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しっぽを食べてくださいですの
登場人物一覧
いっそあの日送った彼への手紙を、なかったことにできればいいのに。
時おり、そう考えることがある。今、自分を襲う苦しみは、きっとあの時から始まったに違いないから。
何故したのか解らない恋だった。いや、それが『恋』だったからこそ、恋なんて遠い国のお伽噺でしかなかった自分にも唐突に降り掛かったのだろう。
そして、同時に知ってしまった──物語の中で「身を焦がす」と表現されている恋は、てっきり返事が届くまでの遣り処のない想いを、あるいは断られた後の諦めきれない感情を指しているとばかり思っていたのに。だけど本当の恋の苦しみというものは、告白を受け入れて貰った後にやって来るということを。
今だから言える。海の中を漂うことしか知らなかった少女にとって、彼はあまりにも眩しすぎたのだ、と。
力強く、逞しく、自分が護りたいと思ったものは何でも守れるように思えるゴリョウ。一方で、常に捕食者たちの影に怯えていた自分。
得意の料理は勿論のこと、一通りの身の回りのことには困らない彼。対して、寝床らしい寝床を持たずに海流に流されるままの生活だったのが祟って、家事とてお手伝いの域からはみ出せない自分。
仕事でも、普段の日常においても太刀打ちできないと互いを見比べてしまう。そして、判らなくなってくる……自分が彼の隣に居続けることが、本当に彼にとって好ましいことであるのかが。
──ゴリョウさんは、おやさしいですから、そんな心配はいらないと、おっしゃるでしょう。
きっとそれは嘘でも無理して自分を気遣ってくれているわけでもなくて、本心から彼はそんな些細なことで自分を嫌いになったりするつもりはないのだとは知っている。
でも……「隣にいてくれるだけで十分だ」と囁かれ、本当にただ隣にいるだけで済ませられるほどの厚かましさは、どれだけ求めても手に入らない。自分の中での納得がゆかない。まだ正式に式を挙げたわけでもないというのに、今から「嫁さん」と呼んでくれる彼……その呼ばれ方に恥じない自分になりたいと冀うがために、こちら側から彼を支えられていない自分が辛い。
もし、二人の関係が終わってしまえば、こんなに苦しい想いなんてしなくても良くなるのではないか?
そうは思えども結局は、彼の傍にいたいという願いには蓋などできず仕舞い。
対等になりたい、なんて贅沢を言いたいわけじゃない。たった一つだけでいい、これだけは彼に頼ってもらえるという役割が欲しい。
……なのに、どれだけ海を自在に泳げたところで、陸で生きる彼の助けになれる機会は限られているだろう。どれだけ透明なしっぽが美しかったところで、それを伴侶としての価値と呼ぶのは烏滸がましいだろう。
だから……できることは一つだけ。
――この、自慢の、つるんとしたゼラチン質のしっぽを、さしあげることですの。
解っている。自分のために『嫁さん』が自身の体を傷つけることなんて、彼は決して望まないことを。自分は実は自身を傷つけることに悦びを感じる人種なのだ、なんて言い訳をしても、彼はそれが嘘だと見抜いてしまうことを。
だけど……彼は、美味しいものを作り、振舞い、自身も味わうことに満足を感じて。
自分は、海では巨大肉食魚たちによく追いかけ回されていたくらいだから、もちろん自分自身で味わったことなんてないけれどきっととびきり美味しいはずで。
だったら、このしっぽを愛しのゴリョウさんに食べてもらえば、必ずや彼を満足させられるはずではないか。だから彼に対する献身として、これ以上のものはきっとない……。
それが未来の妻としての立場を捨てて養殖人魚という家畜に成り下がることだとは、決して思わない。もしもその指摘が真実であったとすれば、自分を慕う少女のために――それだけが目的ではないにせよ――田を耕し、稲穂を育て、刈り取って美味しい料理にしてくれる彼のことも奴隷と呼ぶのだろうか?
そもそも、一度切ったしっぽを再生させるための
ナマコの内臓、巻貝の腹足、甲殻類の脚……海には自切する生き物も少なくはないから、体なんて生存のための
自分の命は陸に住む太陽の下で文明を謳歌する人々と比べればずっと安くって、自慢のしっぽはそんな自分よりもさらに安い。それは生まれてから召喚されるまでの日々で学んだ自然の法則であって、今更変えられるものだとも思っていない。
何より、自分は誰よりも価値のない存在だということは、たった今も隣に立つ人物によって、現在進行形で証明され続けているではないか……もしもその証明が間違いであるのなら、自分はこんなにも苦しんでなどいないというのに。
自分に絶対値としての価値がないとは言わない。何故なら、こんなにも愛しい素敵な人が、自分に真剣に向き合ってくれるのだから。もしも本当に自分に彼の伴侶としての価値だけでなく、人としての価値すらないのであれば、彼が自分のことを大切にしてくれるはずなんてない。
むしろ、しっぽ程度を切った程度で彼の役に立てるだなんて考えるのは、自分に思い上がりにも近い自信がなければできないことだと自負さえしている。ただ、他の人が……そして愛しのゴリョウさんが、それよりも遥かに素晴らしいというだけで。
だから……もしも、わたしも素晴らしい人だと認めてくださるのなら。
どうか……わたしのしっぽを、食べてくださいですの。
そんなお願いに彼が首を縦に振ることなんて、ないとは解っているけれど。
それでも、いつかは、と祈らずにはいられない。
何故なら、わたしは恋に落ちたから。