SS詳細
誰も居ない、秘密の場所で
登場人物一覧
自分以外、誰も客の居ない店内。汚いとまでは言わないが、どことなく埃っぽい空気。カウンターの奥に立つ店主は何処か胡乱げで活気なんて見当たらない。
だがそれで良い、人目が無いというのは詰まるところ、他に対しての思考を割かなくて良いということなのだから。
店主は来る者に興味を持たず、注文を取る事もしない。壁に掛けられている品を頼んでみれば言葉短く「切れてますね」で終わらせるぐらいだ。
周辺にある飯屋の活気とはかけ離れた暗い雰囲気も、人によれば干渉を気にしなくて良い利点となる。
一度階段を上がってみれば、世界が違って見える賑わい。酒屋の店主が笑顔で常連客に接客を行っている。
店内の端に見える居酒屋への階段だけが異質に感じるであろう空気は、決して間違ってはいないのだろう。
ここまで聞いて、歓迎しない客商売というものが成り立つのだろうか。疑問に思うのも当然だろうが、世の中には
夜に染まる直前の空。それを求める女が一人、引き戸を開けるのだ。
●
「らっしゃい」
言葉短く、力も感じられない歓待を受けた私は、それに対して怒るわけでもなく、適当な席に着く。この無関心さが心地よい、とまでは言わないが、興味を持たない姿勢は楽で、時間があれば立ち寄っている。
「水割りに漬物を適当に」
此処に来ると何時もこれを頼む。米酒を水で割った物と、その時買い付けで違うのであろう野菜の浅漬け。味は大して美味しいとも不味いとも言えない微妙な感じ。それでも毎回これを頼むのは、この古ぼけた品書きを眺める気も無いから。なにより。
「後、灰皿を一つ」
注文して直ぐ、返事も無く置かれる灰皿と酒。手元に置いてから取り出すのは掌に収まる位の紙箱。
閉じられた紙箱の上部を開け、中から一本の紙巻煙草を引っ張り出す。咥えて、同じく取り出したマッチ箱。火を灯しても店主は何を言うわけでも無く、隅で新聞を開くだけだ。
ジリジリと焦がれる葉は、煤と成りてほろほろと揺れる。灰皿に落としてやれば、風も無いのに舞う様に散っていく。
口から、鼻腔から抜けていく独特の葉の燻った香り。慣れてない者は咳き込んでしまっても仕方の無い重い煙。
私とて吸い始めた頃は、慣れずに咳き込み、こんなのを好んで吸う者の気持ちが分からなかった。
いつ頃からだろうか、特に気にすることも無く、自然と己の行動ルーチンに組み込める様になったのは。
友人の前でも、親しき者の前でも、心配するあの方の前でも見せない私。喫煙とは、造られた仮面を剥がす一種の儀式としているのかもしれない。
かと言って、これが二重人格みたいに思考が全て変わるという訳でも無い。あくまで誰にも見せては居ない、
仮面を剥がすとは言ったが、ただ、作っていない自分を表す息抜きなのである。
意味も無く、思考遊びをしていれば一本目もそろそろ短くなってきた。とりあえずもう一本吸ってから飲み物を貰おうかと、先程と同じ要領で取り出して咥え、マッチを箱の赤リンと擦り合わせて灯す。茶色い先端の葉部分が赤く熱を帯びたその時。
「うーっす。やってるかぁ?」
何処か憶えのある声。
「あぁん? 珍しく客が居ると思えばぁ? 息抜きかい、別嬪さん」
隠そうにも、既に灯った煙草を握り潰すというのは義手とは言えど難しく。
「この様な所で逢うとは偶然ですね」
心の内で溜息をつくのは慣れている。そう、これは何時でも私の中で揺らめく、諦念の感情なのだ。
「隣ですか? どうぞ、空いてますので」
そう言うと同時、隣の席に座る彼、嘉六さんは慣れた口調で店主に注文を伝えていた。
●
「飲みに来たんでしょう? 奢りますよ」
此方に向けて話しかけてきた声と雰囲気に、何時もとは違う何かが混ざっている気はしていた。勿論、俺はそこをツッコむつもりも無かったし、特段変、とまでは思っていなかったのだが。
