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慣性落化
登場人物一覧
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住めば都、とはよく言ったもので、こちらでの生活にもすっかり馴染んだものだと、あらためて実感する思いである。
ベッドの上で目を覚まし、身体を起こす。時計を見れば、いつもよりも眠りが少し浅い。なんだ、まだ開店まで十分もあるじゃないか。きっとその理由は、鼻孔をくすぐるものを感じたからだろう。
もこもこのスリッパを履いて、薄いカーディガンを羽織って、二の腕を摩りながら、匂いのする方へ、する方へと吸い寄せられるように脚を向ける。
気がつけば食卓。そこには淹れたての珈琲と、焼きたてのトーストが並んでいた。
その誘惑に頬が緩む思いである反面、すっと、寝ぼけていた頭が冷え切っていく。
古木・文は一人暮らしである。同居人などいない。少なくとも、文が許可している範囲には、いないはずだった。
「……いつものこと、いつものこと」
どれだけ気味が悪かろうと、珈琲に食パンにも罪はない。せっかく起きたのだから頂こうかと席について、手を合わせた。
「これも習慣、かな」
腹が満たされれば、流石に店を開けるだけもしようかと、重い腰を上げて洗面台へ。誰に見せるつもりはないが、格好がつくだけの格好は、しておかなければ。
洗面台。鏡台。映るのは当然、自分の顔。長年付き合ってきて、昨日以前でもなく、明日以降でもない。そのままの反面がそこに映っている。
当然。当然だ。だが今日は、少しだけ違うところもあるようで。
「こんなところに、鏡なんてあったかな」
洗面台に、無造作に立てかけられた手鏡。自分のもの、ではない。ではつまるところ、そういうことだろうか。
なにか違和感を感じながらも、手にとって、その面を自分に向けた。
何の変哲もない、鏡である。自分の顔が正しく映っている。それだけだ。もしや、置き忘れたのだろうか。そのように自分の中で結論付けて、顔をあげる。
そうして映った自分が頬まで裂けたような口で笑っていたから、凍りついた。
混乱する。それは一瞬のことであっても、間違いなく判断力のない時間が生まれている。手に持った鏡面と、洗面台の鏡面が向きあう。合わせ鏡、鏡の奥に並び続ける自分自分自分。それらが一斉に這い出てきて鏡の中の自分をつかむと、その奥へ奥へ奥へ引き込み始めた。
鏡像の動きは、実態と同一である。文もまた手鏡の中へと引き込まれようとしていた。右腕を掴まれる、何に掴まれているのかは見えない。いいや、見えている。鏡の奥ではたしかに自分のような何かが自分の鏡像を掴んでいる。
何本もの腕が自分のそれを秩序なく掴んでは引っ張るものだから、当然に痛い。だが今は、痛みに泣き言を言う余裕などあるはずもなく、文は懸命にふんばった。ふんばろうと、した。
すでに肘まで鏡の中に入っている。引きずり込まれいてる。どうすればいい。どこに力を込めれば良い。鏡に引きずりこまれた時の対抗手段など、想定の外だ。
腕を引っ張られる、向こう側に引きずり込まれようとしている。抵抗しても身体が振り回されて、宙を舞い、棚に思い切り投げつけられた。鏡が割れてくれやしないかと願ったが、望みというのはいつだって儚いものだ。
衝撃に息が詰まる。即座に呼吸を取り戻しはしたが、その間に肩口まで飲み込まれてしまった。鏡を見る。自分を引きずり込もうとする手鏡ではなく、洗面台の方を。
そこでは、もう一人の自分が、同じ体勢で鏡に飲み込まれようとしている。違うのは、その顔が笑っていること。裂けた笑顔で、にたにたとこちらを見ていること。
それと鏡面から、何かがこちらに出てこようとしていた。何かではない。わかる。あれは文だ。向こう側の、文の腕だ。自分を鏡合わせの向こうに引きずり込み、こちら側に来ようとしている。
成り代わろうとしている。
文は理解した。おの手鏡を置いたのが、向こう側にいるあいつらだ。あれらは何かをして、こちら側と入れ替わろうとするものなのだ。
平時の警戒心を持ち合わせていれば、手鏡を合わせになどしなかっただろう。もしくは自分のものでないことを確信するやいなや、叩き割っていたかもしれない。
そうはしなかった。
自宅であることに慣れていた。自分のテリトリーにすら、何かが混入することを知っていたはずなのに。では混入にも慣れていたのか。その通りだ。古木・文は、自分の領域に何かが混入している状況に慣れてしまっていた。
慣れとは恐ろしいものだ。非日常すら受け入れ、警戒してしかるべき異常にも気づかない。いや、気づいていた。彼女が文の使わない手鏡など置いておくはずがないと。だというのに、それすらも警戒すべきではないと判断を鈍らせてしまった。
その結果、今まさに文は自分を失おうとしている。鏡に引きずり込まれ、無限の合わせの中に閉じ込められ、向こう側のなにかに成り代わられようとしている。
じたばたと抵抗しても、徐々に、徐々に身体を向こう側へ。そして鏡からは文ではない何かがこちらへ来ようとしている。
(鏡を、割らなければ……!)
こういったものの正解が、存外にシンプルであることを文は知っていた。
鏡から出てくるのなら、鏡を割ってやればいいのである。手鏡を、ではない。これは今や穴だ。向こう側に通じる穴になってしまっていて、その鏡面を割ることは出来ない。
ならば洗面台のそれを割らなければならない。だが手を伸ばしても、足を伸ばしても、とっくに文のそれは届きはしない。先程投げ飛ばされた際に、すっかり距離は開いてしまっていた。
近づけさせて貰えない。その間にも、飲み込まれていく。飲み込まれていく。頭が浸かり、眼が向こう側へ。そのこは黒だった。何も見えない黒。もしくは、文にその光景が処理できていないだけなのかもしれない。それほど、古木・文にはその光景が虚無に映った。
そのまま飲み込まれるかに思えた、が。
不意に、文はこちら側へと引き戻された。尻もちをついたような衝撃。顔を上げれば、洗面台の鏡が割れている。誰がやったのか。そんなことを考える前に、落ちていた手鏡をつかむと、迷わず叩き割った。
鈍い音がして、破片が飛ぶ。その上から、スリッパの足で踏みつけ、踏みつけ、踏みつけて、丁寧に細かく割ってやった。
そこまでして、やっと一息をつく。その場で崩れ落ちると、大きくため息をついた。
きっと、これで、もう大丈夫。
「今日は、休業にするしかないな」
この場を片付けねばならないことを思うと、気が滅入る。暴れまわったせいか、喉がカラカラだ。
「はい、アイスでいいですか?」
「え、あ、うん。ありがとう」
アイス珈琲を受け取って、一気に飲む。喉が癒やされて、今度こそ脱力したように息を吐いて、軽く頭を抱えた。
まあ、そういうことなのだろう。
「とりあえず、絆創膏でも贈ろうかな」
グラスを差し出してくれた手を思い出しながら、文はつぶやいた。
本当に、慣れとは怖いものだ。