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2月14日にささやかな日常を
登場人物一覧
バレンタインデーと再現性東京ではその名を呼ぶ。それが当たり前でありながらも、澄原 晴陽は『外』に対しての不快感などはない。故に、再現性東京では女性が男性に贈り物をするという通俗ではあるが、混沌世界では『感謝の気持ちを伝える日』として性別を問わないイベントであると云う認識はしっかりとあった。
その上で國定 天川に「先生はバレンタインはチョコレートとか贈るのか?」という問い掛けに「ああ、グラオクローネの方ですね」という雑な認識をしたのだ。
勿論、天川側からすればその問いかけは前者側のイベントの事である。それでも晴陽がそう納得したのならば否定はしない。
天川自身が晴陽に抱いている淡い思いはあるが、それを告げる気は現時点では無かった。自身の気持ちを告げないという決定をしたことも、己がその様な気持ちを抱いていることも晴陽には気付かれていないだろう。気付かれてはいけないとさえ感じていた。
そう決定してからは寧ろ、晴れ晴れとした気持ちで晴陽と接することが出来てる。複雑さや難解なもやもやとした気持ちが取り払われ、気楽そのものでもあるのだ。
(まあ、困らせたくはないしな)
――と、云うのは建前だ。気持ちを告げない理由が恋愛事に疎く、そうした感情の機微に対応しきれぬ晴陽を困らせるであろうというのは建前でしかない。
もしも晴陽が気持ちを告げたとしても一度は逃避をしようとも時間を掛ければちゃんと答えを出してくれるはずだ。唐突ではなく用意周到に負担なく伝える事が出来れば彼女も落ち着いて多少の距離を開けながらも返答してくれるだろう。決して、蔑ろにすることはない、とは思って居る。だからこそ、一番の原因は家族への後ろめたさだ。
本来ならば天川の傍には晶が居た筈だ。可愛い盛りであった光星も自然と誰かと恋をして愛を育み、幸福を教授する立場であった筈なのだ。
そう思えばこそ、伝える事までも烏滸がましいと認識していた。
勿論、晶と意思の疎通が出来れば「何を云ってるんですか天川君!」と拗ねたように云うことだろう。
「私達のことは良いんですよ。天川君は天川君で好きな道を探してください。天川君が幸せじゃなかったら悲しいじゃないですか」
そんなことを云う晶の事位予測は出来ていた。それは十分に理解して居たし、最近は自分でも新しい道を探しても良いと前向きにはなってきた。
存外に希望ヶ浜での生活を楽しんでいるのである。
――が、それは恋愛が絡めばまた別だ。誰かと思いを酌み交わせばどうしようもなく息子の姿がちらつくのだ。晶に背を押されようとも、どう向き合うべきか感情の置き場がない。
「……天川さん?」
「ああ、いや……今日も綺麗だな。先生。指輪も良く似合っている。邪魔にはならないか?」
気持ちを告げないと決めれば吹っ切れてしまったのかラフなジョークが弾むようにもなる。晴陽は面食らったように天川を眺めてからぱちくりと瞬いた。
ジョークを交えて揶揄って、軽口を交し合う事だけでも晴陽との距離が縮んだ事が良く分かる。良き友人だと胸を張っても良いだろうと天川は自負しているほどだ。
「あ、ええと……流石に病院業務での診察などでは外すことが多いですが……普段は着けていますよ。
お守りだと仰って居ましたし、特別製ならばきちんと着用しておかねばなりませんでしょう。これが護身になるかもしれませんし」
もう一つの護身用道具がデスマシーンじろう君である事は……気付いたが天川は敢て口にしなかった。あれは晴陽に懐いているのか着いてくることがあるが、流石に病院の外にまで謎の日本人形が追尾してきていては晴陽自身が不審者になる。
「ああ、そうだな。『いざ』という時に重要だ。折角の贈り物だ、着けていてくれると嬉しい」
「……『いざ』と、云うときですか」
「ああ。先生みたいな美人に傷を付けちゃ悪いだろう? ……おっと、こんなこと言ってるとまたセクハラで連行されちまうな?」
揶揄うように笑う天川は特段、大袈裟に褒めているわけではなかった。普段から思って居る何気ない尊敬の肝持ちや可愛らしいと思う部分を臆面と無く褒めるだけだ。
美人、と呟いた晴陽は「それならば、私以外でも良かったのでは」とパチリと瞬きながら指輪を見詰めた。
「先生以外?」
思わず声に出した天川に晴陽ははっとしたように顔を上げてから首を振る。贈り物を拒絶することになったと感じたのだろうか。普段よりも慌てた仕草で手を僅かに振った。
「ああ、いえ、あの……知能指数は高いかもしれませんが、感情表現が下手であるが故にその辺りがマイナス――凡庸ですから私は」
「誰かに言われたのか?」
「ええ、結構。これでも澄原の名で各地に出席を求められることがありますから。
