SS詳細
瑠璃色のモルモランド
登場人物一覧
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――過ちに遭遇した時。人は二つの道が与えられる。
いずれに歩むかは、その者次第。
道は逃げぬ。立ち止まるのは、いつだって人だけだ。
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幻想王国。平穏な風が頬を撫ぜる日……
ガブリエル・ロウ・バルツァーレクはクォーツ修道院を訪れていた。
『偶然』近くの街の視察に訪れた為である。そう偶然である。
偶然来てしまったからには修道院に寄る事があってもおかしくはあるまい――?
……実際どうなのかはまぁ細かい事だとして。ガブリエルは修道院の扉の前でノックの手を迷わせていた――来たは良いのだが、如何なる顔をしてこの戸を叩けばよいのだろうか。未だ伯爵は『彼女』に対して行ってしまった『あの日』が胸の内にある。
もしも――この扉が開いた先に彼女がいて――
もしも――その顔を歪ませてしまったら――
焦燥。脳裏に過る微かな未来が一歩を踏み留まらせる。
あぁそれが彼に備わりし元来の気質の一端でもあるのだろうが……と、その時。
「あ、伯爵様だー!」
「わー本当だ! 伯爵様よ! リアー! 伯爵様よー!!」
「おや。貴方達は……修道院の子たちですね」
扉の前で逡巡するガブリエル。その様子を近くの窓から顔を出すようにしながら気付いたのは――修道院に属する子供達であった。そして元気よく伯爵を迎えにと走って来たのは、たしか。
「ファラさん、でしたね。ええと、その」
「伯爵様が来てくれて良かったわ!
ここ最近ね、リアはずっと元気無かったけど、伯爵様に会えばきっと元気になるわ!」
「――元気が無かったんですか?」
「うん! ずーっと寝てた日とかもあったわ!」
ファラ。にこやかな笑顔を向ける子だ。
……けれど、そんなファラの口から聞こえてきた言葉に伯爵の胸が痛む。
もしや。元気がないという事の経緯は……
今日も『そう』なのではないか? だからリアではなくファラが対応して……?
「……そうですか。でしたら今日はお暇させて頂き、また今度……」
「いいのよ伯爵様! だって、リアったら伯爵様からのお手紙ずっと大切にしているんだから! 伯爵様が直接会ったら、元気いっぱいになるに決まってるんだから! リアー! どうしたのー! 伯爵様が来てるわよー!」
此処に至っても思い悩むガブリエル――だったが。
ファラはそんな伯爵の手を引いて修道院の中へと誘うものだ。大きな声を、出しながら。
リア。リア。リア――
ガブリエルの耳に木霊するその言葉。聞こえる度に心臓の鼓動が跳ねる。
会っていいのか? 大丈夫なのか?
躊躇と、しかし期待が入り交ざりファラの手を振り払う事はない。
導かれる様に修道院へとガブリエルの歩は進み。
――やがてファラは盛大にノックする。ある部屋の扉を、だ。
其処はリアの部屋。彼女の眠る部屋――
「もー! お寝坊さんなんだから! リーアー! 早く起きて! えいっ!!」
「ん……なによ、ファラ、うるさいわね……今日はちょっ……と……?」
が。それでも彼女は目覚めが悪かったのか出迎えない。
だからファラは強行突入した。鍵は掛かっていないのだ。
荒々しく開いてファラは往く。横になり寝ているリアのシーツに、手を掛けて。
一気に剥ぎ取った。
然らば、そこにあったのは……
「……んっ……ぁ、お客様……? んっ……??」
「――あ。その。リアさん。これはですね誤解しないでください、不可抗力で――ッ!」
――一糸まとわぬ、リア・クォーツの姿であった。
肢体が目に映る。即座に目を逸らした伯爵だが、刹那の出来事は確かに刻まれた。
白く、美しい肌。陽光に照らされる至宝が其処に――
彼女が何も身に纏っていないのは偶然ではなく彼女の常であるからだ。ファラ達家族にとってはリアの普通であるが故に特に気にもしていなかった、のだが。それがまさかこんな災いを、或いは天運を生もうとは!
寝ぼけていたリア。なんか伯爵の旋律が聴こえる気がするがそんな訳が無い。
そうだそんな訳はない。これは気のせいだ気のせい気のせいだが、気のせいな筈がないいいいい!
