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どうか幸せに
登場人物一覧
月の綺麗な晩だった。冬の空気は冷たく、立っているだけでも寒さに体が震える。月明りは優しく、雲に隠れさえしなければ明るいけれど、身体を温めてくれるほどの熱はない。
昼間は人の話し声が聞こえるこの公園は、夜になってしまえばその賑やかさは暗闇に覆われてしまう。静けさが、より空気の冷たさを肌に刺してくる。
こんなにも寒いのなら、彼を呼び出すのは昼間にしてしまえばよかっただろうか。そうは思えども、寒くても夜がいい、なんて思ってしまったのは自分だ。それに「明日にしましょう」なんて言えるはずがないし、言いたくもないから、かじかむ手をすり合わせるようにして、寒空の下で立ち続ける。
人を待つ時は、退屈だ。人に会うために待ち合わせの場所まで来て、会話だって考えるのに、一人で待たないといけないのだから。だけど「退屈」なんて言葉を忘れてしまうほど、今は緊張していた。
彼が来たときに、まず何て言葉をかけようか。どうやって笑いかけようか。どう話題を運んで、どう本題を切り出そうか。そんなことばかりが頭を巡って、頬を火照らせていく。
早く来てほしい。まだ来ないでほしい。そんな想いが行ったり来たりして、落ち着かせるように自分の頬を手で押さえる。冷え切った手と熱くなった頬を同時に感じて、己の体温すら分からなくなる。
何度目かの「早く来て」が巡ってきたとき、脳を支配していた人の姿が見えた。
「ルシ様」
すらりとした身体が、暗闇から浮かび上がる。柔らかな金髪が月光に照らされ、ほのかに輝きを帯びた。
「ルジュエル、約束の時間には随分早かったんじゃないかい」
ルシが歩いてくるのに合わせて、ルジュエルも彼に近づく。翡翠色の瞳がこちらを捉えていると気が付いたとき、胸の奥深くで炎に似た何かが弾けた。
冷え切っていたはずの指先が、じわりじわりと感覚を取り戻していく。すでに火照っていたはずの頬に再び熱が灯り、触れずとも熱くなっていると分かった。
「待ってなんか、ないです」
あれほど彼に何て言おうか考えていたのに、彼の目を見た瞬間に頭が真っ白になった。何か気の利いたことや、可愛らしいことが言えればよかったのだけれど、彼の呼びかけに応えるだけで精一杯になってしまう。
本当は、彼の言う通りルジュエルはずっとずっと早くからこの公園で待っていた。それは何かあって時間に遅れたら嫌だからというのもあるけれど、今という大事な時を前に、じっとしていられなかったからというのが大きい。
「あの、ルシ様」
ルシの首が軽く傾けられる。彼の頭上の金色が、月の明りを吸い込んだように見えた。
「呼び出したのには理由があったんだよね」
言葉に詰まるルジュエルの代わりに、ルシが話を進めてくれる。
今なら言える、と思った。
「ここに来てもらったのは、伝えたいことがあったからで」
息を吸うと、冷たい空気が肺に入り込む。伝えたい言葉が凍り付かないように、胸の奥深くで温めて、ゆっくりと吐き出した。
「その、好き、です。お慕いしております」
はっきりと伝えたかったのに、声は裏返って、掠れた。彼に届いただろうかと不安になって恐る恐る見上げると、彼は再び首を傾げただけだった。心臓がどくりと音を立てる。
ただ聞こえていないだけなのか。それとも聞こえないふりをしているのか。それが、分からなかった。
一歩近づこうとした足が、逆の方へ向かってしまう。離れたのはたった一歩だけなのに、その距離が妙に遠くて、見えない壁で遮られているようにすら感じた。
「ルシ様」
何か言ってください。そう言いたかったけれど、口にするのが怖かった。ただ、目を逸らしてしまうと大事なものを取りこぼしてしまうような気がして、立ちすくんだように彼を見つめるしかなかった。
短いようで長い沈黙。それを先に破ったのはルシだった。
「君に興味はないよ」
悪いけどね。とってつけたように零された言葉が、ルジュエルの胸を刺した。
「君は夢に夢を見ているだけだよ」
目の前が真っ暗になる。彼の言葉を受け入れられないのだと、全身が訴えてくる。崩れそうになる膝になんとか力を込めて、彼を見つめ返した。
「嘘、ですよね」
嘘だと言ってほしかった。悪い冗談なのだと、言ってほしかった。しかし彼が囁いたのは、優しさや愛情なんかとはかけ離れた言葉だった。
「君が私に夢を見ないように、教えてあげる」
表情は穏やかで、ルジュエルが恋をした青年の姿をそのまま残している。でも、目が笑っていないのだ。罪悪感を覚えている様子すらない。つまり、彼は本当に、こちらのことを何とも思っていないのだ。
どうして。そんなはずは。口の中で、そう呟いていた。
だって、彼は優しくて、いつでもきらきらと輝いていて、自分にも微笑んでくれて。
――本当に?
