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夢も現も幻も、描けば総て同じもの
登場人物一覧
「僕はね、ベルナルド」
グレモリーが言う。
俺は、其の言葉ではっと意識を取り戻す。一体どうしていたというのか……これまで何をしていたのか……目の前のキャンバスは真っ白で、何故か俺は焦りを感じる。
――そうだ、目の前の絵に色を乗せなければ。
そう思って絵筆を探す。書き慣れた絵筆、手になじんだ筆を。
……ない。パレットの上、キャンバスの僅かな隙間、どこにも俺の絵筆がなかった。
「なあ、グレモリー」
「なんだい」
「俺の絵筆、何処に行ったか知らないか?」
「食べたよ。君があんまりにも可哀想な顔をするから」
――こんな冗談を言う友人だっただろうか。
だが、グレモリーはいつもどおりのぼんやりとした顔で、其の真偽は判らなかった。俺は消沈してしまって、其れを嘘だと笑う事も出来ない。
ただ、そうか、と呟いて、絵が進まない事に酷く落胆していた。
「ねえ、ベルナルド。僕の話を聞いてよ」
「……なんだ」
「僕のギフトを知っているかな。多分、今まで話したことがなかったと思うのだけれど」
――グレモリーのギフト。
そういえば、聞いた事がなかった。彼はあくまで情報屋であるが故に、ギフトというものを持っている事さえ、俺は知らなかったかもしれない。
「どんなギフトなんだ?」
「これだ、と思う色を作れる能力」
「……はは。其れは絵を描くのにしか使えないんじゃないか」
「そうだね。でも、――ひとつだけ作れない色がある」
君の青だ。
そういって此方を見るグレモリーの金色の眸。其の金色さえ、彼は絵筆とギフトをもってすれば作り出す事が出来るのだろうか?
俺は描きかけの絵を見る。――天使の絵だった。両手を拘束した天使の絵。なんてものを書いていたんだと、背中に嫌な汗が伝う。関わると決めていても、矢張り、このシルエットには空恐ろしさしか感じない。
恍惚と笑いながら俺を不正義だと断じたあの聖女の笑みが、脳裏をよぎる。
「君の作る青を真似した事があったんだ」
俺のそんな些細な恐怖を無視して、グレモリーは語り続ける。
彼はこんなに饒舌な男だっただろうか。
「出来なかった。出来なかったんだ。君の青に似た色は作れても、塗ってみたら全然駄目だったんだ。絵の中に飛んでいけそうな空を描く事も、今にも溺れそうな海を描く事も、出来なかった。ねえベルナルド。ギフトでも作れない青って、何なんだろうね」
「……其れだけ、お前が俺を買ってくれてるって事か?」
「そうじゃない。――其れはきっと、嘗て君が切望した空だから」
どきりとした。
「飛びたいと願った空だから、其の欲望が映し出されるんだ。僕には其れがない。空への情熱が、海への情熱が、囲われた鳥籠の中から喉から手が出るほど欲しいと思った景色が、ないから」
「……グレモリー?」
夢なら醒めて欲しかった。
夢の中でまであんな事を思い出すのはもう御免だ。俺はいい加減目を覚まして、絵筆を買いに行きたいんだ。
――そうだ。俺の絵筆は、現実でも折れてしまったのだ。
「ベルナルド」
「……なんだ?」
「君なら出来るよ」
突然なんだ、とグレモリーを見ると、一本の絵筆を差し出していた。
きらきらと青白い燐光が煌めき、絵筆を鮮やかに彩る。俺は其れを、一も二もなく受け取っていた。そうしなければならない、そんな気がしたからだ。
パレットを取る。
きらきら輝く絵筆に絵具を乗せると、絵具色の軌跡が宙に直線を描いた。其れを俺は今更不思議には思わなかった。饒舌な友、天使の絵、もう構うものか。俺は、俺は、絵が描きたい。線を引き、色を乗せて、俺の想いをキャンバスに叩き付けるんだ!
……。
気付けば、俺は天使の絵を書き終えていた。
白く美しい、両腕を使えない天使。ああ、でも俺の知っている聖女には翼がない。彼女はだからこそ、翼もつものを切望して愛玩してやまないのだから。
俺は其れを、半ば放心と見上げていた。
総てを使い果たしたような、魂の中にある何かを使ったような、不思議な疲労が其処にあった。
「ベルナルド」
気が付けば、グレモリーが直ぐ傍にいた。
金色の瞳が獰猛に俺を見下ろしている。そうだ。こいつはそういう男だ。ぼうっとしているように見せかけて、其の瞳には、其のキャンバスには誰にも理解され得ない激情が篭っている。
「君だから、出来たんだよ」
ほんの少し、彼が笑って。
もう時間だと俺の肩をぽんと叩いた。
そう、叩いて。数度叩いて、……何度も……
「……ド」
「ベルナルド」
「……ッ、うわ!?」
「うわ」
グレモリーの少し怒ったような声に、俺は大仰に驚いて跳ね上がった。
……此処は何処だ? と周囲を見回すと、ローレットにある長椅子の上だった。ぼんやりとした意識が少しずつ覚醒し、さっきまで見ていた“不思議な夢”の内容を塗り潰していく。俺は一体、何の絵を描いたんだったか。俺と彼は一体、何と会話を交わしたんだったか。瞬く間に忘れていく、其れで良いと思った。
「きみ、人に話があるとかいっておいて寝るってどういうことなの」
グレモリーがじっとりと俺を見た。
ようやっと思い出す。そうだ、俺は折れた絵筆の代わりが買いたいと思って。アドバイスを友に求めようと此処まで来たが、彼は依頼の説明中だったから……椅子に座って、じっと待って……其の間に、眠ってしまっていたらしい。
「もう外真っ暗だし」
「……すまん」
「いいよ。でも何の用だったの。絵筆の自慢?」
「絵筆?」
隣に座って、其れ、と指差したグレモリー。俺は――絵筆を一本、握っていた。青白い燐光がきらきらと振り撒かれるように煌く絵筆。
――いつの間にこんなものを?
俺が不思議そうに見ているからか、グレモリーも怪訝な顔をする。
「君、何かに化かされたんじゃないの」
「狐か狸にか?」
「まあ、そんなものは此処にはいないけど」
「そうだな。……そうかもしれん」
「……?」
「絵筆の自慢に来た、という話だよ」
不思議そうにする友に、俺は笑ってみせた。
この絵筆でなら、何処にでも何もかも描ける気がしたから。
“お前が羨む”青を、俺は世界に描くんだ。