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徒花の棘
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ブーゲンビリアは夏の花だ。青空の下で鮮やかな紅紫の花を咲かせる。
実はこの紅紫の部分は花びらではなく葉っぱなのだと、教えてくれたのは誰だっただろうか。
苞と呼ばれる花を包む葉が赤紫に染まり、まるで花の様に見える。
実際の花は尖端に咲く黄色い小さなものらしい。
だから、『貴方しか見えない』という情熱的な花言葉の裏には『薄情』が付く。
――そのブーゲンビリアが今日枯れた。
冬の寒さに弱い花だから、年を越すのは難しいと思っていた。
水分はまだ残っているだろうが根が寒さで凍ってしまっている。
それでもほんの少しだけ生きながらえたのは、正純が丁寧に育てたからだろう。
「痛……」
正純の指先にブーゲンビリアの棘が刺さる。滲んできた赤い血が涙のように指先から落ちた。
この小さな棘は花になれなかったものらしい。
咲けぬのなら、せめて他の花を守る棘となる。そのいじらしさに共感を覚え、同時に花になるのを諦めたことに意気地無しと詰りたくなった。
あんなに鮮やかだったブーゲンビリアが、今は見る陰も無く色を失い横たわる。
青空の夏の日、胸の奥に弾けた感情に蓋をした。
悪い夢を見たからだ。鮮烈なる花に彩られた一夜の夢。
その悪い夢の中に出て来た遮那は十六歳。同じ年齢になった現実の遮那は、まるでその夢から出て来たみたいに『青年』へと成長していた。
だから、否応なしに思い出してしまうのだ。耳元で囁く声と切ない琥珀の瞳を。
自分の中に湧き上がる気持ちを認めてしまえば、傍に居られなくなる。
正純はずっとそうして蓋をしてきた。
それなのに、ブーゲンビリアが今日枯れたから、とても悲しくなって。同時に蓋が壊れてしまった。
「嫌ですね……」
侵食するように指先から寒さが這い上がってくる。
身震いをした正純は枯れたブーゲンビリアを撫でて金の双眸を伏せた。
朝の陽光が正純の紫黒の髪を撫でて地面に落ちる。
星の社の階段をいつも通りに下りて、高天京の通りへ歩を進めた。
活気溢れる朝の大通りで、正純は遮那がお気に入りの和菓子やへと顔を出す。
「ごめんください。饅頭を六つください」
いつも通りこしあんの饅頭を六つ注文してから、しまったと正純は眉を下げた。
遮那と正純、柊吉野と御狩明将、使い魔の望……浅香灯理の六人分だ。
今までと同じように六人分の饅頭が入った包みを見た遮那はどんな顔をするだろうか。
もしかしたら、悲しんでしまうかもしれない。それは嫌だなと正純は視線を落した。
かといって此処で一つ食べてしまったら、五つしか入っていない――灯理の分が無くなった――包みを見て悲しんでしまうのではないか。
遮那は時折、夏の写真を広げては切ない溜息を零す。
それは決まって仕事で難しい事を考えねばならないときだ。
以前なら的確なアドバイスをくれる灯理が居た。
けれど、その灯理は魔種となり遮那が打ち倒し決別した。
最期まで灯理は遮那たちの事を気に掛けていたらしい。
お互い親友同士で深い絆で結ばれていた。彼が居なくなったことは遮那の心に深い傷を残しただろう。
もし、自分が居なくなってしまえば、同じように悲しんでくれるだろうか。
深い傷を残すことが出来るだろうか。
「……」
されど、あの親友の灯理と自分が同等の重さなんてありえないと否定する。
「はぁ」
小さく溜息を吐いた正純は饅頭が六つ入った包みを持って天香邸へ向った。
雪がちらつく天香邸の庭は静謐を讃え、まるで風景画のようだった。
美しく整えられた庭木と彩りを添える花々。少しだけ雪化粧を残して調和を取っている。
「おお、正純。来ておったのか」
「おはようございます。遮那さん」
琥珀の瞳を細め「おはよう」と返す遮那が正純の視線を追いかけて庭を向いた。
「いつも来てくれてありがとう正純。其方が居ると背筋が伸びる」
「それは良かったです」
遮那が前を向いて真っ直ぐに歩んでいけるように、横道に逸れないように見守ると誓ったあの日から。
正純は遮那のお目付役だ。
少年達が騒がしく楽しげな笑顔を見せる時も、冷静に未来の目標へ向けて背を押す。
明将などは慣れているから遊び足りないと文句を言うけれど、遮那はハッとした表情を浮かべ執務へと戻る事が多かった。
本当は好きなだけ遊ばせてやりたかった。屈託の無い笑顔を見たかった。
けれど、正純が自分に課した役目は遮那が正しい道に進めるよう見守る事だ。
一緒に遊んではしゃぐのは明将達に任せればいい。
小言ばかりで嫌われてしまうのではないか、そう思う事もある。
頼れる姉貴分だと遮那は言ってくれるが、内心は疎ましく思っているのではないか。
されど、遮那はそんな正純の思考を吹き飛ばすかの如く、笑顔で感謝を述べるのだ。
