SS詳細
Imaginary time
登場人物一覧
No.p3p010878
症例:人魚姫症候群
真珠の塔と呼ばれる白い病院に一人の患者が入院してゐた。
前任が遺した分厚い
指を組み、目前の生存者(しょうじょ)を
船の上から忽然と失踪した少女は、
怪談噺を聽いているやうだぜと前任の醫者は笑っていた。快活な男であったが女癖が悪いのが偶に傷であった。
彼が居なくなって一週間が経つ。前任者の失踪は病院側にとっては恥ずべき……隠匿すべき事項の一つであるようで、此の若い醫師は己が担当になる患者について何も識らされていない。
「はじめまして。貴方が、新しいお醫者様ね?」
中學を過ぎたばかりの少女の聲はメヰプル蜜のように甘く、ひたひたと心地よく耳朶に響く。
仏蘭西人形のやうに行儀良く座る少女が小首を傾げた拍子に、豊かな白銀の髪が
「
開いた診療録には僅かに肉のついた茜色の鱗が栞代わりに挟まれている。
紅を塗った付け爪にも見える、其れ。
――厭、厭ァッ!! 剥いで、此んなもの、無くして
お願い。お願いよ。
そうじゃないと、わたし、還らないといけなくなるわ。
そう成るのは厭。そう為るのは厭なのッ。
海馬が唐突に、目の前の少女と処置室の悲鳴を結び付けた。
死んだ珊瑚のような白く冷たい手足。痛みで正気を失った甲高い絶叫。救急搬送室に満ちた血の香りと涙に濡れた薄紅の瞳。
小指大程の、この小さな鱗が彼女の脚から剥がされたものだと誰が信じるであろうか。
大人四人がかりで必死に押さえつけたにも関わらず、彼女の自傷は止まらなかった。以来、己を傷つけることが無いやうに彼女は帯革のついた白い拘束具で軀の自由を奪われている。
「どうか、なさいまして?」
あの日、鮮血のなかで魅せた狂乱の名残りなど露とも感じさせず、純朴な白貌で尋ねる少女の薄紅の眸は不安と好奇に
「わたしはヰニイ。貴方のお名前は?」
困ったように微笑む桃色の唇には既に女性として完成された美しさが覗いている。
ハの字に下がった幼気な眉や、今にも折れそうな華奢な輪郭は、庇護と嗜虐の心を同時に刺激するものだ。
恐らく、前任者は彼女に堕ちたのだ。
そして近い未来、己もそうなるのだろう。
醫者は名を告げると貴女のことを敎へて欲しいと乞うた。
わずかに微笑んで、少女は其の願いを叶えることにした。
●線形回帰の標本採取
暗い海を白亜の船が滑るように進んでいく。
リゾート地を巡った豪華客船は最終日の夜を華々しく迎えていた。
帆桁には水飴色のランタンが星座のように連なり、湯気立つ豪奢な料理や透明なワイングラスを照らしている。
潮風のなかで頬を染めて歓談する人々は皆、煌びやかな衣装と宝石に身を包んでいた。
ヰニイもその一人だ。
赤香色のワンピースにアンクルストラップのついたパンプスは、子供でも大人でもない境界にいる少女をいっそう神秘的に見せている。
潮風除けに羽織ったパステルコットンのケープは色白の肌を春のように色どり、銀星と黒曜の髪は海風と戯れるように揺れていた。
彼女の父母はこういった煌びやかな集まりに出席することを好んでいた。
「こういった」と云うのは洋上で開かれる
気心の知れた友人たちと小さな帆船の上で行うこともあれば、今夜のように船長が主催した晩餐会に招かれることもある。
二人の来歴から考えると、そういったパーティへの参加は至極当然のように思われた。
贅を尽くした海上は
では二人の娘、ヰニイにとっては如何なのかと問われると……中々判断に苦しむところであった。
華やかな舞踏会に対して好ましいという感情を持っているヰニイだが、まだ中学生である。
来週から新しい学期が始まるし宿題も残っている。そんな状態で非日常の歓楽に浸れるほど、呑気な性格にはなれなかった。
更に間の悪いことに今夜の客層は素行と礼儀を学んでいない者が多く、声をかけてくる大半がヰニイを素通りして父母への
時にはヰニイの容姿について言及してくる者もいたが、まるで装飾品のような言葉でヰニイを褒め讃えた。
父母の特徴を受け継いだヰニイは目が覚めるほど美しい少女である。
枕詞に「恐ろしく」と付けられるほどで、そんな誉め言葉を向けられてもヰニイはちっとも嬉しくなかった。
ヰニイの父母は娘のことを目に入れても痛くないほど可愛がっていたので、そういった失礼な相手には丁重にお帰り頂いているものの、寄ってくる数が数なだけに次第に作り笑顔も曇っていった。