私もそれなりには見栄えを整えては居ますが、それでも表情と言う面ではどうしようもありません。特に、笑顔を指摘されてしまえば図星と言う他にない」
肩を竦めた晴陽は「余計なことを言いましたね」と肩を竦めた。
彼女は余り自分の事を話す事は無い。個人的な事情を話すときには大体が申し訳なさそうな顔をするのだ。天川からすれば愚痴の一つでも吐出してほしいものだが、それも彼女にとっては余計な負担なのだろう。
(先生は背負い込み過ぎてるな。まあ、だからこそ……見過ごせない存在ではあったんだが……)
彼女が義弟に似ていた、という事は当初の切欠であった。晴陽は何処から見ても晶には似ていない。太陽のような晶とは対照的に夜に浮かんだ月のように静かな彼女はぴん、と張り詰めた空気をその身に纏っている。
「いや……それを言った奴は分かっちゃいねぇな。先生は本当は愛くるしい笑顔の似合う女性だってのにな」
「……あ、はあ……」
声を漏してから晴陽は失礼とだけ告げて顔を覆った。何かを堪えるような仕草を見せてから一つの咳払いをし、背を向ける。
「……チョコレートを見に行くんでしたよね」
少しばかり上擦った声と、髪の間から覗いた耳の赤さが分かり易い程で天川は「ああ、そうだな」と揶揄うように笑った。
こんなにも分かり易い女性だというのに、彼女に『マイナス』と言った奴は何処の何奴なのだろうかと言ってやりたい気にさえもなった。
天川と晴陽が向かったのはチョコレートの催事場であった。晴陽には何か目的があるのだろう。しきりにaPhoneで店舗の場所を調べている。
今回ばかりは自身に任せて欲しいと告げた晴陽にエスコート役を任せて天川はあくまでも荷物持ちとして同行していた。口を挟むことはしないが、晴陽に意見を求められたら脳内をフル回転して答えるつもりだ。
「天川さん、此処です。お付き合いして頂き有り難うございます」
「ああ、いや……これは、また凄いな。マヌルネコか?」
マヌルネコがプリントされたチョコレートやゴリラなどを象ったファンシーなアニマル達が並んでいる店舗の前で晴陽は自信満々に頷いた。
笑顔、とまでは行かないが穏やかな表情には何処か自身の様なものも漲っている。天川は「自分用か」と問うた。晴陽は妙な顔をしたパグのチョコレートを手にしてから「いえ、龍成です」と堂々と告げる。
「……龍成」
「はい。この大きなテディベアとセットでどうでしょうか。チョコレートを抱きかかえさせるのです。とっても素晴らしいと思いませんか?」
「……待った、先生。龍成は今年で幾つだ?」
「ええと……22……23になる歳だったかな……と」
彼女の中で龍成はいつまでたっても幼い少年なのだろうか。彼女がその年頃のイレギュラーズに向ける視線も妙に幼子を愛でるようなものであるのは弟恋しさに起因しているのだろう。テディベアで喜んでくれる22歳の弟――いや、龍成ならば少しばかり困った顔をするだろうが感謝はしてくれよう。彼はそうした細やかな気遣いが出来るタイプでもある。
だが、此処は責任重大だ。天川が留めねば巨大なテディベアが龍成に行ってしまう。可愛らしすぎるチョコレートなども排除して、出来るだけ青年とも呼べる年齢になった弟に送るに相応しいものをチョイスしてやらねばならない。
「先生、それはちょっと可愛すぎるんじゃないか? みゃーこなら良いかもしれないが、龍成も年頃の男子だろう」
「……もしかして、テディベアは本命が贈るべき、と言うことでしょうか」
「いや、そういう訳でもないが……そういう訳でもあるのか……?」
「そうですね、姉からの贈り物は出来る限りシンプルであるべきなのでしょう」
晴陽は明後日の方向で納得してから自分用の買い物をしてくるとショップ内に踏み込んで行き、そそくさと帰還する。他の場所で贈り物を探すというのだ。
――確かに、気持ちは伝えては居なかったが『他の男子』の為のチョコレートを選ぶ事に付き合うというのも妙な心地ではある。大切な弟への贈り物にアドバイスを添えられるだけ良い立場になったと思うべきか、それとも……。
どうにも、一つ悩みが失われれば更に悩みが増えるというのが人間関係なのだろうか。
目の前の女医は何処かウキウキとした足取りで歩いて行くのだから、妙な幼さを感じさせて愛らしくもある。少女漫画などでは斯うしたときに荒くれ者とぶつかるイベントが起るのだろうが晴陽は確りと人間を避けるだけの落ち着きだけは持ち合わせて居たらしい。
「天川さん、見てください」
「どうしたせんせ――……い……」
目の前で巨大なチョコレート鯛焼き抱き枕を抱えている晴陽が「大漁です」と言い出したのは高揚した気持ちの所為なのだ、仕方が無いのだ。
何処までも気を許せば行動の端々に妙な部分が出てくるのは抑圧されていた澄原 晴陽の本来の姿なのだろう。普段は凜としており静かに仕事をしている彼女のプライベートすぎる姿をaPhoneで撮影してから「みゃーこに送るか」と呟けば晴陽は「ダメです」と慌てながら鯛焼きを元の場所に返したのであった。
