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裏鹿郎党讐覚書
登場人物一覧
●(うらろくろうとうむくいりおぼえがき)
冬の雨は残酷なもので、浴びるものの熱を、体力を、果ては生命を容赦なく奪っていく。
とは言うものの大げさな話で、ようは傘をさすなり、屋根の下にいるなりすればいいわけだが、今この瞬間、その男にとってはどれも難しいものだった。
逃げている、逃げている。
呼吸の音が荒い。血流の音が耳で感じられるようだ。太ももの筋肉はとうに悲鳴を上げ、休むことを提案してくる。
それでも、立ち止まれない。立ち止まって、傘をさすことすら許されない。
雨は急速に男の体温を奪い、消耗を強いていく。
がは、と。
呼吸が詰まった音とともに、男は脚をもつれさせ、その場に倒れ込んだ。
頬と手のひらが擦れあったアスファルトで薄く削られる。ぷつりぷつりと赤いものは滲み出すが、雨はそれすらも餌と見たか、無慈悲にも洗い流していった。
呼吸を整えようにも、うまくいかない。立とうとしても、ままならない。
限界をとうに迎えた肉体と、追われ続けているという焦燥感が、体を自由に動かすことを、許してはくれない。
不安感が増していく。それを誤魔化すために、さっきからずっと、自分に言い聞かせている。
大丈夫だ。大丈夫だ。もう十分に逃げた。ここまでは追ってこられない。あの体格を見たか。まるで子供だったじゃないか。すぐに諦めているに決まっている。追いかけてきているはずがない。自分を見失ったに違いない。大丈夫。きっと助かる。助かるに決まっている。
そんなわけがなかった。
不意に、雨が遮られる。誰かが自分を見下ろしているのだ。傘をさした誰かが自分を見下ろしていて、それが雨よけになっているのだ。
駆けずり回って転がり込んで、とっくにずぶ濡れになってはいたが、それでも濡れ続けることは命に関わる。誰が傘をさしてくれたのだろうと、ややぼやけた視界を取り戻そうとして、取り戻して、表情が凍りついた。
「おにーいーさん。そんなにずぶ濡れで、風邪でもひいたらどうするんじゃー?」
ままならない呼吸は、悲鳴さえ満足にはあげさせてくれない。掠れた何かが漏れて出るに過ぎない。
それは、少女のようだった。幼い。幼いように、見える。木と紙で出来た傘をさして、自分を上から見下ろしている。
へいせなら、それを無邪気な笑顔と呼んだかもしれない。そのような感想を抱いたかもしれない。でも今は、それが悪意の凝り固まったものに見えて仕方がなかった。
「こんなところで風邪でもひいて、おっちんでみい。儂が恨みをはらせんじゃろう。なあ?」
指先に痛み。踏まれているのだ。体重が軽いとは言え、アスファルトと靴のプレスは無視できるものではない。
「ようやっと見つけたわ。まさか、もうとっくに許されたとでも思っとったか?」
声は出ない。反論したくても、何も言えない。
だって、そんな。言い訳をしたくなる。弁明をしたくなる。
確かに、確かにだ。この少女の情報を、さらに言えばその家の情報を売ったのだ。男は数年前、あやかしの驚異にさらされた。対抗するすべを持たない彼は、少女の家を頼ったのだ。あやかしの討伐屋。専門家。鹿王院を。
それで終わればよかった。客と専門家。それだけで終わればよかった。しかし男は欲をかいたのだ。
男に別の術者から話を持ちかけられたのは事態が解決して数日後のこと。いくばくかの金銭で、鹿王院の情報を売れと持ちかけられた。それは、男がふたつきは働かねばならないほどのものであったので、二つ返事で了承してみせた。
見たものを誰にも話すなと、言われていたのに。それに、大したことではないと思っていたのだ。軽く見ていたのだ。所詮はいち依頼人。それが見聞きしただけの情報で、なんの価値があるのかと。
結果が、今に至る。
この少女は、男の裏切りを咎めるためにここにいる。数年後しに、その罪を贖えと追い詰める。
そんな、何年も前の、あんな些細な事で。そのような言い訳を、少女は許さない。
「こっちに来てからの、どうにも、恨み言というのは忘れられん。とくに、家族が受けた害は、どうにものう」
その瞳が、恐ろしく輝いて。
男は声の整わないまま、誰にも聞こえぬ、悲鳴を吐いた。