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更待月のカフヱースタアライト
登場人物一覧
■あの日の月も白かった
ワアワアと騒ぎ立てる群衆を縫い、青年は真新しいニスが塗られた扉を開けた。
外の喧騒から切り取られた心地よい静けさに息を吐き、珈琲の香りが染み付いた空気を吸い込む。
「こんばんは、隣いいかな?」
『女王忠節』秋宮・史之(p3p002233)。<高襟血風録>の世界に降り立った彼は、赤い瞳を柔和に細めながらカフヱー・スタアライトのカウンターに座った女に声をかけた。千鳥紋の羽織に袴姿の編み上げブーツ。ヱリカである。
「秋宮殿」
「よかった。覚えててくれたんだ」
「恩人の名を忘れるものか。さっ、此方に」
ヱリカが恭しく椅子を引いて示した席に史之は腰をかけ、飲み物の注文をする。
選んだのは空の月を映す丸いチーズ入りの珈琲。ふわりと、香ばしくも華やかな薫りとそれに絡まるふくよかで甘やかなミルクの香が鼻腔に満ちる。
「捨さんとおコウちゃんの件ではお世話になったね。
あのふたり、あれからどうなったんだろう。すこし心配なんだ」
「捨は……我の知人の家で雇われておる。
アレの気性は穏やかであるし、腕っ節も強いので重宝されておるようだ。
おコウはな、やはり床につく事が多いがなんとかやっておる。
長屋の奥方が世話好きな方で捨がいない間もなにかと面倒を見てくださると言っておった」
そこまで聞くと、史之は胸に手を当てて安堵の息を漏らした。
思い出すのは白き雌狼との戦い。二つの親心が激突したあの戦いの中で、自らは子々雌を親に還すという選択をなした。それは逆説的にコウに万病の妙薬である子々雌の肝を渡さない、という事だ。
当たり前の話ではある。荒れ狂う王牙新継狗を宥めるにはそうする他ないし、ヌシ……自然や環境といった大きな枠組みで見れば高々十になったかならぬかの小娘の命などちっぽけなものだろう。
しかし、史之はそちらにも手を伸ばしたがった。
「そっか、元気でやってるんだね。よかった。俺の懐も寂しくならずに済んだし」
「貴殿、もしやと思うが……」
「えへへ、そうなんだ、俺、持ち合わせを全部渡そうとしちゃってさ」
あの時、史之はコウの栄養状態の悪さを見抜き、それの解決方法として金子という実に即物的で、しかし理にかなった解決方法を提示した。
それ自体は、捨三郎の辞退とヱリカの取りなしがあって実現することはなかったが……それが史之の人の良さというものなのだろう。そうでなくては、見ず知らずの相手に突然、有り金全てを渡すなどという判断ができようはずもない。
「なんだかなあ。困ってる人を見ると、つい、ね」
危うさすら感じる善良性に眉を寄せるヱリカの顔に困ったように史之は頬を掻いて曖昧に笑った。
今日の月は更待月らしい。ころころとふくよかな紡錘型に溶けたチーズが珈琲カップの中にぽっかりと浮かんでいる。
■北の月もまた白く
話し込めば夜も更ける。時が経てば瞼の重さも嵩が増す。
「珈琲を飲むと目が覚めるって聞いたけど、ほんとなのかなあ。でもこの溶けたチーズはおいしいね」
銀匙で切り分けた月を口に含めば、温められたチーズの甘さと少しの塩気がとろりと溶ける。だが、それも史之の頭を覚醒させる要因にはなり得ない。
「うむ、甘いし……なにより体が温まるのが良い」
「最近特に寒いもんね」
「我の故郷に比べればまだ暖かいと感じるほどよ。……少し我等の事を話してやろうか」
両手で珈琲を抱えうつらうつらする史之の様子にヱリカの口調は子供に対するもののように柔らかく変化する。
ふえ、と意外そうに鳴いた史之の頭を撫ぜ……。
「我等は北の民でな。防寒のために高い襟の服を着ていたためハイカラと呼ばれるようになったのよ。
古くは雪女とも呼ばれたらしいが……ふふふ、今はその事はどうでもよかろう」
黒い瞳に憧憬と懐古を乗せてヱリカは口の端を持ち上げた。微笑みとは少し違う、珈琲のように華やぎのある気配を纏いつつも根底にあるのは苦さだ。
「我は北も北のどん詰まり。春鳴をとめ女学院の出でな。それは寒い場所であった。
年中雪は溶けず、「春鳴き」ではなく「春無き」とはよく言ったものよ。
何もない代わりに、皆、人は良かったが……」
「ヱリカさんはそこに帰りたいの?」
その声の中に含まれる悔恨を目敏く見つけた史之が尋ねる。
「いや。……いつかは帰るがそれは今ではない」
細雪のように白いヱリカの指先がカウンターを撫でた。迷い、否、躊躇いか。
細められた黒い瞳は史之という存在を通して何処か違うものを見ている、その様に感じた。
「この世には我がまだ見たことのないもの、見てみたいものが多くある。
南の鮮やかな染物も見ていないし、神宮参りも終えておらぬ……」
「そっかぁ。俺はヱリカさんのやりたい事応援するよ。
俺、ヱリカさんみたいな人、好きなんだよね」
ぱちり、とヱリカの瞳が瞬いた。
背筋がむず痒くなるような沈黙が満ちて、史之はこてりと首を傾げ……は、と息を吐きだした。
「あ、いや、変な意味じゃなくって、支えたいとか、応援したいとか、そんな感じ。
……一本筋が通ってて、強い女性って魅力的だよね。無条件でがんばれってしたくなる」
史之はわたわたと手を振り、ヱリカはその様子に小さく笑い声を溢す。
「よい、よい、分かっているとも」
「良かった……」
「ふふふ、なんとも面映い事ではあるがな。
なにしろ貴殿等は我々にとって救世主にも等しい方々故」
「そうかなぁ……」
そうだとも、と大きく頷くヱリカに首を傾げる史之。
人の為にという意識の強い彼にとって、すでに救われているという言葉は実感の湧かないものであるし、「救世主」などという大それた代名詞など言うまでもない。
しかし、ヱリカは史之がそうであると一片の疑念もない……まるで
僅かな引っ掛かりごと飲み干すように史之は残りの珈琲を飲み干した。
「ふう、名残惜しいけどまたね。本格的に眠くなってきちゃった。
マスター、チェックお願い。ヱリカさんの分も」
「秋宮殿」
ヱリカから咎めるような声が飛ぶが、史之がにっこり笑ってウインクを返す。これではヱリカが無理に止めてしまうのも無粋である。
「……今度、茶の一つでも奢らせて頂こう」
「楽しみにしてるね」
また今度。
そう言葉を交わし合い、史之は扉を潜り未だ明るい夜の街へと帰っていく。
暗雲の向こう、確かに浮かんでいるはずの更待月は見えなかった。