ雨の音。時計の針が動く音。
それらが調和し、ゆったりとした時が――此処に流れている。
……あまりなかったものだ。自宅に人を招く事など。
そもそも己は大体がローレットにいる。
ギルオスにとって自宅とはほとんど資料の保管庫の様なモノという認識だ。『誰かの平穏の為に』動く彼にとって自宅はあまりプライベートな空間と言う訳でもない――が。それでも余人を入れる事など滅多になかった。
ここに置いてある資料などはそれこそ、依頼に赴くイレギュラーズ達の為の情報を纏めている場所でもあるのだから。
例え近しい者であったとしても本能的に誰かを招くという行為は取らぬのだ。
だから――自宅に彼女を招かんという選択肢が自然に出てきた事は、自身でも驚きであった。あまりに自然に口から零れていたが故に、斯様な提案をしたのに気付いたのは――先程珈琲の用意をしている時である程に。
自分でも思っていない程に、彼女の事を『近く』に想っているのかもしれない。
渡した鍵は、信頼の証。
閉ざす扉はないとする証でもあるのかもしれない……
「ふぅ」
零す吐息。あぁこんな感覚など一体どれ程振りだろうか。
……彼女の頭を、撫ぜるものだ。
起こさぬ様に。その安らぎに、祝福を与える様に……
さすれば己が心の水面も――穏やかに在り続けるものだから。
……そうしていれば己もやや瞼が重くなり始める。
ハリエットはギルオスの肩を。ギルオスはハリエットの頭へと。
寄りかかる様に――過ごすものであった。
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……目が覚めたら、雨は上がっていた。
窓打つ雨はもうなかった。代わりに見えるは時流れた跡のみで。
晴れやかな空が、其処にあったんだ。
だけどきっと忘れない。
――その日は雨が降っていた。
窓に滴る雫を、瞳が覚えている。
瞼を閉じても――覚えているんだ。
あの日。頭を撫ぜてくれた感触があった事を。
そしてその手に。一つの鍵が握られている事を……