温和な両親の額に青筋が浮かぶ所は見たくない。
二人がヰニイを大切にするのと同じ位、ヰニイも二人のことが大好きなのだ。
ヰニイは礼儀と品格を忘れない淑女である。だから両親に少し疲れたから風に当たってくると言って騒がしい社交の場を後にした。
両親も止めなかった。
ヰニイが何を思ってこの場を後にしたのか察していたからだ。
人気のない通路を探しながらヰニイは歩いていく。
船の灯りに照らされた暗い海には金や銀の波飛沫が浮かび上がっていた。
ようやく一人になれたという開放感と待ち望んでいた静寂。息を吸うたびに胸がすうっと軽くなる。
彼女は出逢いを探している。
もしかしたら遊びに行った先の海で。
もしかしたらこの船で。
運命の出逢いを探し続けている。
ヰニイは戀がしたいのだ。
甘くて優しくて、けれども狂おしいほどの激情を宿した。
そんな戀が、したいのだ。
今日こそと待ち焦がれる気持ちを歌に乗せる。
空に向かって桜貝のような唇を動かせば、小さな旋律が美しい泡のように空気へと溶けていく。
船の手すりに両肘をのせれば、足元には昏くて深い海が広がっていた。
そして。
「誰かいるのか?」
船内から出てきた船員が薄暗い通路を見渡した。
「歌声が聞こえた気がしたんだがなぁ」
しかしそこには誰もいない。
「気のせいだろ。行こうぜ」
「……そうだな」
ヰニイは運命の出遭いを果たした。果たしてしまった。
冥い海に浮かぶ波紋に気づく者は存在しなかった。
ヰニイの捜索が本格的に始まったのは、それから数刻後のことだった。
ボートを出した父は娘の名残りを見つけ出そうと目を皿のようにして暗い海を探し、髪を振り乱した母は聲を枯らしながら波間に飛び込もうと身をよじった。
心有る船員たちは身を凍えさせながらランタンで船内を駆け巡ったが、ヰニイの行先につながる証拠は何一つ見つけられなかった。
喉から黒い血が滴るような夜が過ぎ、絶望と悼みに沈んだ船は白々とした明けの明星が消えた頃になって港へと寄せた。
そこでヰニイの両親は聞いたのだ。
浜辺に誰かがいる、と云う叫び声を。
肌は海蛍よりも蒼白く、流れる銀糸は蜘蛛糸のよう。
濡れそぼったワンピースが張り付いた両脚は魚のようで、陸に倒れた彼女のことを人魚だと見間違えたのも仕方がないことだった。
海の底で一晩中過ごしたにも関わらずヰニイは生きていた。
そして真珠の塔に運ばれた。
しかし喜びは束の間、見つかった彼女の身体には異変が起こっていたのだ。
「ねえ。見て」
ほっそりとした少女の手が身に纏った純白の布地に添えられる。
緞帳のように
「
翳りのある長い睫毛を伏せて弱音をこぼす。
「このままじゃ、わたし、戀ができなくなってしまう。そんなのは厭よ。だって、そんなの退屈でしょ?」
突如として身を蝕みはじめた異物に怯えるでもなく、ただ海のなかで戀ができなくなるのが恐ろしいと少女は告げる。
それは彼女を蝕む狂気の断片が初めて表に出てきた瞬間だった。
「あっは」
渦巻く感情は制御を外れたまま、誰かを愛したいと言う欲望に塗り潰されていく。
「だからさ、せんせい。アタシに戀を教えてよ。ね? アタシ、悪い子だから我慢できないの」
少女の口調がガラリと変わり、瞳が妖しい紅の光を放つ。舌で唇を湿らせる姿は先ほどの令嬢然とした風貌とはまるで異なった、濃密な夜の気配を宿していた。
「それとも、新しいせんせいは善い子のわたしのほうが好み?」
返事はない。
「せーんせ?」
返事がない。
白くて四角い部屋のなかには解けた白い拘束具を身に纏うヰニイが独り。
赤くて丸い水たまりの上を歩けば、ぴちゃりと音を立てて白い裸足が紅く汚れる。
「……せんせい?」
鏡の裏を覗いてはダメ。
冬の夜みたいな黒い影が潜んでいるから。
「……お醫者さま?」
昏海に潜む其れを
耳の奥で灰色の星が囁くから。
自由になった両手で冷たくなった男の頭を掬いとる。
『嗚呼、アーア、また壊れちゃったあ』
ぽとり、ぽとり。
薄紅の眸から透明な雫が落ちていく。
海の雫が汚れた床と混じあう。
ぽとり、ぽとり。
手にした
どうしてこんなところにナイフがあるのか。どうしてナイフが血塗れなのか。どうして彼は倒れているのか。どうしてヰニイは自由に歩けているのか。
理解不能。意識が現実の情報を拒絶する。
唯々、突如として遺骸と化した醫者にヰニイは混乱した。
前にもこんなことがあったような?
前って、いつのこと?