「突然どうしたよ。いやいやいや、今日は此処来る前に大勝ちしてよ。それにゃ及ばねぇ。寧ろアンタの分を出させてくれ。乾杯しよぜ、この偶然によ」
無愛想な爺さんがいつもの様に酒を持ってくりゃ、何処か擦れた視線を向けてくる正純に酒瓶を持ち上げて見せて。
「結構です」
ぴしゃり、気持ち良い程の素気無い応えに思わず笑みが浮かんでしまいそうになるのをなんとか堪えた自身を褒めてやりたい。
「なんでぇ、よく此処を知ってたなぁ。客なんざ、俺以外居ないと思ってたぜ」
店主に向けて意地悪を言ってみたが、いつも通り反応は無い、だからこそ此処に通っている訳だが。
「貴方こそ、もっと騒がしい所を好むと思っていましたが……たまには人目の無い所で息抜きしたくなる時はあるものでしょう?」
違和感。
否、これは彼女の
僅かな、小金井・正純という人間から外れた物言いに、心内で興味を惹く。
「あぁ、ご尤もだ。それは俺も同じ理由……騒ぐのも嫌いじゃねぇけど」
「店主、この方に一杯、私と同じもので」
と、言っていた所でこの女、話も聞かずにやりやがった。これまた依頼で会った時とは違う、口端だけで弧を描いて笑みを作れば。
「……口止め料か? 別に、誰に言う訳でもねぇから要らんよ」
誰彼にも見せているのか全てでは無い。これは正純に限らず、誰しも持っているものだろう。だから彼女は此処に通っていたのだし、外の顔を崩したくないのも理解出来る。
そして俺自身、それを悪戯に暴く無粋も好まないが。
「ふふ、ごめんなさい。そんなつもりじゃないですよ。別に、止めなくても言わないでしょう貴方は」
これは狡い女だ。否定じゃなく、褒め言葉のつもりで、言葉にせずにぼやく。何処か憂いた表情で突き放すわけでも無く、冗句を放つ余裕を見せてくる。
「そうかいそうかい、そんなら遠慮なく」
届いた一献を口につけ、手癖の様に声を掛ける。程よく呑んでいる別嬪が隣に居て掛けない方がおかしいだろう?
「静かだろ? 全然客も来やしねぇ。だが一人で飲むなら此処ほど便利な所も中々ねぇんだ」
「そうですね。私は少し前からですが、嘉六さん以外で入ってこられた方は居ませんでした」
会話にゃ乗り気じゃない、訳では無いようだ。それなら少しくらい遊んでも問題無いだろう。
「だから、誰も居ないなら良いだろうと私に軟派ですか?」
……そう思っていた所に、向こうから制してきやがった。
「それは違うな。誰が居ようと関係無い。美人にゃ声を掛けるものだろう? 折角の好機を逃す馬鹿なんざ居ないさ」
「本当、悪い男……騙されている子達が可哀想」
「手厳しいねぇ。今、目の前に居るのはアンタだろ? 関係無いさ」
「本当の事を言ったまでですけど……でもまぁそうですね。貴方みたいな人の相手の方が色々な意味で楽ではあります」
これはいけるか、思った所で眼前の女はトドメと言わんばかりに。
「今度は
「振られちまったかぁ。あいわかった、つれない方が燃えるってもんだ。今はそれで良いさ」
まだ諦めてないのか、と視線が語っているのに気づいて、くつくつと笑いが込み上げてくる。
「ハハ、んな顔するなって」
これくらいの仕返しは許してくれ。そう言いながら、今宵は面白いものが見れたと、気持ちよい酒盛りと成った。
おまけSS『紫煙の先の瞳は』
楽しかった。
型どった私じゃない私が誰かと応対するのも久方ぶり。
染み付いた穏やかな私というのも、既に自分の中の一部と言えるぐらいには自然な物だが。
気を抜いた、何も考えずに零す言霊というのも悪くは無い。
だがやはり、私のこの様子には触れずに声を掛けてくる彼は、女の扱いに慣れた、少し罪深い男だという事も理解出来た。
帰り道、寒空の下で、浮かべた笑みが、本来の私の物であると気づいた時。あぁ、あの小さな飲み会は楽しいものだったんだなと自覚を覚えたのだった。