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ここが地獄の一丁目
登場人物一覧
●華咲かせ
――じゃあ、お望み通りひどいこと、してやるよ。
その言葉を聞いた時、鬼の娘は三日月に目を細めた。
売り言葉に、買い言葉。
煽りすぎて痛い目を見た回数は一度や二度ではないのに、娘には――澄恋(p3p009412)にはそれがやめられなかった。
自分の言葉ひとつで、ひとの心が変わる。
煽られ、視線を、心を、自分に向けてくれる。
踏み込んでくる男――耀 英司(p3p009524)に合わせ、澄恋も踏み込む。常ならばカウンターを狙うところだが、これは模擬戦。お相手を飽きさせないように相手をするのも婚活女子の
事の発端は――はっきり言って、澄恋が悪い。
『代金は不要、もし送ってきたらひどいことをする』と言って品物を贈ったのに、この娘ときたら宝石を送り返し、更に『ひどいことしてくれるんですか?』等と挑発してきたのだから。
「その荷物は?」
「怪我をした際の応急処置の道具だ」
「成程、存分にやり合える訳ですね!」
まあそんな感じだと返して距離を取る英司に、澄恋は微笑ましい気持ちを覚える。
(応急処置の用意までしているだなんて、英司様ってばやる気充分な感じですね! そんなに運動したかったのでしょうか?)
勿論先だってのやり取りは覚えている。覚えているけれど、彼の選んだ『ひどいこと』が模擬戦であることも可愛らしい。ひどいことと言えば――澄恋はもっと色々と思いつくのに。
「とってもか弱いので、本気で参りますよー!」
ならば存分に身体を動かしましょう!
それが模擬戦開始の合図。
地を蹴った澄恋が、英司が空けた距離を一気に詰めた。か弱さの欠片も感じられない爪状の鬼血は真っ直ぐに英司の喉を狙って前へと伸ばされる。
「か弱いってなんだったっけなァ!」
澄恋の腕を手の甲で払い除け、返す手でそのまま手首を掴んで投げ飛ばす。
幾重にも重なる花嫁装束が宙で弧を描き、愛らしい鼻緒が彩る草履が地につくタイミングを狙って拳をぶつけるべく、澄恋の『左側』を狙って腕を振るう。
「っ」
澄恋の反応が遅れる。
左の瞳は、怪我のため閉ざされている。
咄嗟に防御姿勢を取り備えるが――衝撃はいつまで経っても襲ってこない。
「……?」
確かに英司の腕が動き、左側から澄恋を襲撃したはずだ。
痛みが来ないと言う疑問は、涼しくなった頭部と髪に触れる何かの感触によって解かれる。
「英司様? 何のお戯れを?」
不思議に思い後ろへと手を伸ばせば、綿帽子が飛ばされた髪に柔らかな花の感触。
「気にするな。ほら澄恋、呆けている暇はないぞ!」
「また左からですか!?」
「戦場ではそうも言っていられないだろ」
英司は澄恋の左側――英司を庇ったことで怪我を負って増えてしまった死角を執拗に狙って動く。途中からその行動が死角への対処を覚えさせようとしているのだと気付いた澄恋はその動きに合わせた動きへと切り替える。が――
「庇えば此方ががら空きだぞ」
左を庇うように動けば、右側から英司は赤いカーネーションを挿していく。
「英司様がいじわるばかりするのなら……!」
傷ついた左目を、無理やり開ける。左目を無理に使えば治療期間が伸びることを知りながら。
「――ッ」
傷痕が生々しい瞼が開き、濁った瞳がギョロと動く。
息を飲んだ英司が動きを鈍らせると、すかさず澄恋が「隙きありです!」と懐刀で切り込んでくる。
(何故動きを止めたのでしょう。……解りませんが、これは好機ですね)
澄恋が怪我を負ったのは澄恋のせいだ。身を挺することを決めたのは澄恋なのだから。
だから澄恋には、英司の心の機微など解らない。
彼が澄恋の左目を気にかける気持ちが解らない。
隙きを生じさせることが出来るのなら、積極的に使える戦法だとすら思った。
