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アイをなぞる
登場人物一覧
●Rapid Origin Online
それはもう一つの現実。それはもうひとつの混沌。それはもうひとつの世界。
そんな謳い文句で練達のネットワーク上に構築されたそこでは、混沌に住まう人々は『プレイヤー』となり、『
つまり、
一時の幸せな夢の体験をしたくて、澄恋(p3p009412)はすみれ(p3p009752)に似たアバターを作成した。
紫の髪に、愛らしい角。口内にも牙のない『正解の姿』。
その姿は一時だけ澄恋に夢を見せてくれた。
ROO内ですみれと出会うまでは――。
「あなたの、その姿……」
「ああ、これですか?」
すみれのアバターは澄恋とは反対に、現実の澄恋に酷似していた。ふたりは現実とROOでその姿を取り替えたようなアバターだったのだ。
澄恋は驚いた。不完全な自分を完全なすみれが真似る必要なんてないのに、どうして彼女はそうしたのか理解出来なかった。
「……それがあなたの憧れの姿なのですか?」
「憧れ?」
もしやと思いそろりと尋ねれば、すみれは瞳を瞬いた。そんなこと、問われると思っていなかったという顔で。
そうしてから「嗚呼」と得心した様子で口開く。
「あなたは私に憧れてくれた、ということですか?」
「っ」
返す言葉を持たなかった。その通りだと、理想なのだと、伝えることなど出来なかった。
「私は、此方の世界の私ってどんなのかと思って」
次の言葉には驚いた。
(すみれは、わたしを理解しようとしてくれている?)
詰めていた心が、広がっていった。
しかし。
「愛されないってどんな感じか知りたくて、暇潰しに作成しました」
すみれがくすりと笑う。
「指輪がないって違和感しかないですね」
左手の薬指をなぞる。
「思ったよりも、全然つまらなかったです」
暇潰しにもなりませんでしたと無邪気な笑顔。
そのひとつひとつが澄恋の心を恐怖と絶望で黒く染めていく。
(わたしには真似ることも難しかったのに)
然れどその逆は容易であった。暇潰しにもならなかった。
(このままではいずれ、わたしは――)
すみれが澄恋のように現実でも振る舞ったら、矢張りその先にあるのは――。
恐ろしさからログアウトした澄恋だったが、そのアバターを捨てることは出来なかった。
●とある日
「そうだ、愛を教えてあげましょう」
「……え?」
街中で遭遇したすみれが、笑顔でそう言った。
一体、何を。
澄恋にはすみれが何を言っているのか解らなかった。
けれど同時に、期待してしまった。
(わたしも、愛されることが――)
だからだろう、隙が生じた。
最初に感じたのは、唇に触れる柔らかな熱。
次に感じたのは、背中に感じた硬い壁。
驚きに見開いた菫色が映す、楽しむような同じ顔。
「んっ――な、何を」
口吻されたのだという情報は少しだけ遅れて脳へと届き、澄恋は身を捩って合わせるだけの口づけから逃れた。
「あら」
「あ、あなたにはお相手がいるのでは」
声が、震える。恐ろしかった。何をしてくるのかわからないすみれへ、会ってからずっと澄恋は怯え続けている。
好いた相手以外に口づけるのは、好いた相手への裏切りである。一夜限りの愛と身体を暴かれていた澄恋とて、その認識はあった。けれどもすみれは澄恋の言葉にきょとんと瞳を瞬かせ、自身の頬へと片手を当てると「まあ」と口を開いた。
「『自分自身』と唇を合わせただけですよ? 浮気にならないから安心して享受してください」
何を言っているのですかと言いたげなその態度に、澄恋は自身の認識が正しいのか解らなくなる。
澄恋は愛を知らないから、愛を知っているすみれの認識とズレているのだろうか。
愛を知っているすみれがそう言うのだ、きっと彼女が正しい。
「んぅ」
唇を、唇で塞がれる。押し付けるだけの児戯のようなそれだけれど、それだけで澄恋は言葉を紡げなくなった。
止めて欲しい。嫌だ。悔しい。
そう、思うのに。澄恋はすみれを突き飛ばせないでいた。
すみれがゆっくりと嗤うように目を細める。その表情で本気で抵抗すれば逃げられる力で押さえてきていることがはっきりとした。
――逃げないのですか? 逃げてもいいんですよ?
