SS詳細
鏡の前の笑顔
登場人物一覧
マール・ディーネーという少女がいる。
竜宮に住む、今は普通の女の子だ。
彼女は勇敢にも、『自分の記憶を失うこと』を代償に、イレギュラーズたちに力を貸した。
そのあとの顛末は、詳しくは語るまい。物語はめでたしめでたしで、終わった。
そんなマールの、その時の出来事を覗いてみよう。
日ごとに、記憶が摩耗していく、そんな日の――彼女の姿だ。
マール・ディーネーの部屋には、様々なものが置いてある。
例えば、お気に入りのリップであったり、ピアスであったり。ネイル用の化粧用具だったり。最近は外の本も読んでいたりして、かわいらしい本棚には、あまりめくられた様子のない『真面目な本』から、頻繁にめくられた様子のある漫画のような本がまばらに並んでいて、その上には、
さて、そんな女の子の部屋には、当然姿見があった。マールはその鏡の前に立って、化粧の感じを確認したりしていた。そういうのを確認して、マールはいつも、うなづくと、にっこりと笑ってみせた。笑顔の練習。よし、今日もあたしってば可愛い――なんて、思ったりもする。大好きな人たちに会いに行くのだ。あたしだって、最高の笑顔で会いたい。
それは、ルーティンともいえるものだ。日課というか。マールがいつもやることであって、苦ではなくて、むしろ楽しいことだった。
鏡の前で、笑う。にっこりと。楽しい一日が始まる、日課。
それがあまりにも、つらくなる日が来る、なんて。
ぐにゃり、と部屋がゆがむような気がする。グラグラと揺れる。視界。世界が。ちらりと後ろを見てみれば、
知らない人。
知らない人。
知らない人。
まだ覚えている人。
覚えている。
覚えている人。
その事実に、すがる様に、マールは写真に目を寄せた。
覚えてる。
覚えてる。
まだ覚えてる!
救いだった。
罪悪感だった。
まだ覚えている人がいる。隣に並んでいる人のことは忘れてしまっている。
ひどい。
ひどい奴だ、と思った。
この人は覚えているのに、この子は忘れている。
そう思えば、胸の中からこみあげてくるものがあった。それは精神的なそれから、物理的なそれに代わっていく。胃が、逆流するように体を苛んだ。
う、ぐ、とうめきながら、ゴミ箱に顔を突っ込んだ。げほ、げほ、とせき込む。何も出てこない。ここ最近は、ろくに何も食べていないのだ。食事が喉を通らないなんてのは初めてのことだった。がふ、がふ、と吐きこむ。せき込む。何も出てこないけど、何かを出さないと許されないような気がして、ずっと、ずっと、げふげふと、せき込んだ。
荒い息をついていることに気付く。口元にこびりついた、よだれなんだか、心なんだか、よくわからないものを、ティッシュで拭って、ゴミ箱に捨てる。顔を上げてみれば先ほどまで見ていた鏡がうつった。
ひどく憔悴した女がそこにいた。
これが自分だなんて、理解できなかった。
それは、綺麗な自分が消えてしまったことが理由ではなくて。
これじゃ、『皆にバレちゃう』と、思ってしまうことが怖かった。
忘れてしまったことが。
ばれてしまうことが、怖かった。
傷つけちゃうから。
悲しませちゃうから。
笑わなきゃ、と思った。
ずりずりと、這いずる様に、鏡の前に移動した。ぺたん、と力なく座り込んで、鏡をのぞく。
笑わなきゃ。
笑って、大丈夫だよ、っていって、ちゃんと覚えてるよって言って、久しぶり、って言って、大好きって言って、言わなきゃ。
言わなきゃ。大丈夫。心を痛めないで。あたしは大丈夫だから。
鏡をのぞく。笑った女がそこにいる。
「ほんとうに?」
女が笑う。
「みんなのために、あなたは笑っているの?」
と――。
女が言った。
「どういう」
ことなの――?
と。マールは尋ねる。
「ほんとは怖いんでしょ? 怒られるのが怖いんでしょ。こういわれるのが怖いんでしょ。
なんで忘れたの? なんで覚えてくれてないの? それなのに、私を好きだとか言ってたの?」
つらつらと、女が言う。
違う。
違うの。
そうじゃないの!
