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燻り爆ぜて、色づいて
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- 嘉六の関係者
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まったく困ったもんだ——これは親しい友人は疎か、きっと誰にも溢せない独り言になる。溜め息ごと飲み込んだのは、今まさに目の前に困惑の種がいるからだ。
「嘉六さん……」
するりと近づいた顔。耳元へ吹き込まれる声、息遣い。ただ名前を呼んでいるだけで随分とやわっこくて、甘ったるくて、笑みの形を取り繕った唇がひくりと震える。加えて、勝手に鼻血を噴いて中断という定番の流れが影を潜め、以前ならとっくに引き下がっていた場面でもぐいぐい来るようになった。どれも最近になって感じ始めた変化で、隙を窺っても逃げるに逃げられない状況が増えた。疑惑を通り越して確信する程に。
「……、嘉六さん」
やめろ。そう一言言えたらどんなに良かったか。『もしその一手が誤りなら?』と過れば拒絶の言葉は呆気なく喉に詰まり、一挙手一投足に緊張が走る。命を張った鉄火場でも、有り金を注ぎ込んだ大博打でもこんなに渋ったりはしない。むしろ自ら飛び込んでさえ行くってのに。
飼い犬ならぬ、たった一度手を貸してやった年下男に噛まれるのが怖いだとか。そんなバカな話があるかと笑いたくても目下の悩みは鎮座し続けていて——とにかく俺は現在進行形で困っていた。暮石・仄という熱量の対処に。
逃避、其の一。こいつの言動が変わった理由を考えてみる。
俺が何かしたか? ——否だ。何も変えたつもりは無いし、まるで見当がつかないから困っている。
仄に何かあったか? ——不明だ。が、間違いなく藪蛇だ。地獄の入り口だ。聞くに聞けない。
いつからだ? ——おそらくは仄が一ヶ月も音信不通になった辺りからだ。あの時はてっきり彼女が出来たもんだとばかり、いや待て恥ずいから思い出すなやめろ。寂しかったなんて思ってねぇって言ってんだろ。
結論。俺の知らぬ間に変わったんなら考えてもわからん。終われ。
逃避、其の二。仄の最近の言動を振り返ってみる。
『はぁ。またこんなにぐでぐでになるまで飲んだんすか……ほら、満足したんなら帰りますよ。立てます?』
たとえば飲み会の終わりに迎えに来るようになった。連絡しようとしまいと何故か現れる事から目を背ければ可愛い舎弟か。エスコートじみた支え方は恥ずかしさもあれど、毎度毎度俺の足元が覚束ないせいだろうし、まぁ迎えがあるなら潰れてもいいと思えばタガも外れるもんだ。
俺の飲み仲間と面識が出来ていくのは不思議な感覚だが、雛鳥みたいに付いて回るのは俺しか知らねぇからだろ。交流先の数だけ仄の世界も広がるってんなら悪い話じゃあない。
『これ取引先からの贈答品なんすけど、消費し切れないんで。酒のつまみにどうっすかね』
『嘉六さんが好きそうな酒もらったんすよね。今晩、味見しません?』
あとは、頻繁に食いもんを寄越すようになった。稀に混じる値の張りそうなのも、だからこそ腐らすには寝覚が悪い。日持ちする乾物やら酒でも量があれば飽きも来るしな、手伝ってやるのは吝かでは無い。美味いものに罪は無い。
自然と宅飲みの機会が増えた。あれやこれやと持ち込んで、眠くなれば布団がある。帰りの心配が要らないのは最大のメリットだな。
『嘉六さん、嘉六さん』
やたらと優しい声音で名前を呼ばれるのも、前よりスキンシップに手加減みたいなもんを感じる時があるのも含めて、一連の変化を強いて言えば——結論。彼女が出来た時の練習、実験台。とは言え恋人疑惑を口にした時の必死さを思うに、下手に踏み込めば此処も地雷原の予感がひしひしとする。信ずるべきは獣種の勘だ。
逃避、其の三。ここで今日の起爆地点を探ってみる。
相も変わらず唐突に押しかけて来た仄からの要求を躱し、往なし、元の距離感を保つためにそれとなく忠告しようとしてた筈だ。
「あのなぁ、仄。この間も思ったが往来で急に詰め寄ってくるのはどうかと、」
「やっぱりキスは嫌なんすか」
被さったのは声だけじゃない。顔が近い近い。話を聞けよ。つーか、まだ言うか。
「それをやめろって言ってんだよ、ばぁか」
でこぴん一発。少し強めのそれにびくっと震えて見開かれた目は年相応の可愛げがあって——嗚呼、いつも通りだった。驚かしちまった埋め合わせに頭でも撫でてやろうかと手を伸ばしたところまで。可愛げの奥から剣呑な光がチラつくまで。
「……ねぇ、嘉六さん?」
腹一杯の鉛玉を詰めた綿菓子みたいな響きが鼓膜を穿つまでは。
逃避ついでの分析に成果は無く、仄のスイッチは見えず終いのまま。
「試してみないと、本当に嫌かどうか分からない事もあるじゃないすか」
しつこい。しつこい上に、たった今自分の額を打った指を大事そうに掴むのは何なんだ。包んで、撫でて、どういう意図がある?