選んだのはビターの生チョコであった。包装紙も出来る限りシンプルなものとし大人びたセンスを感じさせる品に落ち着いたのは其れから幾許も後のこと。
放っておけばふらふらと別のゆるふわアニマルやらぶさかわアニマルに釣られていく晴陽の軌道修正は中々に難しい。それも天川自身が「ちょっと良いな」とぶさかわの世界に片足を突っ込んでしまっているからだ。気を抜けば天川もぶさかわアニマルのグッズなどを手に取ってしまっている。
「何にせよ、良い物が買えて良かった」
「はい。満足です。龍成を呼び出しましょう。
暁月先輩にも考え直せと言われて買い物に付き合って貰ったんですが、どうしても納得できず……改めてテディベアを買おうと思っていたのですがそれよりも味で勝負しようと思います」
美味しかったのだと生チョコを水夜子や暁月の分まで購入しているのを見る限り、彼女の人間関係は天川が出会った当初よりも随分と良くなっている。
買い物袋を横に置き、食事を取りながら話しているだけでも晴陽の表情の変化は良く分かった。
「荷物持ちぐらいならいつでもするから呼んでくれ」
「有り難うございます。美味しい試食を楽しめたのも良かったですね。余り馴染みのない文化ではありましたが、楽しかったです」
「ああ、そうだな。先生はビターチョコの方が好きか?」
「此方の方がコーヒーや紅茶に合いそうですし」
食事として選んだのは晴陽が好んでいるというパスタの店であった。
晴陽は自分の好きなものを丁寧に天川に教えてくれる。決して押し付けることはなく、天川の出方を伺いながら良き友人関係であるための努力を重ねてくれるのだ。
それは妙な寂しさもある行いではあるが――押し付けろ、と言うわけではないが我儘は言って欲しいというのが男心だ――彼女にとっての大きな一歩であるのは確かで。
食事を終え、帰路を辿る際には「送らせてくれ」と天川側から頼むことにした。晴陽は拒否することなく其れが日常というように隣を歩いてくれる。
「天川さん、今日は本当に有り難う御座いました」
「いや、手伝えて良かった」
満足げな晴陽のお目当てこと『弟へのチョコレート』を無事にアドバイスできた事は良い仕事をしたと彼女の弟にも褒めて貰いたいほどだ。
突如として巨大なテディベアと小さなチョコレートを贈られることになる成人男子はある意味で不憫だからだ。
晴陽は礼を言った後から妙にそわそわとしていた。視線が揺れ動いてから「あの」と彼女は小さな声音で天川を呼んだ。
「その……今日のお礼です。バレンタインですから」
少し緊張した様子の晴陽は「天川さんは私を揶揄ってばかりでしたから、私からも唐突な悪戯です」と濁すように言う。
本当に唐突な悪戯だ。チョコレートを渡されるなどとは思って居なかったと天川は面食らう。
「こんなのは何年振りかね。ふふ。この年になってもこういうのは嬉しいもんだな。ありがとよ! 晴陽」
幾許か照れてはにかんだ天川に晴陽は「ええ」と同じように笑みを返した。笑った、と天川は思わず手を伸ばし晴陽の頭をぐしゃりと撫でる。
またもセクハラだと言われてしまうだろうか――我に返った天川に晴陽のアメジストのような眸が丸みを帯びてから可笑しそうに細められた。
「子供扱いですか?」
「いいや、レディへの感謝のつもりだったが……無粋な行いだったな」
子供扱い、確かにそうだ。年齢的には十分な差がある。晴陽から見て自身はその様な存在、だと言うことだろうか。
斯うした接触を許してくれるだけでも喜ばしい事なのだろうが一抹の寂しさを覚えたのは――多分、気の所為ではない。
晴陽と呼び捨てにすることも、斯うして頭に触れても拒絶されないことも、今まで積み重ねてきた時間の長さを感じさせる。最初に名を呼び捨てにしたときは彼女は驚いた顔をして居たが、今ともなれば何気なく受け入れてくれるほどだ。
「貴方が喜んでくださって安心しました。困ったときはメモを入れておりますので、参考にしてくださいね。それでは、おやすみなさい」
一礼をし、マンションへと入っていく彼女の背を見送ってから天川は帰路に着く。
帰宅してからふと、晴陽の『困ったときはメモを入れております』という言葉が気になり紙袋から取り出してみれば、晴陽と共に見たアニマルチョコレートの店舗の包装紙であることが分かった。
……いや、嫌な予感はしていない。天川自身も晴陽に影響を大いに受けている。チベットスナギツネか、それともマヌルネコか。そう思いながら包装紙から中身を取り出せば……やけに昂ぶったポージングをしているゴリラが鎮座していたのだった。
――困ったら鍋にこの子を座らせミルクと一緒に温めてください。溶けてくれます。
そんなアドバイスが入っていた事を確認してから天川は「このゴリラをどんな気持ちで渡してきたんだ」と呟くのだった。