其処に偽りの言葉など無い。遮那は嘘を吐くのが下手だから。
純粋で穢れ無き黒の翼。その背を見守っていくのが正純の使命だ。
それなのに――
どうして、今日は遮那の顔が上手く見られないのだろう。
朝、ブーゲンビリアが枯れてしまったからだろうか。
嫌だなと思う。
溢れ出る感情は、遮那の周りの女の子が彼へ向けるものと同じもの。
自分は姉貴分なのに、こんな感情を弟分に向けていいはずがない。
だって、姉と弟だから気兼ねなく遮那は話しかけてくれるのだ。
こんな『私』に笑顔を向けてくれるのだ。
其処には信頼があり、親愛がある。
姉である蛍を親代わりに育った遮那が、彼女を自分に重ねていることは分かっている。
だからこそ、その信じる心を崩してはならない。遮那から『蛍の代わり』を奪ってはならない。
分かっているのに。
「遮那さん……後を向いて貰えますか」
「おお、髪が乱れておったかの」
素直に後を向いた遮那は照れくさそうに頬を掻いた。
その瞬間、遮那の背に重みが触れる。正純が遮那の背中に頭を預けたのだ。
「うお、どうしたのだ?」
遮那の背に額をつける正純に驚いて声が上ずる。
あんなにも頼りなく悲しげな小さな背が。今はこんなにも大きくなり骨張っている。それは正純を包み込めるぐらい大きな『男』の背だ。
寄りかかれば倒れてしまうような儚さはもうない。
だったら、いっそのことその腕の中に抱かれてみたいと懸想する。そんな自分の思考が嫌になる。
その背を支えて行くと決めたのだ。成長を見守り時には手を差し伸べると覚悟した。
遮那の大切な人の命を奪う一矢を射たのは自分だから。
だから、はしゃいで遊ぶ遮那達の時間を何度も遮って仕事に戻らせた。
最初は贖罪であったことは否定しない。
己が追うべき罪の証を遮那に求めたのだ。遮那が居る限り自分の犯した罪を実感できる。
痛みが己がまだ生きているのだと示してくれる。そうやって自分を縛り付けた。
ところがどうだ、実際は健気な遮那を傍で見ている内に情が湧き、親しみを覚えるに至った。
罪の証だからと線を引いて己を傷つける役目を押しつけたのに、いつしか愛おしさが溢れていた。
可哀想な遮那。
健気な遮那。
前向きな遮那。
いつもその背を見守っていたのは正純だった。
だからこそ、分かってしまうのだ。
己の『心』を自覚しようとも、それが自分に向くことが無いのだと。
自分自身の中で遮那は罪の証であろうとも、実際に他人から傷つけられるのは嫌だった。
なにより、この気持ちを伝えた所で遮那が思い悩み拒絶の言葉を口にせねばならない、その状況こそが正純は嫌だったのだ。
だから、この想いを伝えることはない。
「正純?」
頭を預けたまま押し黙った正純へ不安げな声を零す遮那。
「遮那さん、大きくなりましたね……あの泣いていた弱くて頼りない貴方はもうどこにもいない」
寂しくもあり、誇らしくもあった。
遮那の背に頭を預けたままの正純の瞳から一粒涙が落ちる。
お終いにしよう。
この恋心はもう、涙と共に忘れてしまおう。
明日も遮那の背を押してあげられる、支えてあげられる姉貴分でなくてはならないのだから。
「泣いて、おるのか?」
「……いいえ。泣いてなどいません」
だから、振り向かないでほしい。自分の恋心と決別をしている最中なのだ。
「正純、私は其方に頼ってばかりだ。泣いてしまいそうになった時も、其方の瞳を思い出すと奮い立たねばならぬと勇気づけられる。でもそれは、裏を返せば正純が気丈に振る舞っているだけではないのかと、思う様になったのだ。私を見守ってくれている其方とて人間だ。悲しみに暮れるときも、怒りに駆られどうしようも無い時もあるだろう」
くるりと振り返った遮那は正純の頬に流れる涙を見つめる。
「私も少しは成長したから、其方の涙を拭くぐらいは出来る様になったのだぞ。正純から見ればまだまだ頼りない弟分かもしれぬが、悲しい時には気丈に振る舞わなくても良い。其方の事を姉のように想っているからこそ頼って欲しいと思うのだ」
遮那は懐から小さな手ぬぐいを取り出して正純の涙をそっと拭き取った。
「……少しお別れをしていたんです。大事な自分の気持ちに区切りをつけていました」
「そうか、悲しい事があったのだな。無理はするなよ」
心配そうに見つめる遮那の琥珀の瞳が眩しい。
いくら身体が成長しようとも、その溢れんばかりの瞳の輝きは色褪せることは無い。
太陽のような明るさで周りを笑顔にさせるのだ。
――小金井・正純は貴方に恋をしました。
許されないと分かっていたから、蓋をしたのに、零れる程溢れてしまいました。
けれど、伝える事はできないこの気持ちとは決別しようと思います。
伝えてしまえば傍には居られないから。
まだ、その背を見守っていたいから。
だからどうか、私の気持ちに気付かないでほしい。
貴方の答えなんて決まっているのだから。