そう。あの日から全てがおかしくなってしまった。
何があったの。どうして何も思い出せないの。
わたしは
でもアタシは
思考のノイズが明確な輪郭を得て浮かび上がる。
『つぎのせんせいも
ヰニイの軀を動かす『其れ』は暢気な聲でそう言った。
●アフィン写像の認識
其れは昔から何処にでも存在していた。
敢えて此の物語に登場する個体に限定して言及するなら、其れは生存競争であったり、蜃気楼の無関心であったり、感情を持ったヒトの濁りが長い年月をかけて降り積もった海の澱だった。
其の日、其れは海の上で輝く歪な光に惹かれて、海面まで昇ってきていた。そういった光に近づけば黝く濁った感情で胎が膨れると知っていたからだ。
黒々とした海面から顔を出せば透き通った聲が天から降り注いだ。
そこには少女がいた。銀真珠のように美しい少女だった。月に向かって歌う幻想的な姿はまるで幽世の民のようで――……其れの視界は怒りに紅く染まった。
其れから流れ出した黒々とした血が幾筋もの鋭い槍の穂先と化して、少女の胸を貫く。
「――かふっ」
驚きに目を開きながら、少女の喉は音の代わりに真っ赤な血をこぽりと吐いた。飛び散った鮮血は闇に染まり、墨色の海へ溶けていく。
それでも足りぬとばかりに黒い海蔓が華奢な少女の手足に絡みついた。
月に還してなんかやらない。
冷たい石みたいに海の底に沈めばいいわ。
とぽん、と軽い音を立てて小さな銀が船から墜ちる。
海月のように沈んでいく少女の躰を、其れは愉快な気持ちで見下ろした。
気を取り直して船上から溢れ出す欲望や怒りを雨のように浴びたが一向に「快」がやってこない。
其れは不思議に思った。
胸に不明瞭なしこりが残っているようだ。それが理由で思考が妨げられている。
其れは方向性の分からぬ苛立ちを募らせていく。
どういうこと?
さっき殺したあの娘のせい?
自分が彼女の愛らしさに嫉妬しているとは認めたくなかった。美しい歌声に聞き惚れていたとはもっと認めたくなかった。
けれどもあの歌われていた感情……戀という概念には全身が泡になるほどの衝撃を覚えたのも事実だった。
しりたい。
長い茜色の尾びれを動かして其れは意を決して暗い海底へと潜っていく。
湧き出る己の本能を制御できるほど、其れは理性的な存在感ではない。
事象を観測した時点、即ち零地点での快か不快かによって其れの行動は決定されている。
故に其れは「今」の感情を起点に動くのだ。
娘は小さな気泡と淡い鮮血を漂わせながら暗黒の世界を揺蕩っていた。
長い長い布の尾鰭が海の中を揺れる様は、南国の海藻や淡水でしか生きられない観賞魚のように美しく脆弱だ。
此れのお腹をぱっくりと裂いて、紅い薔薇のような腸が海をただよう様を想像する。
ダメダメ!! なんて勿体ない!!
其れの思考は気まぐれでうつろいやすく多感で、即ち乙女に近い属性を持っていた。故に常人では理解することすら難しい。
其れは海の底で思うままに此れを分析することに決めた。
所謂「人間のおんなのこ」と呼ばれる生き物であると知識は或るものの実物を間近で見るのは初めてだ。そもそも其れは生きた状態のものを身近に置く事が滅多にない。
どうして此れはまだ生きてるの?
普段なら其れが貫くだけで魂が砕けた躯と化すのに、此の美しい聲の持ち主ときたら朝焼け色の瞳を閉じたまま海を揺籃代わりに眠っている。
まるで人の形をした魚だ。
実際、流れる血の属性は其れにとても近い。
『
嗚呼、そうなんだ。
屹度『此れ』は
理解すれば明快で単純な答えだった。人ならざる者とはいつだって非常識な回答を導きだすものだ。
『かわいいかわいい、妾の真珠』
だから海の
先ずは損壊を修復しないと。
●
前任が遺した診療録カルテには、繪本でしかお目にかかれない単語がずらりと並んでゐる。
訪れた年老いた先達は大きく長々としたため息を吐く。
こんな子供が、既に何人も手をかけたとは信じがたい。
しかし真実なのだ。
「はじめまして。新しい先生ね?」
彼女か。それとも彼女なのか。
今日の彼女は一体どちらなのか。
それが問題だ。
No.p3p010878
症例:
夜妖識別名:
おまけSS『いつか王子様が』
昔々ある所に、本当はつい最近の混沌ですが、幸せな人形姫と王子様が召喚されました。
どこかの世界のある時間軸では悲劇的な別れをしなくてはいけない二人でしたが、運命の悪戯が不幸な終幕を迎える前に二人を別の世界によこしたのです。
もはや二人の戀を邪魔する者は誰もいません。
これ幸いとお姫様と王子様は結ばれました。
しかし紙面にハッピリィエヴァアフターの文字が付与されても、死なない限り登場人物の人生は幕裏で続きます。
混沌に召喚された二人は結婚して子供を授かりました。
それがヰニイでした。
ヰニイはすくすくと育ち、美しい娘へと成長しました。
ですが、彼女の生活はけして平凡ではありませんでした。
何故なら彼女には夜妖が憑いていたからです。
本来であれば人間と夜妖はけして相容れぬ存在です。
しかしながら彼女たちは何とか上手く調整しながら生活を続けていました。
そう、二人の男性の趣味は似ていたのです。
それは正に奇跡と呼べる一致でした。
だから一人と一匹は今日も仲良く手を取り合って……戀を向ける相手を探すのです。