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遠い日のかぎろい
登場人物一覧
野花が咲いていた。
美しい白い花だ。花弁に雨の滴をたっぷりと含んだそれは嘘泣きでもしているかのようにぺろりと滴を落とす。
その花を母に持ち帰れば喜んでくれるだろうかと少年は心を躍らせた。柔らかな白い髪を春風に遊ばせながら帰路を急ぐ。
母に似た美しいその顔立ちは誰が見ても母の子供だと言われた事で、少年の中では大切な母との『絆』のようにも感じていた。決して裕福な暮らしでなくとも優しい両親と過ごす毎日が少年にとっては幸福で満ち溢れていたのだ。
少年――ジェイドの母は旅人だった。美しい白い髪とぼんやりとした双眸に慈愛を溢れさせる女だった。
大気汚染の進んだ世界で生まれ育ったという母はその白髪の事を「煙で変わったのよ」なんてジョークをよく口にしていたほどだ。古びたガスマスク――母はそう呼んでいたがジェイドにはよく分からなかった――を壁に飾り、これがないと生きていけなかったのよとジェイドに母はよく言った。
母が混沌世界に召喚されてすぐに父と出会い大恋愛を果したのだという。純種たる父の事を母は外見が自身と酷似していたことで安心したと言っていた。村からあまり出ることのないジェイドにとっては『母』の云う不安の種は見た事ないが――旅人となれば姿恰好が大きく変わる者も多いらしい。「分からない」と言えば母は「何時かジェイドも旅に出るのかしら」と嬉しそうに髪を撫でつけてくれるのだ。
大好きな母と父。裕福でなくともしあわせが満ち溢れる春の陽だまりのような家。
ジェイドの自慢の家族。しかし――ジェイドは最近、気付いていた。
「お母さん、ただいま」
扉を開き、野花を差し出せば母は嬉しそうに目を細めて笑ってくれた。自身とそっくりな顔に笑みを浮かべてふにゃりと笑ってくれる母がジェイドは大好きであった。
その笑みの中に、何か寂しさが混じっていることに気づかぬ程にジェイドは愚鈍ではなくて――そして、それを黙って居れるほど賢くも大人でもなかった。
「お母さん……? どうかしたの?」
「え? ううん。何もないわ。ジェイドから貰ったお花を押し花にしようかしら? ね、きっとそれがいいわ」
自室へ向かっていく母の背中を見ながらジェイドの胸にはもやりと沸き立つ何かがあった。
それは何時の日かに両親の言葉を聞いた時から感じた鬱屈とした気持であった。愛情深く優しい母は涙ながらに父に言っていた――この世界に渡ってくる前に娘を出産したのだ、と。
ジェイドには見知らぬ姉が居て、父もそれは理解しているのだろう。種違いの姉。顔も知らない、異世界の姉。
何も知らされない儘、ふたりの宝物であったはずのジェイドは母の愛情が別の場所にも向いていることに愕然とした。
――娘? ……姉? ……なにそれ……お母さんには僕だけでいいのに――
もやりとした思いを抱えた儘に耳を澄ませ続ける。ジェイドはよく眠っているかしら、とテーブルを立った母には悟られぬ様にベッドにもぐりこみわざとらしい寝息を立てる。
人の気配が二つ。父と母。髪を撫でる母の優しい掌の心地よさにジェイドは安堵する。
――やっぱり、お父さんとお母さんには僕だけだ――
そう、肺の深くにまで存在した緊張を吐き出そうとしたジェイドの耳朶を滑るように落ちたのは母の悲し気な声だった。
『あの子もこんな風に大きくなっているかしら……』
母の言葉に父は『きっとね』と愛しい妻の背を撫でた。生まれてすぐに引き離された娘の事を思えば母の涙もはらはらと落ちたのだろう。
ジェイドは母の中に確かに存在する見知らぬ姉の存在が澱みの様に胸に溜まっていく感覚を感じた。もやり、と胸の中に蓄積していく其れがどうにも拭えなくて布団を被り「ううん」と小さく唸る。
起こしてしまわぬ様にと父に促されて部屋を出ていく母は愛おしいジェイドと息子の名を呼んで、父へと謂った。
『あの子はきっと、ジェイドみたいに恵まれた環境にはいないんだわ……』
母の世界は大気の汚染が進んでいて、今も生きているかどうかすら分からない。絶対的な母という庇護者を失っている以上、その成長がどうなっているか等空想でしかない。ジェイドの中に沸き立った感情は生きているかもわからぬ姉を懐かしむだけの母の感傷と認識することで落ち着くはずだった。
落ち着ける、筈だったのだ。
テーブルの上に置かれた白い押し花を見てジェイドは「お母さん」とにんまりと笑った。
「またお花探してくるね。お母さんの世界にはお花は咲いてなかったんでしょ?