それが、いけなかった――。
つまりはやりすぎて、模擬戦を長引かせてはいけない、という判断がくだされたのだ。
「澄恋」
荷物から応急処置の道具を取り出した英司が澄恋を呼び手を差し出す。彼が手にした火で炙った針と糸で察した澄恋は、素直に彼の手へと傷ついた腕を載せた。
花嫁衣装が赤に染まっている。袖を落とされた
滲みるぞと短に口にした英司がアルコールを掛け、針がつぷりと柔肌に食い込み痛む。針先を覗かせては消えていく鉄の気配と、しゅるりと糸が通っていく異物感。眉間と唇に力を籠めた澄恋は、痛みがあるだろうに声を零さなかった。
「病院でちゃんと綺麗に縫い直してもらえよ!」
「おお~、傷縫えるなんて器用ですね!」
キュッと包帯を巻かれた腕を振り回し、痛みなど始めからなかったかのような顔で澄恋は英司に感謝を伝えた。明るく元気に、いつもどおり。へこたれない娘であるのだとその身で示し、怪我など負っても全然気にしないのだと、むしろ「ひどくしてやるってこの程度ですか?」と大した事ないですねぇなんて煽る余裕すら見せてやる。
傷が塞がりさえすれば、イレギュラーズとしての活動にさえ問題がでなければ、澄恋には傷など問題ではなかった。元々綺麗な身体でもない。傷痕が残っても気にしないため、英司が縫ってくれたままで良い。
けれど。
「え、」
大丈夫ですと腕を振り上げた姿勢で、澄恋は目と口をまぁるく開いて固まった。
「英司、様……?」
一体、何を。
つい先刻まで彼は余った包帯を巻き直していた、はずだ。
それなのに。それなのに、何故。
何故彼は
「君に傷をつけたんだ。俺にもつけるのが道理だろう」
澄恋と同じ左腕に、澄恋と同じだけの深さと長さの傷。
それを、英司は自ら刻んだのだ。
英司は驚く澄恋をそのままに、こんなもんかとナイフを手放すと、自身の腕も縫おうとする。
(……何故)
澄恋には理解が出来ない。
何故彼はこんなことをしたのだろう。
(ご自分を刻むのが趣味……? いいえ、これまでそんな姿は見ていないはず)
ぱちりと瞬いて菫色に彼の姿が浮かぶ度、疑問だけが増えていく。
流石に自身の腕を縫うのは手際が悪く、苦戦している英司の手から澄恋は針を奪い取った。
「すみ……」
「おっと、英司様。動かないでくださいね。わたしも旦那様の縫合をしますが、英司様ほど器用ではないので!」
「澄恋」
理解できない気持ちを一旦横に置いた澄恋の頬に、包むような熱。
親指がゆっくりと頬を撫で、意識を向けさせる。
『何故俺がこうしたかを考えてみてほしい』
そう、告げているようであった。
「はい、英司様! 縫えましたよ!」
胸を巡る血流が大きく跳ねるのを感じながらも、澄恋はなんとか縫合を終えた。包帯の下の英司が縫った痕よりも酷い有様だが、必要以上にそうなってしまったのは英司のせいだ。
――英司様が邪魔をするから!
「いつもはもうちょっとマシなのですが……」
「いいや、これでいい。ありがとさん」
「……英司様こそ病院で縫い直してもらってくださいね」
「澄恋がちゃんと病院で縫い直してもらったらな」
澄恋の頬が焼けた餅のように膨らんだ。
全くもう、このひとはああ言えばこう言うのだから。
「それから澄恋」
「なんですか、英司様。先程の模擬戦のことでしょうか? あっ、そういえば。どうして花ばかりを挿すなどと酔狂な真似をされたのです? おかしな戦い方で驚かせる作戦でしたか? でしたら作戦は成功ですね。わたしも少し驚――……」
向かい合って座したまま、思いつくままに言葉を並べていた声が途切れた。
静かに差し出された小さな袱紗包みにぱちりと瞬き「これは?」と視線のみで問えば、「開けてみてくれ」と落ち着いた声が返ってくる。まるで澄恋の反応を楽しんでいるようにも思え、澄恋は首を傾げながらも彼が差し出してきている包みへと手を伸ばした。
(なんでしょう? 化膿止め?)