マールが叫んだ。
「そうじゃない! そうじゃないの! あたしは、あたしは……」
「怖いんだものね」
と、女は言う。
「嫌われるのが怖いのよね。傷つけるのが怖いんじゃないの。嫌われてしまうのが怖いの。悪いことをして、捨てられてしまうのが怖いの。
貴方は勇者じゃないの。普通の、どこにでもいる人間なの。ただの、人間が、思いあがってこんなことをしているの」
だから、と女は笑う。
「分不相応なことをした、これは罰なんだわ」
あざ笑う。自分の顔が真っ青になることを自覚した。怖い。怖い。何が怖いといえば、そう『思ってしまっている』という事実が怖かった。
傷つけたくない、というのは事実だ。自分のことで、心配させてしまうのが申し訳ないと思うことも、事実だ。
でも――嫌われたくない、と思ってしまっていたことも事実だった。
大好きな人たちだったから。
忘れてしまっても、大好きな人たちだったことは、覚えている人たちだったから。
だから、傷つけたくない。
嫌われたくない。
なんて自分勝手なんだろう、とマールは思う。自分で勝手にやったことで、誰かを傷つけて、自分はその好きな人を傷つけることよりも、嫌われてしまうことを恐れているのか。
――そう思ってしまう意味で、マールはまだまだ未熟で、子供だった。大人であれば、そういった『身勝手な考え』を持ってしまうことも、飲み込めるだろう。人は時に、そう思ってしまうものだ。それは仕方がない、それを事実として、うまく自分と付き合っていけるだろう。マールは普通の女の子だった。ちょっとだけ背伸びして、英雄たちにあこがれた、それだけの少女だ。だから、自分のそう言った部分について、まだまだうまく飲み込めなかった。
すべての思考を放棄すれば楽だろうか。何も考えず、例えば誰かにすべてをゆだねてしまえれば――。でも、それを選びたくはなかった。選べなかった。それは子供っぽいプライドだったけど、マールが少しだけ勇敢で、優しい少女であるということの証左でもあった。
笑わなきゃ。
マールがもう一度、鏡を見た。泣きそうな顔で笑っている少女が見える。
笑わなきゃ。笑わなきゃ。薄れていく大好き、それをつなぎとめるためにも、笑わなきゃ。
それがどれだけ身勝手で醜くても。あたしは笑わなきゃ。
ぐるぐると世界が回る。カチカチと時計の音が響く。断頭台の階段を登る音のような気分だった。あの時計が、もうすぐ、皆の戦いの時を告げる。そうなったら、あたしも、一緒に行かなきゃいけない。
その時あたしは笑えているかな。
その時あたしは笑わないといけないのかな。
怖くないって強がって。あたしは大丈夫だって、言えるかな。
……かちかち、と時計が騒ぐ。世界が回る。
あたしはまだ、笑えている。
時は進む。その少女がどのような顛末を迎えたかは、あなたが一番よく知っているはずだ。
おまけSS『鏡の前の笑顔:re』
――マールはその鏡の前に立って、化粧の感じを確認したりしていた。そういうのを確認して、マールはいつも、うなづくと、にっこりと笑ってみせた。笑顔の練習。よし、今日もあたしってば可愛い――なんて、思ったりもする。大好きな人たちに会いに行くのだ。あたしだって、最高の笑顔で会いたい。
それは、ルーティンともいえるものだ。日課というか。マールがいつもやることであって、苦ではなくて、むしろ楽しいことだった。
鏡の前で、笑う。にっこりと。楽しい一日が始まる、日課。
ふと本棚の上を見ると、あの時よりずっとたくさん増えた写真とか、日記の表紙とかが見えた。あれからまだまだ好きでいられる人たち。これからもたくさんの、好きになれる人たち。そういった思い出が、日記と、写真に、たくさんに、増えていく。
「――そういえば」
手鏡が飾ってあった。シンプルだけど、なんだか不思議な感じのする手鏡だ。マールはそれを手に取って、覗いて見せた。
誰かの視線を感じるような気がした。別に悪い気持ちじゃなかった。だからその視線に見せつけるみたいに、マールはにっこりと笑ってみせた。
「ふふ。笑えてるよ。ちゃんとね」
ここから、楽しいって。
マールは手鏡を棚の上に戻した。
「いってきます!」
そう、誰かに伝えるように、マールは声を上げた。
今日も楽しい一日が始まる。
大好きな人たちと、一緒の一日だ。