「素直な、汚れを知らない女の子だとは思っていたよ。でも、それだけさ」
自分が「特別」だと思っていたものは、彼にとっては特別なんかじゃなかった。
「キスでもすれば満足? そうじゃないだろう」
私みたいな最低な男には、君みたいに何も知らない子は手に余るのさ。そう彼はようやく笑った。穏やかさとはかけ離れた、どこか失望したような、そういう冷たさを含んだ笑みだった。
こんな人だったなんて。そう言ってしまうのは簡単なのだろうけれど、彼の持つ神々しさは少しも損なわれていなくて、ルジュエルが恋をした彼と、目の前にいる彼は同じ人物なのだと思い知る。
いつから私は、ルシ様の輝きに恋をしていたのでしょう。私が恋をしたルシ様は、どんな姿だったのでしょう。
想い出は曖昧で、きちんと呼び寄せなければ掠れていく。他の出来事で塗り替えられて、いつの間にか影も形も分からなくなる。ルジュエルが想っていた彼の姿を手繰り寄せるように、守るように目を閉じると、瞼の裏には青空が浮かび上がった。
空を美しく翔ける、六枚の翼を持つ天使の末裔。その眩しさときらめきに、神を見出したのだ。
光だと思った。闇を切り裂き、明るい場所へと導いてくれる救いの手。乙女の心に住み着いた、ただ一人の神。
彼に対する尊敬は憧れに変わった。憧れは彼を想うたびに、恋心へと育っていった。いつかこの想いを伝えたい。そう思っていたのに。
「貴方にとって、私は」
「そうだよ。何でもない、ただの女の子だよ」
信じたくない、とは思う。だけど、同時にこうも思うのだ。そうだろうな、と。
元々自分が抱えていた気持ちは、恋なんかじゃなかった。物語に出てくる神様に対して抱くような、憧れと尊敬の気持ちが始まりだ。だったら、これが「当たり前」なのだ。神様は、一人の人を特別になんて思わないだろうから。
告白の時間を夜にしたのだって、そうだ。夢に見るような告白の方法をしたかったがために、こんな寒空の下を待ち続けたのだ。彼が言う通り自分は、「夢に夢を見ていただけ」なのだろう。
恋と呼ぶには、幼すぎたのだろうか。だからこそ、彼にここまでの事実を突きつけられることになったのだろうか。そう思うと涙が零れそうだったけれど、「神様」の前で弱った姿は見せたくなかった。
「どうか幸せになってください」
全てを振り絞った笑みを浮かべて、彼に呪いにも似た言葉を吐く。それでもなお彼は「さぁね、どうだろうね」と曖昧に笑うのだから、憎いような清々しいような、愛おしいような、そんな奇妙な気持ちを覚えた。
おまけSS『ひとりになる』
公園に取り残されて、ひとりになった。ベンチに腰掛けたまま立ち上がれなくなって、呆然としながら時間が経つのを待っている。
感覚を取り戻したはずの指先は、すっかり温度をなくしていた。動かすたびに悲鳴をあげるそれを温めようという気にもなれず、身体の芯まで冷えていくのを薄っすらと感じていた。
空を見上げると、明るい月と無数の星が輝いている。こんな時でも綺麗に思えるのが不思議で、その輝きの一つを目で追う。
夜空に輝く光が絶えないように、いつか自分も再び「光」に出会えるのだろうか。でも、彼ほど「光」と感じられるひとはそうそういないだろうとも思うのだ。
手を持ち上げて、月の明りにかざしてみる。指の間から差し込む光が眩しくて、ルジュエルは静かに目をそらした。