手の中に招いたそれは、随分と軽い。
それに、かなり薄い。
ますます不思議に思い、澄恋は素直に袱紗の端へと指をかけた。
菫色のそれを、そっと捲る。
最初に目に入ったのは、覚えのある色。
次に目に入ったのは、温かみのある木の色。
細やかに丁寧に削られた木肌に、行儀よく並んだ細い櫛歯。
「英司様、これ」
澄恋が送り返した宝石が花のように咲いている、柘植の櫛。
宝石は「礼は要らない」という彼に送り返したものだ。そして今日の模擬戦の原因でもあり、してやったりと彼から一本取った気でいたものだ。それが、まさか。まさか、こんな形で返されることになろうとは。
「それと、これもだ」
応急処置の道具だと称して持ってきていた荷物からは赤い花が描かれた小瓶。
そうしてやっと澄恋は、模擬戦で櫛や瓶が壊れないようにと荷物を別にしていたことに気付いたのだった。
「綺麗な髪だからな。いつか渡したいと思っていた」
よく梳れば、髪は一層艷やかなものとなる。深窓の令嬢は毎日椿油で保湿をし、何度も梳り、美しい艷やかな髪を保つ。髪に
そして、それとは別に――。
(英司様は、どこまでご存知なのでしょう)
櫛を贈るということは、それ即ち、豊穣では求婚を意味している。
しかし英司は殿方で、
(……この様子なら伝わったか?)
先程までよく動いていた花唇が動かなくなったのを見て、英司は思う。
口にはしないが、勿論、確信犯だ。
自身を労って欲しい。
澄恋が傷つくことで傷つく存在が居ることを理解して欲しい。
英司に大切にされているのだと、意識して欲しい。
――共に白髪になるまで添い遂げよう。
――辛く苦しくとも、寄り添い合って生きていこう。
そんな意味を籠めて贈られる櫛を渡し、告げるのだ。
「例え地獄のどん底でも、ついて来てくれるんだろ。澄恋」
仮面の下で彼がどんな表情をしているのか、澄恋には解らない。
地獄に落ちても一緒だと、既に誓っている。
けれどこの状況とその言いようでは、まるで、まるで――!
髪は女の命、という言葉がある。
けれど澄恋にとって、その言葉の意味は違った。
生活が苦しかった澄恋にとっては、髪は
だから戦闘で斬られる可能性があろうとも迷いなく敵の眼前へと飛び込み、その身を犠牲にすることも出来る。髪など、切れても勝手に伸びてくるのだ。命よりも随分と安い。
それなのに、こんな大切なものを貰ったら、大事にせざるを得ないではないか。
澄恋は大事に大事に、両手でぎゅうと櫛を握り締める。
心に暖かさが満ちて、どんな表情をしているのかを自分でも掴めない。
胸は騒がしく、余裕などとうにどこかへ行ってしまっている。
ああもう、本当に。
これでは
「ほんと、いじわるなひと……!」
仮面の下から聞こえる笑い声が憎たらしい。
憎たらしいはずのその声が、どうしてこんなにも愛しいと思えてしまうのだろう。
頬が花色に染まるのを止められそうにない。
「澄恋」
柔らかに名を呼ばれる。愛してくれていた頃の義父にだって、そんな風に優しく呼ばれたことはないのに。
英司の手が澄恋の髪の一房をすくい取り、まるでそこに口吻を落とそうとするかのように持ち上げる。
「――俺は君の髪が好きだ」
定期的に確認するからな、なんて。告げる言葉がずるい。
その声に、澄恋の全て愛してくれているのだと勘違いしてしまいそうになる。愛される資格なんて、ないのに。
本当に本当に、いじわるな人。
嗚呼、増々あなた色に色づいてしまいそう。
勿論、地獄のどん底であろうとも。
色づく花色は、あなたの前だけで。
枯れる前に、どうぞ手折ってくださいね。