なら、僕がこの世界の綺麗なものをたくさん集めてお母さんにあげるから」
ジェイド、と母は感涙し、そっとその小さな体を抱き締めた。ぎゅうとしっかりと抱き締めてくれる母の温もりにジェイドはゆっくりと目を伏せる。幸せだと言う様にほうと息を吐いたジェイドの耳に聞こえたのは母の哀し気な声だった。
「ジェイド……優しい子……。
あなたにはね、お姉ちゃんが居るの。お母さんがこの世界に渡ってくる前に離れ離れになってしまったお姉ちゃんが」
「お姉ちゃん……」
知っている、とは言えなかった。ジェイドはじっくりと母の顔を見る。涙を流した母のその瞳に宿された悲しみの色にジェイドはそんな顔をさせる姉なんて必要なく、なんてひどい存在なのだろうと認識した。
大切な母。その悲しみは深く、重く。そして――見知らぬ姉へと燻ったのは母を傷つけたという憎悪にも似た苛立ちだった。
母だってきっと、もう存在しない姉の事を口にしてるだけなのだ。自分だけを見てくれている。愛してもらえているのだと、母の胸に甘えるように擦り寄ったジェイドの髪先を擽った母がぼそり、と呟く。
「あの子も一緒に渡ってこれたら良かったのに……
そうしたら、ジェイドも本当のお姉ちゃんに会えて幸せでしょう?」
どくり、と鼓動が早鐘を打った。母は自分を抱き締めながら姉を恋しいと口にしたのだ。
存在しているかもわからない姉。生きているかも知らぬ姉。
その姉に母の愛情が向く事がジェイドには耐えられなかった。
口にされるのは、『あの子は決して幸福な場所では生きてない』とジェイドと比較し姉を可愛そうだと慈しむ言葉だけ。
そんなの必要なかった。
そんなのいらなかった。
そんなの――下らなかった。
立ち上がりジェイドは逃げ出す。母を突き飛ばす様にその胸から飛び上がり、家より飛び出したその背を追い縋る母の声を何があったと飛び出す父の翳だけがジェイドには見えた。
――姉なんていらない!
――どうしてお母さんは僕を見てくれないの!?
――お母さんの目の前にいるのは僕なのに!!!
足が縺れる。走り、飛び込む様に山へと入り込んだジェイドの小さな背を心配するように両親は山へと入った。
泥濘の上を歩き、崖の傍で蹲ったジェイドに母は「私の可愛いジェイド」と声をかけた。
「どうしたの……? お母さん、悪いこと言った……?」
「お姉ちゃん何ていらない。どうして? お母さんは僕の事なんていらない? お母さんの前に居るのは僕だよ?!」
声を荒げ涙を溢す。ジェイドの悲痛な叫びに父は母の肩を抱き首を振った。
まだ幼い息子にとって、見ず知らずの姉を慈しむ母の言葉が信じられない程に苦痛だったのだろう。
父に促され母はゆっくりと息を吐く。
「ごめんね。お母さんが、ジェイドの事をしっかりみてあげなかったから。
こっちに来て……? 今日は三人でゆっくりお風呂に入って一緒に寝ましょう?
