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子守歌
登場人物一覧
依頼で帰るのが遅くなると、冬が近づいてきたのだと感じる。太陽が沈んだ後の空気は冷たくて、触れた皮膚から体温を奪っていく。もう少し季節が過ぎれば歩いているだけで耳が赤くなり、手がかじかんでくるのだろうが、今の季節はまだ、長い時間でなければ外で座っていることもできる。
今日見つけた場所は、誰もいない公園だった。木でできたベンチはほんのり冷たくて、しばらくの間誰もそこに座ってはいなかったのだと教えてくれる。動かない遊具、子どもたちの声のしない場所はどうしようもない寂寥感が漂ってはいるけれど、フーガが一人で歌うには丁度良かった。
いきなり、大きな声で歌うことはしないし、できない。きっと歌の上手いあの子ならば、こんな公園もステージに、薄い月明りもスポットライトに変えてしまうのだろう。だけどフーガは同じようには歌えない。だからまずは自分にしか聞こえないような鼻歌を口ずさむことから始める。
鼻歌だけでも、やはり自分の声は響く。喉を震わせるその音は身体の内側で響いて、音を確かに自身に届ける。その度に、「ああ、低いな」と感じるのだった。
声が低いのは当たり前だ。何せ自分は男なのだ。いつまでも子どものように高い声でいることはそうそうないだろう。だけど幼い頃の自分は声が大人になるのに合わせて変わっていくことを知らなかったから、ひどく戸惑い、傷を負ったのだった。
まだ、元の世界に居た頃の話だ。
「こもりうた、うたって」
母が歌ってくれて子守歌が、一番好きだった。母の慈愛の込められた声が耳をくすぐって、心を穏やかにさせる。柔らかな声と共に背中をそっと撫でられているうちに、胸の内が落ち着いてきて、深く優しい眠りにつくことができた。
だから六歳離れた妹が生まれた時も、母の真似をして子守歌を歌うことにしたのだ。
幼いレキエラは、同じ年ごろの自分のように、子守歌を喜んだ。それが嬉しくて毎日歌っていたのに、十歳を過ぎた頃から喉に違和感を覚えた。
声が掠れて、声が出にくくなった。母のように優しく温かみのある声を出したいのに、掠れた声では棘が混ざっているように思えた。
声変わりは男性なら成長の過程で皆体験する。しかし子どもの自分は、己に起きている変化が何なのかが分からなかった。
もう母のように子守歌が歌えないのではないか。そんな不安に駆られながら、声が元に戻ることを祈った。ただ、声がこのままだとしても、レキエラが安らかな眠りにつくことができるのならばと、子守歌を歌い続けた。
「もう子守歌はやめて」
しかし、彼女は子守歌を嫌がるようになった。
「どうしてだ?」
狼狽したフーガが理由を尋ねると、レキエラはむっと眉を寄せて、何で分からないのだとばかりに言葉を吐き出した。
女々しい。気持ち悪いと噂されているから、やめてほしい。恥ずかしい。
彼女の言葉が、視線が、フーガを真っすぐに刺した。そして、刃のように抜けなくなった。
「レキエラ」
がさついた声は、綺麗じゃない。妹の名前を呼ぶ自分の声にだって違和感を覚えるのだ。子守歌を歌うのには、あまりにも不釣り合いだった。
子守歌を歌うのは、女性でないと許されないのだろうか。母が幼い子どもをあやすときにだけ許されるのだろうか。なら、親でもない女でもない自分はいったい、どうして子守歌を歌えていたのだろう。
「ごめんな」
母の真似をして毎日子守歌を歌っていた自分が、途端に恥ずかしくなった。こんな恥ずかしいことを毎日妹に見せていたのだと思うと惨めで、彼女に対する申し訳なさが募る。
せめて喉が昔のまま、母のような優しい色が出せるものであればよかったのに。でも、声は取り上げられてしまった。きっと、もう戻ってこない。
両親はフーガの声の変化は声変わりというものだと、声はいずれ低く落ち着くのだと教えてくれた。子守歌を歌うのはいけないことではないのだと教えてくれた。でも、子守歌を聞かせたい人に嫌がられてしまったのだ。歌う意味なんかない。だから、「どうして自分は男なのだ」という思いばかりが重なった。
両親が言った通り、思春期が過ぎる頃には声の変化も落ち着いた。そして大人になるにつれて心の整理もついてきた。
歌うことすら避けた時期もあったけれど、鼻歌くらいなら今は平気になった。泣いている子どもをあやすために楽しい歌を歌ったり、夜なんかのトランペットを鳴らすと近所迷惑になる時や、戦闘の関係で仕方なく歌うくらいには、口ずさんだりすることができるようになった。ただ、歌詞を歌にのせるのは、未だに理由がなければ難しい。子守歌なんかは特に、理由ができたとしても人前では歌いたくなかった。
幸いというべきか、自分は管楽器を演奏することができた。歌うことは避けていても、誰かの歌に合わせて演奏をすることができた。だから『黄金の百合』は自分にとっての友達のようで、義理の兄弟のようで、自分の声を代わりに届けてくれる存在でもあったのだ。
だけど、本物のドラドは、元の世界に置いてきてしまった。知らぬ世界で新しく「弟」を得て、曖昧な夢のような、夢にしては随分鮮明な日々を過ごしていた時に、彼女に出会った。
彼女も、歌を歌う。優しく可愛らしい声で、子どもに語り掛けるように歌う姿を知るうちに、子守歌を歌う姿がとても似合いそうだと思った。
羨ましいと思う。だけど彼女の「子守歌」の、安らぐ音色は彼女そのものだ。フーガが真似することは、できない。
だけど、もし。もしも彼女がフーガの声を好きだと思ってくれるのなら、そして彼女にも孤独に苛まれるような、寂しい夜があるというのなら。いつか『黄金の百合』や他の楽器を通して伝えた音ではなくて、自分の口から子守歌を口ずさみたいのだ。そうして彼女に、穏やかで優しいまどろみを与えてあげたい。
鼻歌を歌うのをやめて、ゆっくりと息を吸って、吐き出す。それを何度か繰り返して、フーガは小さな声で、言葉を音色にのせた。
唇が震えているのは、緊張しているからか、それとも過去を思い出すからか。子守歌を歌い始めると様々な出来事が頭を駆け巡るけれど、彼女の優し気な表情を思い出すと、胸に走る痛みは引いていく。そうして震える唇は、優しい音を奏でる役割を取り戻していくのだった。
本当に彼女の心を癒したいときに、心の底から子守歌を歌えるように。たった一人で、夜の空気を震わせる。
いつか彼女に、この歌を届けられるように。
おまけSS『鼻歌』
子守歌の練習をしたら、随分時間が経っていた。身体が冷えてから気が付いたことに自分でも驚いたが、それほど集中していたのかもしれなかった。
冷たい空気の中軽くステップを踏んで、身体を温める。暗い帰り道でも、たったそれだけでわくわくとしたものに思えてくるから不思議だった。加えて鼻歌を口ずさむと、楽しい気持ちが膨らんでくる。
ここにあの子がいたらもっと楽しいだろうかと考えて、思わず頬が緩んだ。月明りの下でステップを踏んで、二人で踊れるとしたら、何だかロマンチックだ。
膨らんだ想像を鼻歌で包みながら、フーガは道を歩く。ふわふわとしているようで、穏やかな帰り道だった。