瞳がそう問うてくる。
それなのに。
(わたし、は――)
すみれを全力で突き飛ばせば、すみれが怪我をしてしまうかもしれない。
自分とは違って
その怪我がもし、消えない傷となったらどうする?
それしきで彼女が受けている愛は揺るがないのかもしれない。いや、きっとそうだろう。そう、信じたい。けれど愛されていない澄恋には、
澄恋は固く唇を結び、門扉のように閉ざし、それ以上は進ませない。振り払えないなりの、せめてもの抵抗をした。
「……頑固ですね。誰に似たのです?」
押し当てていた唇を離して、すみれが呆れたように吐いたその言葉。
何気なく、そしてよくある言葉であるはずなのに、澄恋の胸を矢の如く貫いた。
――不義の子だから?
「っ」
唇を引き結び、息を呑む。胸に覚えた痛みをやり過ごす。大丈夫、慣れている。人として扱われず物のように扱われ、心を幾度も殺してきたではないか。それなのに、どうしてだろう。すみれの言動ひとつひとつに、都度傷ついている自分がいた。『誰か』の言葉ならやり過ごせても、『正解の姿』の言葉は、いとも容易く澄恋の心に皹を刻んでいく。
(あら、これは)
すみれは澄恋の異変に気がついた。この眼前の『
(まるで鼠のようなんですよね)
猫に睨まれた、逃げ出すことも牙も剥くことも出来ない、哀れで汚らしく醜い鼠だ。
すみれが手を伸ばせば怯えたような表情をする。それを当人は上手く隠せていると思っているようなところがまた面白い。
澄恋はすみれなのだから、他者に向けるような気遣いは必要ない。すぐに
きつく引き結ばれた唇からはせめてもの抵抗が感ぜられ、いじらしく思う。
けれど、それではその先へ進めない。折角愛を教えてあげると言っているのに、愛を知る己が不完全な自分へと施してやろうというのに、どうして拒むのか。
すみれは押さえてた澄恋の片方の手首から手を離すと鼻へと伸ばし、キュッと力を籠めて摘んでやった。
「んんっ」
震えた澄恋の唇を、舌先でつついてやる。
早くここを開けなさい、と教えてやる。
愛を知らないあなたは、もしかして口吸の仕方も知らないの?
「っ、んぅ」
鼻を摘まれ、唇を閉ざしたままの澄恋は呼吸が奪われて苦しいはずだ。だと言うのに、開放された澄恋の片手はすみれを突き飛ばすわけでもなく、すみれのドレスを握った。まるで縋るようなその手に、すみれの気分は向上する。
しかしながら、鼻を摘むのをやめはしない。折れるべくは澄恋で、すみれではないのだから。
「んんんんん、――っは、」
そうしてどれだけ待っただろう。耐えきれなくなった澄恋が唇を開いた。さっさと開いていればそこまで苦しむ必要もなかろうに、本当に強情な娘だ。何不自由なく愛されて素直に育ったすみれとは大違い。
唇を舐めたり啄んだりして遊び、我慢比べのひとときも楽しんで待っていたすみれはその時を逃さない。
「――っ」
息を吸うために開かれたその隙間へと舌を差し込もうとしたが、すぐに澄恋が抵抗する。その僅かな隙間でさえ閉ざそうとする――が、遅い。鼻から手を離したすみれは素早く澄恋の首後ろに手を回して引き寄せ、同時に深く唇を重ねた。すみれの舌は澄恋の尖った歯の隙間を掻い潜り舌へと到達し、押し当て、逃げようとする舌を捉え、絡めてやったのだ。
深く口付けるほど、ふたりの口内には鉄錆びた味が広がっていく。澄恋はそれがすみれの血だと気付くと、血を流した原因が己が狼牙だと理解して震えた。
「っ、ふ、……」
