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繋いだ手に
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ボウルの中でゆっくりと混ぜられているのは、茶色く艶々としたチョコレート。リコリスがへらを動かすたびに波を描くそれが、ジョシュアの鼻に甘い香りを届ける。
「良い香りですね」
「そうね。少し味見してみましょうか」
小さな匙でチョコレートをすくうと、とろりとした液体が垂れる。溢さないようにそっと口に運ぶと、まろやかな甘みが舌に絡んだ。
「美味しい」
「ジョシュ君が持ってきてくれたカカオ、すごく良いものだったわね」
カカオからチョコレートを作るのは、リコリスも初めてだったようだ。だけど「ジョシュ君が手に入れてきたものだから」と言って、楽しそうに作り方を調べていた。
二人でレシピとにらめっこしながら作ったチョコレートだ。カカオが上質なのも勿論あるけれど、美味しさの理由はそれだけではない。
「それじゃ、ブラウニーを作りましょうか」
頷いて、今度は別のレシピを取り出す。リコリスが貸してくれたレシピの本は、ところどころに折り目があったり書き込みがあったりして、よく使いこんでいるのだと分かる。リコリスの作るお菓子の美味しさのわけを知ることができた気がして、頬が緩んだ。
きっと、誕生日のお祝いのケーキを作ってくれたときも、こうして練習してくれていたのだろう。そう思うと、あの日からずっとほわほわしている気持ちが、また膨らんでいくようだった。
「頑張ります」
そう呟けば、リコリスがそっと微笑んだ。
「ブラウニーはそんなに難しくないから。楽しく作りましょ」
まずは薄力粉とココアを合わせて、さらさらになるようにふるう。
夢の中でならお菓子を作ったことがあるけれど、現実では作ったことはない。だけどお菓子も薬みたいに、リコリスの手が加えられると綺麗に変化するから、すごいと思っている。
「チョコレートとバターを混ぜて――」
リコリスに教わりながら、丁寧に、丁寧に、作業を進める。おいしくなあれ、おいしくなあれ。そう心を込めながら、一つひとつの材料を混ぜ合わせていく。
こうしてお菓子を作っていると、一緒にお菓子屋さんをしている夢を見たことを思い出す。あの夢では自分たちは街の中に馴染んでいて、誰かに疎まれることもなく、穏やかに過ごせていた。そういう、皆が優しい幸せの形には、憧れる。
「どうしたの?」
「いえ。前に見た夢のことを思い出しまして」
どんな夢なのと彼女が尋ねる。リコリスとの夢を本人に話すのはなかなか恥ずかしいけれど、彼女になら良いと思った。
「黒猫の看板が目印のお店で、二人でお菓子を作っている夢でした」
可愛らしい色のマカロンや、甘い香りのするアップルパイ。食べた人が思わず笑顔になるようなお菓子を、心の優しい人たちが喜んで食べてくれる。そんな優しい夢だった。
夢の話を思い出すと心が温かくなるけれど、夢は夢だ。現実はそうもいかない。ただ、リコリスがそんな穏やかな話を嬉しそうに聞いてくれて、「本当にそうなったらいいわね」なんて笑ってくれるから、現実に近づけてあげたいと思うのだ。あんな風にはできないかもしれないけれど、彼女の幸せのためにできることをしたいと、心から思う。
「薄力粉も綺麗に混ざったわね。そろそろ型に入れましょうか」
リコリス様が幸せになれますように。そう願いを込めて、最後のひと混ぜ。型に入れて、予め熱しておいたオーブンで加熱する。待っている間は「今なら遊んでくれるかな」と尻尾を振っていたカネルと遊んで、時折オーブンの様子を見ながら、リコリスとお喋りをして過ごした。
焼き上がったブラウニーをオーブンから取り出すと、香ばしく甘い香りが漂った。リコリスと自然と目が合って、美味しそうと微笑み合う。
ブラウニーを型から外し、冷めてから四角く切る。これでチョコレート作りから始めたブラウニーの完成。苺の香りのする紅茶を淹れて、お茶会の始まりだ。
リコリスと一緒にお菓子を作ったのも、ジョシュアのお菓子を食べてもらうのも初めてだ。美味しくできているだろうかとどきどきするけれど、一緒に作ったのはリコリスだ。うまくいっているはずだ。
「食べましょうか」
頷いて、まず紅茶に口をつける。それからフォークをブラウニーにさした。頬が赤くなるのを感じる。
「美味しい」
先に呟いたのはリコリスだった。見れば彼女の頬も赤く色づいていて、その瞳がきらきらと輝いた。
「良かったです、うまくできて」
「ジョシュ君、器用だもの。美味しく作れるって思っていたわ」
そう微笑まれると照れ臭くて、勧められるがままブラウニーを口に運ぶ。噛むとしっとりとした生地が口の中でほどけて、チョコレートの香りが広がった。甘過ぎず苦すぎない味わいで、もう一口と食べたくなる。
「おいしい」
人のために作ったお菓子は、自分のために作ってくれたお菓子と、また違う味わいがあった。リコリスが作ってくれたお菓子は、優しい気持ちのこもった味がするけれど、自分が作ったものは、いくつもの願いが込められたような味がする。
「リコリス様が教えてくれたおかげです」
お菓子を飲みこむと、自然と言葉が零れた。リコリスが照れて謙遜しようとするのが想像つくけれど、この気持ちを受け取ってほしいと思う。
「リコリス様には、いつもいろいろなことを教えてもらっていて」
薬の作り方を教えてくれたことも。もう独りではないのだと感じさせてくれたことも。彼女には多くのことを教えられて、与えられている。それがジョシュアの心を温めて、明るくさせているのだ。
「本当に、いつもありがとうございます」
今日はグラオ・クローネ。リコリスの住むこの世界ではバレンタイン。この日は日頃の感謝を伝える日だという。だから、普段から伝えている気持ちも、伝えるには照れ臭い気持ちも、言葉にする。
「リコリス様に出会えてよかったです」
微笑むと、リコリスがふっと表情を崩した。泣き出しそうにも見えるその様子が、彼女も同じ気持ちであることを教えてくれる。
「ジョシュ君のおかげで、毎日がきらきらしているの」
ひとり寂しく過ごす日常から、明るく煌めきのある日々へ。その変化はきっと、彼女にとっても大切なことだったのだろう。ありがとう、と微笑むリコリスの声が優しくて、耳に心地良かった。
「あの、手を」
握っても良いですか。呟いた声は案外小さくて、彼女に聞こえたか不安になった。同じことを聞くための勇気はもう残っていなくて、そっと彼女を見上げると、唇がゆっくりと弧を描いていたところだった。
差し出された手。ほんのわずかに躊躇って、それから静かにこちらも手を伸ばす。触れあった箇所からリコリスの体温が伝わってきて、一瞬、心臓がどきりと音を立てた。人の手は温かいのだと、思い出したような気がした。
「ジョシュ君の手、温かいわ」
こちらも温かく感じていると言えば、彼女は何て返すのだろう。そんなことを想像して、思わず頬が緩んだ。
いつもの感謝。これからも共に過ごしたいという願い。彼女が穏やかに過ごせますようにという祈り。そういった気持ちを一つずつ思い浮かべながら彼女の手を握ると、気持ちがより伝わるように思えた。
「これからもよろしくね」
繋いだ手の温もりの中に、これから先の未来の優しさを感じた。