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榊 伊慈の頼み事。或いは、大人形青年の献身…。

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●頼み事
 霧の濃い朝のことである。
 身なりの良い若い男が、共も連れずにとある屋敷を訪れる。
 屋敷の最奥、香の炊かれた広い部屋にて待ち受けていたのは、青白い顔をした白髪の男だ。
「やぁ、これは大人形殿ではないですか。このような朝も早い時間からお越しになるとは珍しい。さぁ、冷えたでしょうし、まずは熱い茶でも一杯いかがですかな?」
 榊 伊慈というのが彼の名だ。
「病魔払いの榊一族」と言えば、ある筋では名が知れている。事実、大人形と呼ばれた身なりの良い青年も「榊一族」の顧客の1人だ。
「えぇ、ありがたい。すっかり冷え込んできましたな」
 囲炉裏の灰を火箸で掬って、伊慈は無言で頷いた。ゆったりとした動作だが、そこには不思議な色気がある。大人形青年に男色の気はないものの、その手の動きや視線の動きからは目が離せない。
 自然と他者の注目を集め、自然と他者の耳を傾けさせるというのが生まれ持ってか、60余年の人生の中で培ったものか、とかく伊慈の性質である。
「それで、ご用向きは? 巫女の肉であれば冬が明けた頃にはお渡しできると思いますが……もし急ぎというのなら、少々金子を弾んでいただけるのなら」
 大人形青年が茶を飲み干すのを見計らって、伊慈はそう問いかけた。
 だが、大人形は首を横に振った。
「おや?」
 朝早くや、夜の遅くに……つまり、人の目を避けて伊慈のもとを訪れる者のほとんどは“病魔払いの巫女の血肉”を早くに融通してほしいとか、誰それの遺体を売り渡したいとか、自分の娘や孫を次代の巫女にどうかとか、そんな風な後ろ暗い用向きを抱えて訪れるものだが、さて今回に限っては伊慈の予想は外れたらしい。
「いやなに、伊慈殿には世話になっておりますゆえ無茶を言うような真似はいたしません。ただ、ですな……」
 言葉を切った大人形は、額の横に指を添えて眉間に深い皺を刻んだ。囲炉裏の火に照らされて、額から頬までがてかりと光って見えていた。どうにも脂汗を掻いているらしい。
「以前、伊慈殿に頼まれていた仕事があるでしょう? その折、先払いで報酬をいただいておりますからな、以来、調査を続けておったわけです」
「あぁ、その件ですか……進捗のほどはいかがでしょうか?」
 2人が話題にあげたのは“病毒の八百万”と呼ばれる男の身辺調査だ。その身に数多の病魔を宿す歩く疫災のような男、或いは、病魔そのものの化生か……どちらにせよ、奇怪な人物であることに間違いはない。
 “病毒の八百万”を手の内に納めたいと伊慈は考えた。
 だが、男の素性さえも仔細がよく分からぬということもあり、彼は顧客たち……信者たちの幾人かに、調査を依頼していたのである。
 普段から世話になっている伊慈の頼みだ。
 おまけに報酬もいいと来た。
 数人の信者たちは、ある者は大々的なお触れを出し、ある者は信者の身内や友人たちに伝手を付け、ある者は信者当人を探し出そうと、人手を使って調査を始めた。中には当人が直々に旅立ち、件の男……“病毒の八百万”の捕物に乗り出したという事例もある。
 その数は5人。
 そして、大人形青年がその“5人目”だ。
 つまり、先に報告に来た4人は伊慈の依頼を失敗している。そのうち2人は、何らかの病魔に侵されて、豊穣の遠い地ですっかり寝込んでいるそうだ。
「良いお話ならいいのですがね」
「……小間使いやら、雇い入れた浪人やらを遣わせたのですがね、やれなかなかに腕の立つ男のようでして」
「生きては帰らなかったと?」
 人の生き死にを語っているというのに、2人の口調には何の変化もありはしない。所詮は他人の……それも、雇った名も知らぬ愚物の命の話だ。失われたところで、何も惜しくはないのだろう。
「生きては帰って来ました。それなりに怪我は負っているし、次は無いとも言われたそうです。ただ、何でも男から言伝を預かって来たそうで」
「ほう? 聞きましょう」
 瞳を細めて伊慈は笑った。
 前のめりになって、大人形青年の方へ耳を傾ける。
「では……曰く、俺に用事があるのなら大将が直々に顔を出しな。そうすりゃ話程度は聞いてやるからよ……と」
 数秒、伊慈は口を噤んだ。
 それから彼は、顎に手を添え思案する。
「大将となれば私でしょうな。しかし……」
「えぇ、伊慈殿が直々に出向くのは危険かと」
「ふむ……とはいえ、やっと見つけた手掛かりです。どうにかなりませぬかな?」
 困ったように眉を潜めて伊慈は言う。
 大人形青年は1度だけ目を閉じ、答えを返す。
「伊慈殿には世話になっております。ここは1つ、私めが大将を騙り“病毒の八百万”に逢って来ようかと」
 彼は己の献身に酔っていた。
 かくして、彼は“病毒の八百万”の元へと出かけて行って……それっきり、帰って来ることはなかった。
 風の噂では“病毒の八百万”を無理やり連れ帰るべく、禁術に手を出し化生に堕ちたとか……。

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