――睡魔は超速の彼方に吹き飛ぼう。
意識は覚醒。何故伯爵が此処に、という疑問はしかし。
自らの肌を完全に晒している状況を把握すれば塗り潰される。
狼狽えている伯爵。固まっているリア。
紡がれる言葉はファラにとっては目を輝かせて見守るモノであり――
「何も見ていません。何も見ていませんから、どうか信じ――」
「リア、リア! 知ってるわこれっていわゆるラッキ」
「いいから! とっとと!! 出ていけ――ッ!!!」
――ようやく喉の奥から声を絞り出したリアが一喝したのであった。
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時が流れる。流れるといっても、まぁそう長い時間ではないが。
リアはしっかりといつもの服装に着替えれば『リア、どこ行くの!? デート、デート!?』などとのたまうファラを、しっしっ! と指で払った後に歩を進める。修道院近くにある湖の湖畔へと――だ。
傍にはガブリエルの姿もあろうか。一方で先程までやかましいぐらいだったファラを含む修道院の子らの気配はない……流石に空気を呼んだか? まぁともあれ、と。
「リアさ……ぉお、先程のはですね本当に」
「ぇえ。存じておりますよ? 伯爵様ですものね――ぇえ。あたしは分かっておりますよ」
口火をガブリエルから切った、のだが。
視線を横に滑らせれば、其処には恐ろしく不機嫌な様子のリアの姿があった。
声が些か低い。本当に些かだが、リアがガブリエルの前で斯様な声を零そうとは。
その原因は先程の――ではなく。
『頭が痛い』からだ。とても、とても。
そもそも先程の件に関しては。
「アレに関しては此方も悪いので。どうかお気になさらずに」
「あとは、その……この前の事なのですが」
「この前の事? 何のことでしょうか?」
自らも迂闊だったと述べて――しかし続け様の言葉には微かに眉を顰めようか。
ガブリエルが口に出した一件。それを皮切りに、脳髄に『あの日』が蘇る。
ええ。ちょっと前にとっても……とーーーっても傷付いた事はありましたが。
「別にそれも怒ってはいませんよ」
「で」
「『ですが』と貴方はいつもの口調なら続けるのでしょうね。
怒ってない、と先程述べた筈ですが、伯爵様」
もう慣れたものだ。ガブリエルの言葉を先読み出来る程に。
言葉に詰まってやや困った様子のガブリエル。
……あぁもう。本当にあたしが何に怒っているか分かっていないんですね。
「ガブリエル様、貴方がどんな噂をされているかご存知ですか?」
「――噂、ですか?」
「ええ。あくまで噂。無視なされるのが吉な程度の――噂です」
吐息一つ。リアは零して語るのはガブリエルに纏わる事。
曰く――遊楽伯の贔屓にしていた女が夜会に顔を出さなくなった。
曰く――伯爵がその女の元に何度も通っている。
曰く――遊楽伯爵は愛人に捨てられ、それでも未練がましく通っている。
「貴方が……ガブリエル・ロウ・バルツァーレクが」
そんな根も葉もないクソみたいな事言われてるんですよ。
遊楽伯などという言葉が蔑称の如く扱われている。
――勿論誰も彼もが言っている訳ではないだろう。
ごく一部の話。ごく一部の口さがない者達の戯言――だけれども。
「……ははは。しかし」
「『しかし事実な所もありますから』或いは『しかし噂は噂なだけですよ』――だとでも?」
刹那。再びの先読み。
――あぁ。ガブリエルの旋律が乱れている。
だけど聞いて下さい。あたしが何に怒っているか分かりますか?
「――貴方がそんな事言われているのに。
貴方が黙って何も書かないようにしているのが気に食わないんですよ」
手紙の一つも、一切に。
……伯爵。『間違った事』をずっと、ずっと後悔していませんか?
後悔して終わっていませんか? 只管に其処で立ち止まっていませんか?
「間違う事は誰にだってある事です。それ自体は『間違い』じゃないんです。
伯爵の、貴方の立場はあたしだって分かっているつもりです。
だけど貴方は恐れすぎている。極度に、間違う事を。過ちの道に進んでしまう事を」
「それは……そう、でしょうね。私は間違う訳にはいきませんから」
「それが違うの」
リアは見据える。ガブリエルの瞳を。
美しい。まるで青空の様に、或いは瑠璃色の如く澄んだ――その瞳を。
……別にね間違ってもいいの。
間違う事を許容できない人は道に迷ってしまうわ。
でもそうね……もし、貴方が間違えすぎてもうどうしようも無くなったら。
「全部放り投げて逃げちゃえば良いんですよ。
貴族だから、なんて――そんなの関係ないわ」
「――そういう訳にはいきません。
私はバルツァーレク家の当主として責務と共に在ります。それは投げ出せません」
「なんだ。ハッキリと言えるじゃないですか。
そこまで本気にならなくていいんですよ――これはあくまで例え話ですから」
でも。
「でも、覚えておいてください」
もしも。貴方の行く末に過ちの道があり貴方がその道に突き進んでしまうのなら。