「だぁから、な。そもそも何が悲しくて男としなきゃならんのかって、」
「じゃあ噛ませてください」
「……はあ?」
また遮られたという憤りよりも本気で理解不能な思考回路に物申したい。頼むから俺に分かる言語で話してくれ。あれだ、バベル崩れてんじゃねぇのか? 負けんな混沌肯定。つい世界規模で逃避しかけた意識に仄の声が忍び込む。
「キスじゃなきゃいいんすよね」
ここ、と人差し指が伸びたのは首。触れるか触れないか、紙一重の間。なぞられている感覚は錯覚だ。錯覚だとわかっていても背が泡立つのを止められない。いつぞやそこを掠めていった歯の尖りが、徐ろに開かれた唇の端から覗くのに目が釘付けになる。
「ほ、のか、ちょっと待てって……」
どうにか絞り出した静止は急所をとらえてぎらつく瞳に対してあまりにも弱い。強引に振り払えなかった手が体の上を滑り、腰に回る。伝わる布越しの温度がやけに重い。色事には慣れちゃいるが男相手にこんな真似事をされた覚えは生まれてこの方無い。
「嫌なら、ちゃんと止めてくださいね」
いやだから『待て』って言ってるだろ! ちゃんとってなんだ? これ以上、どうやったら伝わるんだよ!?
ぐるり、ぐるり、焦りばかりの渦巻く思考が一向に纏まらないうちに、くすぐったさで体が跳ねる。その正体が首筋に寄せられた仄の髪だと認識した途端、次に襲った感覚はビリッと脳天まで突き抜ける痛みだった。
「ぃ゛!?」
じくじくと痺れの残る肌の上に擦れた、硬く整った歯並び。噛まれた。理解はしても他の何も追いついて来ない。何故。仄が何を思ってそんなことをしたのか。何故。以前は拒んだそれをこうも易々と許してしまったのか。何故。突き飛ばせない。何故。逃げられない。何故——?
呆然としている間に噛み痕にもっと滑りを帯びたものを押し付けられる。ぺちゃりぺちゃりとやけに響く音が耳を犯し、首筋を愛撫するような熟れた吐息から尾の先まで一気に熱が灯された。
「ん、ッ……おい」
身動ぎ。精一杯の抵抗で漏れた小さな喘ぎを誤魔化せば仄の舌は呆気なく遠ざかる代わりに、呼吸の混じり合う距離で湿った唇を舐めずっていく。直視するにはあまりにも毒が強く、無理矢理に視線を引き剥がした先には——
「……ぁ」
——欲に濡れた、捕食者の瞳。唇も、舌も、囲う腕の檻も、生温く感じる程の燻り続けた熱に射抜かれてしまえば。
「逃げないでください、嘉六さん……」
懇願されずとも逃げられる訳が無い。たとえ、確かめるように腰から下へ滑り降りる掌が、情けなく縮こまった尾の付け根を握り締めたとしても。
「……、あンのばか」
寝惚け眼が一発で覚醒する。覗き込んだ鏡の中には無様に引き攣った顔の男がいた。首筋にお行儀良く並んでいる割に主張が激しい赤い痕が、艶かしいを通り越して痛々しい。まだ血が滲んでいるんじゃないかと恐る恐るなぞる指にくっきりと伝う凹凸。思い出したようにひりつく痛みに舌を打ってから、深々と溜め込んだ息を吐き出した。
『おやすみなさい』。そんな平凡な挨拶で、仄は散々な夜に終わりを告げた。『お願い聞いてくれて、ありがとうございました』。耳の奥に残る声の色が焼きついた視線と熱を引き摺り出してくる。
「はあぁぁ……」
初な女でもあるまいに。ガキの独占欲だかなんだかに構ってたら日が暮れちまう。当面の問題は、虫に食われたと笑い話にするには惨い噛み痕をどうやって隠すか、だ。まだ蟠る空気を限界まで押し出し、勝手に走り出そうとする心臓を黙らせる。
「絆創膏でも貼って……いや、逆に目立つか?」
薄手の襟巻きを見繕う算段を立てながら後ろ頭を掻く。声に出して、体を動かして。ぎぎぎと鈍い音を立てる舵を、俺は力づくで日常へと切った。
何度も執拗に噛み直されたそれが完全に消えるまで一週間強。不自由を余儀なくされた苛立ちを笑う下手人を殴ることになるとはまだ知らずに。
「ほら、嘉六さん、いつもガバガバなんで。良い虫除けじゃないっすかね」
「だぁほ! 人を尻軽みたいに言うんじゃねぇよ! 何の虫だ、何の!」
でこぴんも、拳骨も、今の俺にはご褒美に等しい。首元を隠すマフラーを不満げに弄る姿に笑いが堪えきれなかったのは、ほんの少し申し訳ないけど。
だって仕方ないじゃないすか。日頃からガラ空きで良からぬ輩を誘っていた無自覚な嘉六さんの方が悪いし、何よりそれが消えるまでは俺との事を意識してくれるんだと思えば——自分が付けた歯形で一喜一憂してる想い人を見て喜ばない男なんて、この世にいるとでも?
ねぇ、嘉六さん。これは