SS詳細
大切にしているもの
登場人物一覧
休日はそうだ、いつだって心が弾む。朝早く、起きてもいい。睡眠のために時間を使ってもいい。休日は──そう、自由だ。
「ご馳走さまでした」
軽やかな声が部屋に響く。朝食を食べ終え、綾辻・愛奈 (p3p010320)はテーブルのひだまりに目を細めた。カーテンの隙間から差し込む陽光がテーブルを照らす。
(春、ですね。そろそろ、早咲きの桜が見れる頃でしょうか)
愛奈は笑み、食器を片付けるためにキッチンに向かう。休日の今日、愛奈は本の虫になるのだ。食器をゆっくりと洗い、本を想う。
(楽しみですね)
これから、ミステリを読む。その本はW街を訪れた際、ふと、立ち寄った小さな書店で出逢った本だ。書店には先客が三人、彼らは真剣な顔つきで本を楽しそうに、幸せそうに選んでいた。
「──いらっしゃい」
優しい声が聞こえた。本棚の前に立っていた老女が愛奈に声を掛けたのだ。赤い瞳は焚火のように穏やかだった。白髪交じりの髪は奇麗に整えられ、本好きのマダムに話しかけられたのだと愛奈は錯覚したのだけれど、老女は青いエプロンを着用し、胸元には『ブックス・W』の文字。愛奈はハッとし、慌てて頭を下げた。老女は微笑し、視線をすぐに本棚に移した。店主なのかもしれない。彼女は本を手に取り、並べ替えている。愛奈は店の中を見渡しながら、息を深く吸い込んだ。紙とインクの独特の匂い。書店の香りを感じながら、愛奈は木製の床をスキップするように歩いた。蛍光灯の光が本を照らしていた。冒険小説、ミステリ、恋愛小説、ファンタジーにホラー。愛奈は本のあらすじを読み、胸を躍らせるのだ。時間がゆっくりと流れる。どの本も面白そうだ。作家で選ぶのもいい。タイトルで選んだり、ジャンルで絞るのもいい。勿論、装丁で選ぶことも好きだ。話題の本も読みたい。愛奈はくすりと笑う。本の前では人は皆、素直になるのかもしれない。
愛奈は直感的に立ちどまった。そこは新刊コーナーだった。好奇心を孕んだ青い瞳が見知らぬ作家の名前を追いかけていく。視線が不意に止まった。
(うろんな子供たちの争い)
愛奈は小首を傾げながら本の名前を読む。その本は辞典のように分厚く、装丁は美しい橙色の果実。そして、その身に突き刺さるのは果物ナイフだった。愛奈は本を裏返し、あらすじを読み始める。
──奇妙な客が集まった洋館で次々と起こる見立て殺人。創作童話になぞらえ、人々は無惨に殺されていった。人々は恐怖に怯えながらも、殺人鬼の正体を暴く為、名探偵の女とその助手の女を洋館に招いたのだ。ノンストップ長編、ミステリ。衝撃の話題作。
愛奈は笑った。とても面白そうな本だ。わくわくした。本を抱え、愛奈は目を輝かせる。本があることで人生が楽しくなる。
そして、意識は今日に戻るのである。
「さて、やりますか……!」
食器を洗い終え、愛奈は電動ミルで珈琲豆を挽き始める。珈琲豆専門店で買ったブルーマウンテンのかぐわしい香りがキッチンを包み込む。愛奈は笑みを浮かべる。
(今日も美味しい珈琲を淹れますよ)
読書の前に愛奈はいつも、珈琲を淹れるのだ。この丁寧な時間を、愛奈は愛している。愛奈は慣れた手つきで、テキパキとペーパーフィルターをドリッパーにセットし、熱湯を注ぐ。湯が紙の臭いを消し、ドリッパーとコーヒーサーバーを温める。カップは悩んだが、今日は厚口の陶器を選んだ。クリーム色のマグカップ。飲み口は狭く、丸い取っ手が可愛らしい。愛奈はカップに湯を並々と注ぎ、湯煎を行う。キッチンタイマーで一分程。白い湯気が雲のようにふわふわと上がっている。これで熱い珈琲が飲める。愛奈は湯を捨て、ペーパーフィルターに粉を注ぎ入れた。珈琲の強い香りを感じる。美味しい珈琲の香りだ。愛奈は目を細めながら、ドリッパーを持ち上げ、ゆっくりと左右に振る。さらさらと音が鳴る。粉を均等に、平らにしていくのだ。その間に熱湯は適温になる。
「はぁ……良い香り……」
愛奈はリラックスした表情を浮かべ、静かに湯を粉に向かって細く、注ぎ入れる。瞬く間に粉は湯を含み、ぷっくりと膨らんでいく。乾いた土が水を吸い込んでいくようだった。ゆらゆらと湯気が上がり、サーバーの中に繊細な液体が雨のように落ちていく。ずっと見ていられる、愛奈はそう思いながら微笑む。静謐な空間にキッチンタイマーの音が鳴り響いたのだ。キッチンタイマーを三十秒後にセットしていた。濃厚な香りが肺に満ちていく。愛奈は息を吐いた。心が落ち着き、優しい気持ちになった。
「そして、そおっと……」
愛奈は真剣な顔で湯を粉の中心に入れ、珈琲をゆっくり抽出していくのである。美味しい珈琲はそう、何度も湯を入れる。
(飲むのが楽しみです……)
愛奈はドリッパーをサーバーから外し、陶器のマグカップに珈琲を注ぎ入れ、マグカップを手に取った。愛奈は目を細める。極上のミステリにぴったりな香りがする。
おまけSS『休日、W街のチーズトマトパスタを食べてみた』
(W街ではチーズトマトパスタが有名のようで、ランチに頼んでみました)
「チーズトマトパスタ、お待たせ致しました」
「えっ、チーズがマ……!」
「お客様。マ、でございますか?」
「あ、チーズがマウンテンだと思いました。凄いですね……!」
「ええ、トマトのパスタにチーズを山盛りかけております。お客様、オレンジジュースのおかわりはいかがですか?」
「オレンジジュース……どうしましょう、悩みますね」
「それでしたら、赤ワインはいかがでしょうか? ワインの酸味がトマトの旨味をより引き立たせるのです。飲みやすいものをご準備致します」
「そうですね。今日はお休みですし、いただきましょうか」
「素敵な休日ですね」
「ふふ、ありがとうございます。ああ……ベーコンが分厚くて……んっ、茄子もたっぷり……トマトの酸味と……ああ、とろっとろのチーズが……あつ、美味しっ……! ん〜、最高ですね……」