お母さんは、ジェイドの事を愛してるから」
踏み出した母の足元がぐらりと揺れる。立ち上がったジェイドが母の手を取る前に、父は母の手をぎゅっと握り堪える様な顔を見せたが――間に合わなかった。引き摺られるように両親は山の淵へと落ちていく。
「お母さん」と呟いた声に返るものはなく、幼いジェイドの目には両親が消え失せた様に感じたのだ。
――あーあ――
母は、父は、どうなったのか。震える足に力を込めて覗き込もうとしたジェイドの耳に響いたのは幼い子供の声だった。
『死んじゃったな』
『死んじゃった』
くすくすと笑った子供達の声にジェイドは顔を上げる。
「だあれ」と呟いたジェイドに応える事無くその声は笑い続ける。その時ジェイドには理解できない存在であったデモニア――反転した性質を持つ者たちは両親が死んだとジェイドに言い続ける。
「死んじゃったの……?」
『死んじゃうよ。こんなところから落ちるんだ』
『死んだよ。こんなところから落ちたんだ』
嫉妬、憤怒。その声がジェイドの頭をぐるぐると占める。絶望に占められたジェイドにくすくすと小さく笑う魔種の声が響いた。
『誰のせいだ?』
『お前のせいか?』
――僕の……?
『いいや違う』
『そう、違う』
――じゃあ、誰……?
顔を上げたジェイドの双眸に映り込んだのは笑った憤怒と嫉妬。それは赤々と燃える憤怒の色とじめりと湿ったような橙の揺らぎが頭を占め続ける。
『『お前の姉のせいだ!』』
叫ばれる。
その声を理解して、少年は異世界に存在すると言われる姉を妬み恨み怒りを募らせ続けた。
両親を死に追いやったその存在を苛立つ様に燻る炎を揺らがせるジェイドは夢を見た。
母が言った――煙で変わったのよと言った白髪に自身と同じ顔をした少女。
異界から神殿へ向けて召喚されてくるその存在を、ジェイドは夢に見た。
『アレが 姉だ』
そうやって直感的に理解したジェイドは手を伸ばした。藻搔く様に、夢の中で姉の召喚を防ぐ様に。
其れは全てが夢だった。夢でしかなかった。召喚というのは神の采配だと言われている。それに対して何かを施す事は無理で、死人が蘇ることのない混沌世界ではそう言った旅人たちは元の世界で『そういう事があった』瞬間に召喚されてくる。
分かっていた。ジェイドだって、一介の魔種でしかない自分が召喚を阻止できる訳もないと。
苛立ちがその身を焼いた。沸き立つ憤怒が炎の様にその身体から飛び出して、覇を噛み締める。
お前のせいだ!
――お前のせいだ!!
ぐん、とその身体を引く様に眠りが誘う。それがジェイドにはどうしてなのかは分からなかった。
夢の中では姉の体はぐにゃりと歪み在り方さえ変わってしまうかのようだった。美しい顔にガスマスクが張り付き、二度とは母や自分とのつながりを感じさせない事に満足した様に深い眠りに落ちていく。
神様というのは悪戯だ。ギフトとは世界からの唯一の贈物。
『無辜なる混沌』に生まれ落ちる、若しくは召喚された時点で世界から与えられた文字通りの贈り物。
それがジェイドの夢を予知の様にあてた。夢の様に、召喚されてきた『姉』の存在を歪める瞬間を確かに見たのだ。
怠惰な眠りがその身体を占めて、夢の中で見た有り得たかもしれない未来を夢想したジェイドは知る由もない。
姉と呼ばれた少女に在るべきギフトは歪められた。
それが彼の能力であったのか神様の悪戯であったのかは分からない。
ああ、けれど――深く深く眠りに落ちた彼は、姉への苛立ちに燻った儘。