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埋火を熾したのは?
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近頃、気付かされたことがある。本当なら気付きたくなかったし、今でも冗談であってくれと願わずにはいられない。
「俺の足ガン見するのやめてくれる? 仄クン」
健全な若人のあからさまな視線の向かう先は、立てた膝が乱した着物の裾。そこから覗く野郎の足である。見て楽しいかはさておき、本来気にするもんでもない。何方かが女子ならいざ知らず、じっとりと湿度と粘度を孕んだそれを向けられる謂れはない。
「……いや、あの、嘉六さんのすね毛剃ってもいいすか」
「いいわけないだろ。何? 仄はどういう性癖してんだ?」
たっぷり舐めるように時間をかけて零された答えには真っ先に拒絶の言葉、それから尾の先までぶわりと得体の知れない震えが走る。なんだすね毛って。剃ってどうする。自分でもそう意識しない部分にどんな関心持ってんだ。そういうプレイがあることは否定しないが、いや待てプレイとか言うな俺。落ち着け。今までなら何とも思わなかった事でこんなにも危機感を覚える日が来るとは。
「なんだ、そういう遊びがしたいんなら紹介してやろうか」
「いえ要らないです。嘉六さんのがいいんで」
逡巡も検討もなくばっさり即答ときた。何がそんなに俺のすね毛に執着させるのか、とんとわからない。訂正。わかりたくもない、野郎の足をツルツルにしたい野郎の願望なんてのは。
「あー……仄ァ、お前まだ若いんだからもっと遊ぶ相手は選んでだな……」
「は? 俺は遊びで嘉六さんと過ごしてるんじゃないんですが?」
「いらん藪をつついた」
蛇じみた目が心外だと睨む。これ以上絡みつかれる前にさっさと逃げたい、が。追い縋る女のそれとはまた違う、背を見せた途端に噛み付かんとする獣の視線が肌を刺せば、わざとらしく燻らせた紫煙の向こうで目を逸らすに留めた。
一服分の沈黙。それだけ置いて熱りが冷めたら立ちあがろう。さて、何と言っても出掛けるか——じりじりと煙管を遊ばせながら考えていた。
大人達に敷かれた道は行き止まり、押し付けられた天井の下で出会った光は存外に『ろくでなし』だった。それでも。だからこそ。最後の最後に全てを投げ打って賭けてみたくなったのかもしれない。結局は誰かの評価の中で唾を吐くことで復讐と呼んでいた俺は何も知らなかった。路地裏に灯った赤は煙管の火だったか、ぎらつく瞳だったか。斯くして生き残った俺の認識までご丁寧に叩き割ってくれた暴力を『格好良い』と思ったのだった。
今日も今日とて他人の脱いだ着物を拾う背中は甲斐甲斐しい。通い妻御苦労さんとでも冷やかしてやろうか。まったく、どういう顔でそれを洗うってんだと観察していれば、随分と不満げな目とぶつかった。不貞腐れた子供に見えなくもない。
「なんかいつも距離遠くないすか」
「ン? いやだってお前コワ……じゃなくて気のせいだろ」
うっかり口が滑った。聞き逃してくれないもんかとへらりと笑ってみせるも時既に遅し。瞬間移動ばりの速度で目の前に現れた仄の手が勢いそのままに俺を掴んでいた。一生の不覚だ。がっちり両手を取られて逃げ場が無いわ近いわ、体重が徐々にかかってくるオマケまで付いてるのは勘弁してくれ。
「俺の何がコワいんすか??」
「そういうとこだよこのドアホ!!」
体格差で負けている訳でもないのに、なんでこんなに圧を感じるんだ。あと指、指絡めるのはヤメロ。うわ鳥肌立った。だから、そういうとこだってんだよアホノカ!
ふんぬと意地を込めて押し返せば路地裏で助けた頃よりも重さがある。健康的で結構だが抱えて逃げるにゃ面倒そうだ。まあ次は容赦なく置いて行くから関係ないな。捨て置く理由が増えて万々歳だ。
「だいたいお前のそれは——」
言いかけたものを今度は確りと腹の中まで飲み込んだ。
「それは、なんすか?」
——雛の殻を破っちまったせいでただ執着してるんでもなく、いっそ慕情じゃあねーか、と。口が裂けても、裂かれても、たとえ冗談にしても言ってはならない。言葉にすれば、いやさ考えるだけで災厄の種は根を張って立派な花を咲かせるだろう。感情に名前を付けるということはそういうことだ。向けられた熱の内情は理解不能としても、本能の鳴らす警鐘はきっと正しい。
「いんや。あれだ、あれ。喧しいとこが母親っぽいわ」
蓋をして繕って煙に巻く。そんなのは得意中の得意、だった筈なんだが。ただ首を振っても納得しない顔が我が意を得たりと輝くのを見て失敗を悟る。これ相手にはどうにも上手くいかない。頭が痛い。断じて昨日の酒が残ってるせいじゃない。
「家族ぽいってことっすか? いいっすよ、お世話は任せてください。上から下までムダ毛の処理でも、」
「やらんでよし!」
尻尾に力が入ったのはいつぞやの会話の後、交換条件として毛繕いに差し出した記憶が蘇ったからだ。なんだもういっそ剃ったら興味を示さなくなるんか。藪の向こうから虎視眈々とまあ油断も隙もない。いい加減忘れろ。喧嘩はからっきしの癖にお勉強は出来るもんだから妙に追い詰め方がそれっぽくて嫌になる。住処を移せばそれっきりだと何度も考えては辞めた理由のひとつだ。
「だからな、距離詰める時はもっと手順を踏めって話だ。そんなんじゃお前さん、女の子に逃げられちまうだろ」
俺でも逃げるさ。そう付け足したのは釘だ。ひとつ、ふたつ、と境界線上に打つように煙管を揺する。
「
遊び人の
「本気なら尚のこと、な?」
——俺は俺が勝つ方に
「それが恋の駆け引きってやつだ。以上、クソガキのための男の講習会終了! お疲れさん!」
そうして煙だけを連れて部屋を出る。狐に摘まれたと我に帰る頃には余計なもんを忘れて罵倒すればいい。それでいい。まあ、そもそもこれで諦めてくれる相手なら俺も苦労しないんだが。
「……ったく、厄介なもん拾っちまったな」
酒の肴にもなりゃしない!
ふらりと気まぐれに人を誑かす、世間から見た『悪い大人の見本』は女のヒモにはなっても俺のところへ転がり込むことはない。どう答えたら構ってもらえるか。どうしたら囲われてくれるか。今夜は何処へ飲みに行くのか。明日は何処へ帰るのか。一挙手一投足、隅から隅まで情報をを詰め込んで息を吸えば、あの日『怒り』とラベリングした感情がチリチリと音を立てる。曇りかけた思考回路を溜め息で散らして、今日は会いに行こう。何処までなら許されるか。踏み込み過ぎた途端に煙のように消える様は想像よりも呆気ないだろう。そうなる前に、燻らせている香りが俺にも染みつけばいいのに。その逆もまた、いつか——