「貴方一人だと色々心配だから、あたしも何処までも付いていってあげます」
「――リアさん。それは」
「二度は言いませんよ。そこまであたし、甘くはないんです」
――口の端が、緩んだ。
ごく自然に。リア自身も気付かぬ内に。
刹那に見えたガブリエルの表情は――微かに驚嘆の色を含んでいただろうか。
でも本気ですよガブリエル様。
貴方が往くのならどこまでもお供いたします。どこまでも、どこまでも――
「だけどね、ガブリエル様……」
直後。リアはガブリエルの頬に手を伸ばすものだ。
彼の肌に触れる。微かな熱が、その指先に感じれば。
彼女は言を紡ごう。
――あたしは貴方が俯いているは姿は絶対に認めない。
彼以外の誰にも聞こえぬ形で。
リアの口が動く。吹く風に蕩けて、それは湖の外には決して届かぬ儘に。
――だって、貴方は、この世界で一番カッコ良くて。
告げるのだ。
一番――強い人なんだから。
自らの想いを。自らが遊楽伯に抱いている全てを。
……俯いて縮こまって座り込むだなんて。そんな姿、貴方には似合わない。
似合わないって、あたしは知っている。
貴方の旋律を知ってしまった。
本当の貴方の姿を知ってしまった。
ずっと、ずっと、貴方の事を見てきたから。
ずっとずっと、ずーーーっと、貴方の事を考えていたから。
ベッドに横になっている間も。修道院の子達の世話をしている時も。
貴方からの手紙が届いていないかと、幾度も修道院前の箱を確認する度に。
晴れてる日も。雨の日も。風が強い日も。何度だって……
貴方の顔を思い浮かべない日は無かった。
「……一先ず、今はまだ体調が優れませんので。
また体調が落ち着いている時には貴方からのお誘いにはお応えします。
あっ。ですが応えると言っても――『二度目』はありませんよ?」
「ええ。それはもう重々……」
ガブリエル・ロウ・バルツァーレクお抱えの音楽家としてね。
それ以外の何かで呼ぼうものなら、二度目は本当に。本ッッッ当にありませんからね。
だから、貴方ももっと胸張ってくださいね。
――またヘタレてたら、次は尻を蹴り飛ばすから。
「はは……お手柔らかにお願いします」
「それはお約束いたしかねますね――あたし、本当はそこまでお淑やかじゃないんです」
「存じております。リアさんのご活躍は、度々に耳にしておりますから」
「……えっ?」
「私は商人ギルドと懇意にさせて頂いておりますから。あちらこちらからリアさんの声望が耳に入る事があり――存じております。知っていますか? 商人ギルドの情報網は、かなりのモノなんですよ」
他国も含め一体どこまでの話を聞いているのか……! というよりも遊楽伯ともあろう者が一個人の情報を商人も通じて追う? それとも本当に親しい商人が勝手に情報を流してきてる? いずれにせよ、なぜそういう所でだけ行動力が強いのだ……!
ともあれ。リアの語った言葉にも嘘はない。
尻を蹴り飛ばす。背中だって叩いてあげる。痛いぐらいね。
それが嫌だったら、しっかりする事。
あたしは、貴方をずっと、見ているんだから。ずっと、ずっと……
……また風が吹いた。穏やかな風だ。木の葉を舞いあげるが、強くはない風。
同時。ガブリエルはリアへと手を伸ばそうか。
それは彼女を抱きしめる様に。両の腕でリアを包まんとする。
ただ率直に、彼女を抱擁したかったから。
……リアも、拒まぬ。これ以上の言の葉は紡がずに彼と共に在ろう。
誰も見ておらぬ湖の湖畔にて。
あぁ……彼の旋律を感じ得る。
どこまでも暖かい、落ち着いた旋律。
ソレを愛しく感じれば感じる程に、彼女に宿る
蝕む。まるで何かがのたうち回る様に。
蛇か。悪意か。だけれども、あぁ。
今は、今だけは、この暖かな感触に身を委ねよう。
「リアさん。手紙も出しますが……それとは別にまた会って頂けますか?」
「……正式なお呼びであれば先程体調のお話をさせて頂いた筈ですが」
「個人的に、のお話です」
「それはむしろ、ガブリエル様がお会いに来てくれるかどうか、ではないですか?」
「では会って頂けるのですね?」
「……今度は正装を纏ってから、出迎えさせて頂きます」
囁く様に。二人だけの暇を、凄そうか。
湖の水面は――優しく揺れていた。
……その後、伯爵は己が馬車に乗りて修道院を去るものだ。
最後まで、見えなくなるまでリアの方を眺めながら。
「リア、良かったわね伯爵様が来てくれて!」
「…………」
「リア? リア?」
笑顔と共にリアの顔を覗き込まんとするファラ、だが。
ファラの瞳に映ったのは、何か決心したが如き意思を秘めたリアであった。
その脳髄には激痛の如き痛みが襲い掛かってきている。
我慢していた。一寸たりとも表情に出さぬ様に。
だけど。
(――もう、目を逸らさないわ)
リアは決意した。己が
クオリア……この蝕みの根源へと。
この頭痛が始まりだしたのは『あの日』か?
あぁいずれにせよガブリエルに言ったのだ『逃げないでくださいね』と。
ならば自らも向き合わねばならぬ。この痛みに。この奥底に秘められしモノに。
――きっと自らの全てに。