澄恋の反応に楽しげに目を細めたすみれが唇を離すとふたりの間には赤い橋が掛かり、やがてそれは途切れ、白無垢に赫を残す。
「醜い牙。そんなものがあっては、愛されないのも道理ですね」
狼牙はすみれにはないもの。つまり、『正しく生まれていた』ら、持つはずがなかったものだ。唇を合わせるだけでもその存在感を唇は伝えてくるし、口を吸えば――歯列を割って舌ねじ込めば柔らかな舌を容易く傷つける。
――そんな牙を持っていては、誰もお前に口吸いをしたいなどとは思わない。
そう言われているようで、澄恋の目の前は暗くなる。
もし、もしも。すみれのように愛してくれる人が出来てその人に口吻を求められても、自分は出来るのだろうか。唇を合わせても、固い牙を感じるのに。舌を重ねても、傷つけるだけなのに。
もし、もしも。それで
「澄恋?」
母のように、姉のように、優しい声ですみれが澄恋を呼ぶ。
絶望に顔を落とした澄恋のおとがいに指をかけて上向かせ、視線を合わせる。
そこにあるのは慈母が如き笑み。
愛を与える者の笑み。
自身が上位の存在であるという自信に溢れた、絶対的強者の笑み。
「私以外、お前に愛を教えることはできません。さぁ、受け入れなさい」
すみれと澄恋の唇が再び重なった。
歯列を割って入ってきた舌が、今度は舌を絡めず上顎を撫でるように舐める。ぞくりと走る快感に、押し返そうと僅かに残っていた抵抗心が首をもたげた。
舌を絡める度、上顎を舐められる度、純粋で純然たる快楽が生じる。
そんなこと、他の誰にも望めない。
与えてくれるのは、すみれだけなのかもしれない。
(……そんなの、いや)
愛されたい。愛してくれる人に出会いたい。
愛のある口吻は甘いものだと、遊郭で姐さんたちが話していた記憶があった。
ならば何故、この口吸いはこんなにも甘く、脳を蕩けさせるのだろう。
(すみれはお相手とこのようなこともして……)
想像して、自分を恥じた。頬が、耳が、熱くなるのを自覚した。
けれども同時にそうしてくれる相手がいるということをひどく羨ましいと思ってしまった。
愛されて生まれてきていたら。牙も長い角もない正しい状態で生まれてきていたら。そうしたらこんな口吻をしてくれる人がいて、互いに愛を交わし合うことも出来たのかもしれない。
頬を伝う雫に気付いたすみれが「あら、泣いているのですか?」と声を掛けてきたが、澄恋には今、自分がどうして涙を零しているのかも解らない。すみれの口吸いは甘美で、思考は霞がかって蕩け、己とすみれの境界さえもあやふやだった。
――このまま溶け合って、ひとつになれたなら。
そう、愚かにも望んでしまうほどに。
「今日はこの辺にしておきましょうか」
「ぁ……」
いつの間にか着物の裾を割り入って入ってきていたすみれの足が退き、支えのなくなった澄恋は力無く膝をつく。それでようやっと開放されたことを知ったのだが、息が上がりきっている澄恋には立つ気力もなく――気力があった所で力が入らず立てそうにない。
「それでは澄恋、また遊んであげますね」
また愛を教えてほしければ、してあげてもいいですよ。
すみれが悠然と咲い、背を向ける。
澄恋はその背を睨むこともできず、ただ虚ろに熱で蕩けた視線を地面へと落としていた。
それから、どれだけの時間が過ぎたことだろう。
「……ふっ、」
路地裏に、女鬼がひとり、泣いていた。
恐ろしくて、羨ましくて、悲しくて。
それなのに、何も考えられないくらい気持ちよくて。
澄恋はそんな浅ましい自分に、新たに絶望したのだった。